だって、愛していますから。
一回やってみたかったやつです。
「やあ、アリィ。婚約が決まったそうだね、おめでとう。進言した甲斐があったよ」
「アレクシス殿下、ご機嫌麗しゅうございます。我が国の光にお祝いのお言葉を頂戴できましたこと、末代までの誉とさせていただきたく存じますわ」
「堅苦しいのはよしてくれ、私と君の仲じゃないか」
アリアンヌ・クレメンズはこの国の筆頭公爵家の次女であり、アレクシス・ゴードン第一王子と同い年であった。
生まれ月も同じだという二人の生まれた折、国王と公爵はこの国は安泰だと肩を組んで酒を飲みかわし、翌日は酷い有様で王妃と公爵夫人に雷を落とされた……とは、関係者には有名な話である。
二人の名前がどことなく似ているのもそのためらしい、と聞いている。真意は定かではないがまあ概ねその通りなのだろう。
さて、国の安寧に酒を交わした両家の父親ではあったが現在このアレクシス王子の婚約者はなんと子爵令嬢である。
この国は子爵以上は慣例として学園に通うことを推奨されている。もちろん地方貴族は王都に子供をひとり寄越すのもなんなのでガヴァネスなんかを雇い入れることも珍しくないが、王都近くの貴族たちは病弱だとかなにか理由がない限りは学園に通わせるほうが多い。
これは勉学そのものより社交だとか貴族社会の慣習を実地で学習させるためなのだがまあ細かい話は置いておく。別に学園内は身分に関係なく平等とかそんなことは一切ない。
通常の夜会であっても高座にいる王家関係者の周辺にいるのは例外なく高位貴族でそれ以外は壁沿いに色を添えることが多い。なんなら伯爵家以下はそういった催しに参加できないことも珍しくはない。
まあ、政治的な話も一旦置いておく。
ではどうして子爵令嬢と王子が婚約に至ったか。
身も蓋もない言い方をするのであれば王子が彼女を愛してしまったからである。
で、あろうことかこの公爵令嬢が手を貸してしまったのである。
王子の婚約者になるのはまず間違いなくアリアンヌ・クレメンズだろうと誰もが思っていた。二人は仲睦まじい様子であったし、両家がすっかりその気だったからというのもある。
だからポッと出の子爵令嬢の話を出した時、陛下は絶叫し妃殿下は卒倒したそうだ。それはまあそうだろうと思う。
加えてその後押しをしたのがアリアンヌだったものだから二度絶叫し、卒倒したと聞く。お二人にはお可哀想なことである。
「あのねえ、あなたにもわたくしにも婚約者ができたのよ。アリィだのアレックスだの呼んでごらんなさい、すぐ大衆演劇の脚本にされるわ」
「あっはっは、それもそうだ。しかもご令嬢の敗れた恋路ということになるだろうね」
「ええ、ええ。ご理解いただけてなによりよ。愛しいあなたのお姫様とのロマンスのほうが盛り上がりそうだもの」
こんなに仲がよさそうなのに、と思う。二人が連れ立って歩いているのはとても絵になったし今もそう思う。件の子爵令嬢は決して不美人ではないけれどすべてにおいてアリアンヌ・クレメンズに負けていた。家柄も、美しさも、気品も、教養も、すべて。
アレクシスはその婚約のせいで王位継承権を危ぶまれている。一枚岩ではない貴族連中が裏でどういっているかは想像に難くない。なんせ子爵家には後ろ盾が何もないからだ。寄子でも養子でもいいが、高位の家柄に連なったとしてその血は変えようがない。アリアンヌの血のほうが正しく青い。
「すまないね、バロック。君の婚約者をつい癖で呼んでしまったよ」
「いえ、お気になさらないでください。お二人がそう呼び合っていたことなど五年も前から存じ上げています」
「ちょっと、殿下の幼いころの癖だと言って甘やかしてはいけなくてよ、あなたが強く言わないでどうするの」
で、そのアリアンヌ様の婚約者というのが俺である。
バロック・ルベイン。家格はやや下の侯爵家の次男。
普段は同い年のこの王子殿下の側近というか助手のようなことをしているが、そのせいでアリアンヌ様の婚約者にちょうどいいと後押しされたんじゃないのかと本気で思っている。殿下は俺を信頼してくれているがそれでアリアンヌ様に俺をあてがおうなんてひどい話だと天を仰いだ。
だってきっとアリアンヌ様は……
「殿下、王妃殿下がお呼びでございます」
「母上が? すぐ行く。ではアリアンヌ、すまないが私はここで。バロック、彼女を馬車まで送ってくれるか」
「かしこまりました。アリアンヌ様、不肖、このバロックにエスコートする栄誉をお与えください」
