663話_sideout_某所
「――皆さんは、異性との交際経験がおありですか?」
徐に発せられた質問に、三人の少女は思わず顔を見合わせた。
ラーメン屋である。
注文した品が届くまでの間は雑談でもしていようか、というタイミングで真っ先に発せられた質問だ。
質問者はシスターレイチェル。回答者は同じ卓についていたジークリンデ、リーフ、プリムローズの三名だった。
三人は『どうする?』『いや……』『しかし……』みたいなアイコンタクトを高速で交わすと、示し合わせたように続けて答えを述べた。
「妄想の中でならあるぞ」
「夢の中ならあるが」
「来年から本気出す」
順にプリムローズ、ジークリンデ、リーフの回答であった。クソ真面目な顔でクソみたいな回答をしている前者の二人も大概だが、リーフに至っては意味がわからない。要するに、来年から頑張って恋人を探しますという意気込みを語ったのであろうが、レイチェルが求めていた解には掠りもしていないのは言うまでもないことだった。
これには流石のレイチェルも微妙な顔になる。
それで、と話を進めたのはプリムローズだ。
「藪から棒にどうしたんだ」
「もしかしてシスター、意中の男性がおられるのですかっ?」
続けて口を開いたリーフはまさかの可能性に声のトーンを高くして、期待に目を輝かせる。
そんな彼女の期待に沿えないことを申し訳なく思いつつ、レイチェルは彼女の言葉を否定した。
「はい、いいえ。そうではなく」
恋愛感情に関する話なのは確かだが、レイチェルは当事者ではなく相談を受けただけの立場だ。修道女として多くの信徒達の話を聞く機会があるレイチェルのもとには、相応に多くの相談事が寄せられるわけだが、中でも年齢の近い女子学生の相談に乗ることが多かった。
この学院の高等部に通う女子学生と言えば思春期の真っ只中であり、多感であるが故に悩み多き時期でもある。
友人関係のこと、学業のこと、家のこと、魔法のこと。そして恋愛のこと。
他人にとっては取るに足らない内容も少なくはないが、当然本人にとってはどんな悩みも深刻で真剣だ。だからこそレイチェルもまた、どんな悩みにも真摯に寄り添うことを努めているが、さりとてそんなレイチェルも一人の人間であり、当然悩みもある。
レイチェルの悩みを簡潔に要約すると、つまり碌な恋愛経験もない自分が、他人の恋愛ごとに訳知り顔で助言などするのは烏滸がましい真似なのではないか、ということだ。
「少し前に、とても深刻に悩んでいる方がおられたのですが、私は結局大した力になることもできず……」
力不足を痛感したレイチェルは、自らには根本的に足りていないものがあるのではないかと考え始めたのだ。
レイチェルの悩みを聞き終えたプリムローズは、小さく鼻を鳴らした。
「別に、恋愛経験がなければ恋愛相談に乗ってはいけないなどという道理もないだろう」
その言葉に控えめに異を唱えるのはリーフだ。
「でも、恋を知らない立場から何を言っても、説得力が無くないですか?」
すると今度はジークリンデが反論する。
「恋愛経験が説得力に繋がるとは限らない。クソみたいな恋愛ばかりしている輩の言葉には、所詮クソみたいな説得力しかないからな」
相談したレイチェルのほうが意外に思ってしまうくらいに、三人は真剣な様子で侃々諤々の議論を始めてしまう。
自分が不用意な問題提起をしたばかりに彼女等の関係性が拗れてしまってはことだと、レイチェルはやや慌てて口を挟む。
「あ、あの。それで結局、私はどうするべきなのでしょうか」
その言葉に三人はぴたりと議論をやめると、一瞬前までの対立っぷりが嘘のように口を揃えて同じ方向性の回答をくれた。
「特に何かを変える必要はないだろう」
とジークリンデ。
「恋愛経験がなくたって、人生経験でアドバイスはできますし」
続けてリーフが言い、
「というかそもそも、貴様の仕事は聞くことであって解を出すことではなかろう」
最後にプリムローズがそう締め括った。
要するに、大事なのは相手の悩みを軽んじることなく真摯に聞くことであり、その上で自分に出来る限りの言葉を返せばよいのだと。知らないことを知ったかぶって無理に恋愛に絡めた助言を贈るよりも、そのほうが余程誠意ある対応である、ということだった。
レイチェルは彼女等の言葉に感銘を受けた。何故って、彼女等の結論は実のところ現状維持であり、レイチェルになにか画期的な答えを齎したわけではない。
だがレイチェルは確かに安心し、納得したのだ。
つまり、自分が目指すべき役割とは、まさしくこれなのではないかと。
そして折角なので訊いてみることにした。レイチェルが力になってあげられなかった恋愛相談を、この少女達が受けたならばどのように答えるのだろうか。
「ではもし、貴女方が他人から恋愛相談を持ち掛けられたとしたら、どのような答えを返すのですか?」
三人は答えた。
「知るか、だな」
「自分で考えろ、だ」
「悩む相手が居るだけマシ、ですね!」
「…………」
レイチェルは何故かちょっと損した気分になった。
◇◇◇
数日後、レイチェルが修道女としての仕事をしていると客人の報せがあった。
基本的には訪れた相談者には応対する専門の者が居るわけだが、相談者のほうに相手の希望があった場合はその限りではない。要するに、客人からレイチェルへの指名があったわけだ。
取り次ぎの者に客人の名前を聞くと、以前にもレイチェルに相談を寄せていた人物であった。レイチェルは仕事を中断すると、応対に出ることを決める。
