初期ヤマト政権は豪族連合政権じゃない! 唐古鍵から纏向へa
中臣鎌足は扶余豊璋んな訳ない! と書いたのですが、そういう事を書いている本を読むとかなりの割合で「初期ヤマト王権は豪族の連合政権であり、当初大王の権力は小さく弱い物だった」……と書いてある事が多いです。
全くの間違いです。何故そういう事を書く人が居るかと言えば、それは「記録時代に入ってからの大王権力が偶然弱かった時期だったから」これに尽きます。この記録時代の始まりというのが飛鳥時代や奈良時代に当たり、ちょうど蘇我氏や物部氏やのちの藤原氏などの豪族の権力が伸張していた時期に当たります。
では飛鳥時代や奈良時代の前の古墳時代はどうだったのかと考えた場合、奈良や大阪中心に巨大な前方後円墳、大王墓=天皇陵が乱立していた時代で、こうした時代に大王(のちの天皇)の権力が小さい訳が無いです。つまり天皇中心の強力な政治が行われていたと考えられます。その事は古事記日本書紀を見ても神武天皇や崇神天皇に始まり、大遠征期に入った景行天皇や仲哀天皇・神宮皇后の時代、大阪に拠点を移した応神天皇から権力集中した雄略天皇の時代とずっと天皇中心の政治が行われていたと書かれてある事からも明白です。
それと飛鳥時代や奈良時代との一見豪族連合に見えてしまう状態をどの様に考えれば良いかと言えば、適当な例で言えば室町幕府に例えれば分かりやすいと思います。室町幕府も足利尊氏が先の建武新政を武力で打倒し、足利義満なんかが絶頂時代を築く訳ですが、やがて権力が衰退して足利氏は各地の有力大名に担がれる様な存在になってしまった訳です。(建武新政を倒した足利氏を例にするのはちょっと嫌ですが)
それで例えば「最後の将軍足利義昭は各地の権力者に頼り最後は信長に追放される脆弱な存在だった。だから室町幕府は最初から有力大名の合議制による連合政権だった!」とか言い出す人がいたらどう思いますか? いやいや「初期は足利尊氏という強力な指導者がいたりしたよ」と言うと思います。「途中の断面」を見て「最初期を決め付ける」のは間違いです。
初期ヤマト政権も成立期や最盛期や衰退期を一定のリズムで繰り返していると思われて、飛鳥時代や奈良時代は当然古墳時代よりかは天皇の権力が多少小さくなっている様に見える部分もあります。特に蘇我氏みたいなのが出て来るとそれが一層際立って見えるけど、それが最初期ヤマト政権までそういう状態だったとは言い切れない訳です。
それと初期ヤマト政権は豪族連合政権だったとかと同じ様に、纏向遺跡は伊都国と出雲と吉備と東海勢力による連合政権だったとか色々言い出す方も多いのですが、それらは全て間違いだと思っています。当然最初期は小さな環濠集落とかのリーダー(村長)から出発しただろうから、その時は強力な権力があったと考えるのが当然です。
何故か無視されまくる「唐古・鍵遺跡」
この初期ヤマト政権の成立から繁栄までを物語る様な大環濠集落遺跡があって、それが唐古・鍵遺跡でこの遺跡は弥生時代前期の地層からは縄文土器が出土し古墳時代の始まりまで長く繁栄していた巨大な都市で、実はこの遺跡が初期ヤマト政権の始まりと考える人が多いです。所が何故か無視されまくるという特徴があります。
何故無視されまくるかと言えば、その近傍にある纏向遺跡と箸墓古墳がインパクトがあり過ぎて無視される割合が高い気がしています。
しかし理由はそれだけでは無くて、纏向遺跡と言えば大型建物が出土したり大量の桃の種が出て来たりして、ここを無理やり邪馬台国と結びつける風習があり、箸墓古墳を卑弥呼の墓などと言い出す人が多く、そういう人々にとっては唐古鍵遺跡は「邪魔もの」という訳なのでしょう。
何故邪魔かと言えば邪馬台国を纏向にしたい人々からすれば「突如卑弥呼と同時代に出現した計画都市!」という事にしたいので、その前史となる唐古鍵があったら困るのです。
続く。