「よくってよ。では殿下、またお目にかかった折」
二人が背を向け正反対に向かって歩き出す。
アリアンヌ様は慣れた手つきで俺の肘にゆるく手をかけて姿勢も崩さず優雅に歩いて見せた。何度も何度も見てきた。隣ではない場所から、彼女の御父上に手を引かれる姿を、彼女の弟に手を引かれる姿を。王子殿下が手を差し伸べるところを。何度も、何度も、離れたところから。
「まったく、殿下はバロック様に甘えていて困ったものね」
「甘え、ですか。そんな感じはしませんが」
「まあ、あなた婚約者が目の前で別の殿方に愛称で呼ばれたのよ。わたくし、もうデビュタント前の幼子ではなくってよ。あなたがわたくしのために諫めてくださらなくては嫌よ」
「それは失礼いたしました、以後気を付けます」
「そうして頂戴。まったく、わたくしはあちらの婚約が決まったころにはもうアレックスなんて呼んでいませんのに、失礼しちゃうわ」
ぷう、っと頬を膨らませるその様子がいつもの気品に満ちた彼女とは全く違うので思わず頬が緩んだ。可愛らしい一面があるんだな、というのもこの五年間で何度も見ている。気を許した相手の前でしかしない仕草、というものがいくつかあって殿下について回っていた自分はおまけのようにそれを見ていた。やっぱりこの二人は特別に睦まじいのではないか、と。
だからこそ殿下の婚約も一時の気の迷いなんじゃないかと思うし、本当にそうだったとした場合自分と彼女の婚約は白紙撤回される可能性が高い。間に合うのならば彼女を王子妃に推すものは多いだろうから。
「アリアンヌ様、質問をしてもよろしいですか」
「あなたとわたくしの仲だもの、何でも聞いて頂戴」
「……なぜ、殿下と子爵令嬢の後押しをなさったのですか」
「変なこと聞くのね、わたくしの声があったら確実にあの二人が結ばれるじゃないの」
「それは、そうですけど。アリアンヌ様にはなんのメリットもないでしょう」
「メリットならあるのよ」
「どのような?」
「あの二人がくっつくことによって私にはいいことがあるの。今はこれ以上教えられないわ」
「いいこと、ですか」
「ええ。だって、……愛していますから」
ぐわん、と側頭部に岩でも当たったかのような衝撃を受ける。愛している。誰を? 今の話し方から察するにやはりアレクシス殿下を愛しておられるのでは?
自分が婚約者に、なんていうそれではない。きっと殿下の新の幸福を願うような深い愛情だ。殿下はそれを知らないのではないか、知らないで、気の迷いで、別の女性にうつつを抜かしているのだとしたらアリアンヌ様があまりに報われないじゃないか。
この人と婚約者? 自分が? 自分はそんなに深く彼女を愛せるだろうか。たとえば殿下がいざアリアンヌ様を欲したときに彼女の幸せを願って笑顔で後押しできるだろうか。
無理だ、絶対に無理だ。偶然のような幸運で手に入れた婚約者の座ではあるが、自分の五年間はそんなに甘くないし、深くもない。一度手に入れた愛する女性をほかの人といたほうが幸せになれるだろうと応援することなんて絶対にできない。
彼女はそれをやってのけた。やはり生まれたときから傍にいると特別なのか。その愛は恋でもあり、家族でもあるのだろうか。その境地に至れば愛する人の真の幸福を、自分以外との幸福を祝福できるのだろうか。
「バロック様?」
「アリアンヌ様は、その……とても、愛情深いのですね」
「まあ、そう見えて? そうだったらいいけれど、こう見えて結構利己的なところもありますのよ」
「そんな風には見えません」
「あなたには、そう思ってもらえたほうが良いかもしれないわね」
ああ、やっぱり。なんてことだろう。なんて慈悲深い献身だろう。
彼女は本当はアレクシス殿下を愛しているのだ。
◇◇◇
「ですから殿下、どうか私と彼女の婚約の撤回にどうかお力添えください」
「待て待て待てどうしてそうなったんだ、落ち着いて話を聞かせてくれ。アリィ……アリアンヌのなにが気に入らないというんだ」
「気に入らないなんてそんなわけないじゃないですか! あんなに素晴らしい方を差し置いて子爵令嬢とご結婚されるおつもりですか?」
「どうして急にお前まで父上たちみたいなことを言うんだ」
まあ座って、と殿下に椅子をすすめられ素直に従う。これは従者じゃなく友人として話をしようという態度なので御前であることを理解した上で不躾なため息をついて見せた。
なんだその顔は。解せないという顔だ。そんな顔をしたいのはこちらのほうだ。
