オオクニヌシは怨霊じゃない。a
出雲神話のオオクヌニシは「怨霊」である。みたいな説を粘り強く主張されている方がいる様なのですが、間違いだと思っています。よく言われる主流となる反論法に「当時には怨霊という言葉も概念も無かったから」というのがあると思うのですが、それだと大王が存在した古代に「天皇」という言葉が無かったから古代天皇は存在しなかった……というアレになるので、その反論法は採りません。
後の時代の怨霊という概念と関係が無くとも、言わんとしてる所、つまり政治的に恨みのある王や有力者の霊魂の呪いを恐れてそれを祀るという意味で怨霊と言ってるのでしょうが、そうだとしても間違いだと思っています。
そもそも論としてオオクヌニシは架空の人、では無くて架空の神様であり、オオクニヌシに複数の名前がある事から多数の神格を統合して作成された神様だと考えるのが普通で、複数の名前を統合して出来た神を実在の人としてそれの怨霊を恐れるというのはナンセンスだと思っています。
四隅突出型墳丘墓王朝=真出雲王朝 ≠ 大和朝廷の幻想上の出雲
もう一つ大きな理由があると思っていて、所謂記紀神話に載っている古代出雲という物と、四隅突出型墳丘墓を作った出雲から北陸までを含む「四隅突出型墳丘墓王朝」が本当に同一の物なのか? という強い疑問があります。オオクニヌシが大和朝廷の神話が成立する時に複数の神々を合成して作られた様に、同様に記紀神話の出雲国も言葉は悪いですが大和朝廷の都合の良い様に作成された幻想上の国だと考える方が自然です。特に四隅突出型墳丘墓と天に届く様な高い木造の寝殿というのは明らかに祭祀として開きがあり過ぎます。
よく古代からの伝承みたいな言い回しがあるのですが、よく聞くと平安時代や鎌倉時代の発祥の伝承である事が多いと思います。そもそも記紀自体が奈良時代の成立なのだから、幻想上の出雲国の文化もその時期に成立したと考えるのが素直だと思っています。
また記紀神話の中で出雲神話の占めるスペースが多いから、古代出雲は日本中に強い影響力を持った宗教国家だったという考えが強い様ですが、記紀神話と出雲国風土記ですら内容に開きがある事から、本当に記紀の出雲神話が「四隅突出型墳丘墓王朝」の実情を伝えている物か疑問があると思っています。
・記紀神話を南総里見八犬伝に例えれば分かりやすいと思います。
四隅突出型墳丘墓王朝(真出雲王朝) ≠ 記紀上の幻想の出雲国
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実際の大名里見家 ≠ 里見八犬伝の里見家
里見八犬伝を真実だと思い込む事と、記紀の神話を事実と思い込んでオオクニヌシは怨霊だとか言い出す事は非常に似ていると思っています。八犬伝が江戸時代の小説だと分かっている為にそうした誤解は起きにくいですが、記紀神話も要は週刊少年マンガと似た物だと思っています。
出雲が古代の霊場に選ばれた理由?
記紀神話が出雲を古代の霊場に選んで「整備」した理由には大きな二つの理由があると思っています。一つはやはり「四隅突出型墳丘墓王朝」が政治力が大きかったので、特別な地位を与えたという事と、もう一つは九州の宮崎を大和朝廷の発祥地と選んだので、その鬼門の方向、北東方向を霊場に選んだという事があると思っています。
古代大和朝廷が九州宮崎を発祥の地と選んだ理由は、当時ようやく日本全国に版図を広げた朝廷が最果ての宮崎の地と元々縁続きであると設定する事で、朝廷の力を強化する為だった、江戸時代で言えば徳川家が島津家と縁戚を結ぶみたいな物で、その関係上鬼門の北東に位置する有力国家の出雲に「霊場」という栄誉を与えのが記紀神話の出雲神話の真相だと思っています。しかしこの考えは当時に鬼門の発想があったのかどうかが重要だと思うのですが、残念ながら知らないですが……
しかし江戸時代になって新首都江戸の北東の東北地方が霊場に設定されてイタコが出て来たりしたので、あながち間違いでは無いと思っています。
この出雲大社の宮司として有名なのが出雲国造の千家家ですが、この一族は天穂日命を祖とする立派な天孫の出となっています。第10代崇神天皇の時代に国造の兄弟が争い朝廷に従ったという内容がある事から、この近辺の時代(古墳時代の始まり)に次第に出雲地方が緩慢に大和朝廷に組み込まれて行ったと考えるのが自然で、記紀神話の国譲り神話はロマンチックですが、あの神話の通りオオクニヌシに該当する人が、いきなり殺害されて怨霊化する、というような発想は当時は毛頭無かったと思われます。何しろ破壊されている物もあるが、四隅突出型墳丘墓の多くが放置されて残されている事が、平和的な権力移譲を想像させます。信長の息子が伊勢に養子に入る様な事が、古代の朝廷と出雲の間で起こったと考えるのが自然です。
大和朝廷が版図を広げる中であちこちで同種の征服があったでしょうが、特別に出雲神話が強くピックアップされている為に、怨霊にまでなったと誤解されていると思っています。しかし実際には出雲が記紀神話で重要な地位を占めた事は、怨霊化する処かかなり名誉な事だと思われ、だからこそ平安時代から時の権力者=朝廷は、その権威を示す為に仮に存在すれば巨大な神殿を建立したと考えるのが自然です。要は平清盛や足利義満が巨大な仏教塔を建造する事と全く同じです。
数え歌で、出雲大社が大極殿より高いと伝えられてるから怨霊に違い無いとは単純極まりない推測だと思っています。出雲の権威を喧伝したのは当の大和朝廷だという事に留意するべきだと思います。
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