「たしかに子爵令嬢はいろいろ頑張っているよ、けど血筋はどうにもならないだろう。今から婚約を撤回しても誰も文句は言わないはずだ」
「なんでそうなるんだ。僕は彼女を愛している」
「気の迷いじゃないのか? 本当にそうなのか? お前、十年以上アリアンヌ様と過ごしてるのにどうしてほかの女性を選べるんだ? 俺にはさっぱりわからない」
「そりゃまあ彼女はよく出来てる、というか出来すぎているほうだと思うけどね。別に完璧ではないのも知ってるし、幼馴染だからお互いどうこう思えないのもあるよ。兄弟みたいなものさ」
「お前はそう思っていたとしても……っ」
兄弟のような、なんて残酷な言葉だと思う。絶対にありえない、と言っているのとなんら変わらないそれをきっと彼女本人にもこぼしたことがあるだろう。まあ我々は兄弟のようなものだよね、ええそうね、なんて話をしたことがないわけがない。
それを彼女はどんな思いで聞いたのだろう。辛くはなかっただろうか。あとで泣いたりしなかっただろうか。ありえたかもしれないその場面に自分が居なかったことが悔やまれるくらいには俺は彼女を愛してしまった。
だからこそ、誰かを愛したままの彼女と結婚なんてできない。
これは彼女のような献身ではなくて、酷く自分勝手な都合だ。こんなにも愛しているのに、アリアンヌ様がアレクシス殿下をこれからも愛しているかもしれないという状況に耐えられない。
女々しい話だ。彼女は愛した人間の幸福を後押しした挙句、その男が選んだ別の男と婚約した。そりゃあ家格や関係値のつり合いは取れているかもしれないが、俺はアリアンヌ様に「この方は器量がいいのよ」と別のご令嬢を紹介された日には舌を噛み切るぞ。
「俺はアリアンヌ様を愛してしまった。だから、アリアンヌ様が他の誰かを想っている状況が耐えられない。だったらいっそなかったことにしたい」
「…………アリアンヌが他の誰かを想ってる、とは」
「俺の見立てではほかでもないお前だ」
「それはない」
「ないわけがあるか! 彼女に聞いたんだ、なんでアレックスの背を押したんだと。自分の意見があれば二人は結ばれるだろうと。どんなメリットがあるんだと聞いたら愛しているからと言ったんだ!」
「……それは、バロック。いや、あのな、冷静に思い出してほしいんだが、彼女は“アレクシスを愛しているから背を押した”とそう言ったのか?」
「お前の後押しをするメリットが愛だというならそういう意味だろう」
「じゃあ“アレクシスを愛している”とは言ってないわけだよな?」
「まあ、直接そんな言い方はしてないが、言えるわけないだろうそんなの」
はあああ~、と深くため息をついてアレックスはずるずるとだらしなく椅子から腰を滑らせる。あまつさえ目頭に手を当てて頭が痛いとでもいいたげなポーズだった。どういう感情だ、それ。
「アリィが可哀想になってきた」
「最初からそう言ってるだろ」
「違うんだよバロック、そうじゃないんだ」
そういうとアレックスは手近な紙にさらさらと何か書きつけてメイドに「最優先、急ぎだ」とそれを押し付けた。
大慌てで部屋を出て行ったが何を言いつけたのだろう。いやそんなことより。
「だから最初の話に戻るが俺の婚約を推したのはお前だろう、撤回させる責任をとれ」
「そんなことしたら一生恨まれるじゃないか」
「誰に?」
「アリィにだよ!」
相変わらず癖なのかアレックスは彼女をアリィと呼ぶがその表情が焦りであることを如実に表していた。親しいからとか特別に思っているからとかそういう顔じゃない。焦りから癖が出ているだけだ。どちらかというとダメージモーションのそれである。
「いいかバロック、これは僕とアリィだけしか本来知らない話なんだ。この話をしたって言ったら僕は彼女から殴られるかもしれないくらい重要な話だ」
「アリアンヌ様に殴られる……?」
「想像できない、みたいな顔するな本題はそこじゃない。大切なのはアリィの手助けは一種の取引だというところなんだよ」
「取引ぃ?」
本人がいないと、とアレックスは黙ってしまった。まだ話は終わってない、と声をかけようとしたところで先ほどのメイドが戻ってくる。ぜえはあと息を切らせながらお連れしました、と部屋に通されたのは今まさに話題の中心であるアリアンヌ様その人だった。
「ご苦労、きみは少し休め。アリィ、こっちへ来て座ってくれ」
「アリィって呼ばないでくださる?」
「今それどころじゃないんだよ!」
いつもの泰然とした王子面がすっかり留守だ。学友の前ではこういう奴だとわかっていても久しぶりに見たような気がして少し驚く。
得心いかぬ、といった表情で彼女も座る。なぜ呼んだんだ、まだ話している最中だったのに。
「単刀直入に言う、バロックは君との婚約を解消したいそうだ」
「えっ!?」
さぁーっと血の気が引いた顔でアリアンヌ様が振り向いた。そんな顔しないでほしい、彼女に悪いところなんて何一つないのだから。
「ど、どうして、です。わたくし、わたくし何か至らないところが? 直しますわ、バロック様のお気に召すように直します! だからどうかっ……」
「なんでもバロックは君が僕を愛しているんじゃないかというんだ」
「…………はあ? 寝言はおやめなさいませ、花瓶を水ごとかぶせますわよ」
「なんで僕にだけそうなんだ! そういうところほんっとうに変わらないよな!」
アレックスのいう兄弟らしさ、はたしかに感じる。アリアンヌ様のほうがなんというか姉のような様相だ。姉のいる友人たちはこぞって「母親より怖い」などと言っているがなるほどこういうわけかとちょっと納得してしまった。
「そんなわけで呼んだんだ、話していいだろもう。婚約解消よりいいじゃないか」
「なんでそうなったんですか! 先に解決なさいよ! このおバカ!」
「出来たらきみのことなんか呼ぶもんか! こうなるのがわかってたじゃないか!」
ぎゃいぎゃいと言い合う二人にまったく置いてきぼりである。いつもの優雅に仲睦まじい……といった雰囲気の二人は見る影もない。これではまるで茶会の作法も知らない子供の喧嘩のようではないか。
唖然としている俺を見て我に返ったのか二人は軽く咳ばらいをすると顔を作り直した。いつものそれである。
「あのなバロック、まず大前提として僕らの間に家族とか兄弟とか以上の愛はない」
「そうですそうです! 私にも選ぶ権利がありますもの」
「ややこしくなるからしばらく黙っててくれ。それでだ、僕は女性の扱いに不慣れだからまずセリーヌの話を彼女にしたんだ」
セリーヌ、は子爵令嬢の名前だ。つまりこいつはアリアンヌ様にほかの女を落とす算段の相談をしたということらしい。
「そんな“ほかの女を落とす算段をアリアンヌにしたのか”みたいな顔するな。相談したアリアンヌはなんといったと思う?」
「ようございました、とか」
「それも言ったけど! そうじゃなくて、成就させたいなら自分の要望を聞け、必ず叶えろ、と言ってきたんだ」
利己的な面もある、とほほ笑んだ先日の会話を思い出す。彼女もそんな風に我欲を表に出すことがあるんだなと人間らしさを感じてより一層愛おしくなってしまった。いかん、今日は婚約解消のためにアレックスと話をしていたはずではないか。
「その、アリアンヌ様の要望というのは……?」
「……僕が言う?」
「ううううううるさいですわね! わたくしから言えばいいんでしょ! ……こほん。まず王家と子爵家の壁は城壁より分厚いですからわたくしの後押しがあれば簡単よ、と申しましたの。幸いにもセリーヌはアレックスのアプローチに対して、身分には困ってたけど嫌な顔はしませんでしたから」
それはまあそうか、と当時の様子を思い出す。弁えた態度だった彼女は実際、アレックスが「王子」だったから困っていただけで彼が同格の家柄だったならもっと進展が早かった可能性は大いにあった。結果として今婚約者の座に収まっているのも彼女の人柄によるところが大きい。要は権力目当てのような欲深さがなかったのである。
「だから、ダメ押しをしてあげる代わりに、その、私の婚約を整えなさい、とそうお願いしましたの」
「お願いというかほとんど脅迫だったけど」
「余計なこと言わないでくださる?」
キッとアリアンヌ様がアレックスをにらみつける。白旗、といった風に彼は両手を上にあげた。
「だからねバロック、僕が君をアリィの婚約者に推薦したのは彼女に頼まれたからなんだよ」
「俺以外にももっと条件のいい男がいたと思うけど」
「ああもう違うって! 鈍いな! アリィ、直接言ったほうがいい! 全然わかってないぞ!」
「ここで!? ちょっ、あ、あ、アレックス、あなたデリカシーがないのではなくて!?」
「婚約撤回されてもいいっていうのか!?」
あー、とかうーとかうなる彼女がなにかを決意した顔で椅子から立ち上がった。
何度も何度も深呼吸をしたかと思うと、今度はそのまっすぐとした凛としたまなざしを俺に向けた。
「わたくしとバロック様の婚約をとりつけてほしい、ってお願いしたんです! だって、だって、わたくし、あなたを愛していますから!」