『教会』の施設には所謂『告解』に使用される懺悔室も存在しているが、そちらが使用されることは多くない。大抵の相談事を聞く際はもっとラフな環境で話すことになる。
相談室と呼ばれている文字通りの部屋にレイチェルが向かうと、そこで待っていたのは一人の少女だった。
「こんにちは。ネリネさん」
青い髪をおさげにした、可愛らしく素朴な雰囲気の少女だ。
学生服姿の彼女はネリネといって、何を隠そうレイチェルが同好会の面子に相談した悩みの理由となった人物である。
彼女は恋の悩みを抱えていて、非常に苦しんでいた。内向的で、やや悲観的なところがある少女で、想い人を相手に気持ちを告げることが出来ず、しかし気持ちは日増しに大きくなるばかりであった。
人によっては『そんなこと』と笑うような、取るに足らない悩みでも、それで深刻に苦しんでいる者も多いのだとレイチェルは知っている。特にネリネのような精神性の人間は、一人で悩むと悪いほうにばかり考えてしまい、極端な結論や早まった選択で悲劇的な結末を迎えることがままある。
ネリネはレイチェルのもとを何度も訪れて、思いの丈を吐き出していた。
レイチェルはせめてもの慰みになればと、彼女の話を聞き、出来る限りの助言をしてきたつもりだった。
しかし、結果はプリムローズ達に相談した通りである。
ネリネはある時からパタリと姿を見せなくなった。当然、彼女を案じたレイチェルが人づてに近況を聞けば、どうやら彼女の悩みが解決したわけではなかったのだ。しかしながらネリネは病気や怪我をしたわけでもなくて、ましてや思いつめて最悪の事態になってしまったわけでもない。それは幸いと言えたが、となればネリネは彼女自身の意思でレイチェルを頼ることをやめたということで、レイチェルはそれを、自らの力不足ゆえであると考えたのだ。
結局のところ、ネリネの悩みは彼女自身が変わらなければ解決しない類のものであった。そもそもレイチェルが出来ることには限りがあった。
だが、それでも、もう少し寄り添うことが出来たのではないかとレイチェルは反省していたのだ。
「今日は、ご報告がありまして……」
おずおずと語るネリネに、レイチェルは『おや?』と思う。
そうして今日、唐突に訪ねてきたネリネは、レイチェルの記憶にある彼女の姿とは明らかに雰囲気が違っていた。
具体的には、ずっと彼女の表情を曇らせていた暗く重い悩みの影が消えているのだ。
まずは彼女の話に耳を傾けてみると、レイチェルの所感は正しかったらしく、どうやらネリネは無事に想いを遂げることが出来たようなのだ。本当につい先日の話らしいのだが、想い人と正式に交際を始めたということだった。
「それは良きことです。ネリネさん、おめでとうございます」
レイチェルは心から祝福の言葉を贈る。
そして思う。やはり『主』は見ておられるのだと。主のしもべであるレイチェルがあまりに不甲斐ないため、主が少女の純真な想いを聞き届けてくれたに違いない。
それからネリネは、どのようにして想いを遂げることが出来たのかを話す。
「占い師……ですか?」
飛び出してきたワードにレイチェルは目を瞬かせ、ネリネは嬉しそうに首肯した。
「はい。実は最近、ちょっと噂になってるんです。恋の悩みを解決してくれる謎の占い師って。あたし、あんまり信じてなかったんですけど、なんか会えて、言うとおりにしてみたら本当に――――」
興奮気味に話すネリネの言葉に耳を傾けつつ、レイチェルはおとがいに指を当てて、少し別のことを考えてもいた。
ネリネが以前よりもずっと明るい雰囲気を纏い始めたのは喜ばしいことだが、実はここで会った瞬間からレイチェルはもう一つ、彼女の様子について気になっていることがあったのだ。
ネリネが大まかに話し終えて落ち着いたところで、レイチェルはそれを問うた。
「ところでネリネさん」
「はい?」
「少々、お疲れではありませんか?」
以前までの重い悩みの影に比べれば些細なものだが、ネリネの表情に別種の影が見え隠れしていた。
簡潔に言えば、妙に疲れているように見えるのだ。
するとネリネは「わかっちゃいます?」と恥ずかし気に笑った。
「じつはその、彼と付き合えたのが嬉しくて、その、遅くまでチャットとかしちゃって、あんまり眠れてなくて……」
その非常に可愛らしい罪の告白に、レイチェルは頬を緩めた。
レイチェルが柔らかい声で「それは感心しませんね」と苦言を呈すると、ネリネは恥ずかしそうに首を窄めた。嬉しいのはわかるが、節度を守らなくてはいけないとレイチェルが説くと、ネリネは素直に頷いてくれる。
その後、レイチェルはネリネと暫しの雑談をして、帰路につく彼女を施設の門のところまで見送った。
ネリネがわざわざレイチェルに交際の報告をしに来てくれたのは、これまで何度も相談に乗ってくれたレイチェルへの感謝があったからだという。交際に至った直接的な理由は件の占い師だとしても、レイチェルが背中を押してくれた言葉を覚えていなければ、仮に占い師の言葉があっても行動に移そうとはしなかっただろうから、と。
無力感に苛まれていたレイチェルは、ネリネがそう言ってくれて救われたような気分だった。
「…………」
しかし今、ネリネの背中を見送るレイチェルの視線は鋭かった。
ネリネの足取りは軽く、とても幸せそうだ。
だからこそ、レイチェルには看過出来ないことがあった。
門前に無言で佇むレイチェルの耳に、ふいに声が聞こえてくる。
それはレイチェルにはずっと昔から聞こえている、レイチェルにしか聞こえない声であった。
――闇の気配を感じます
その声に、レイチェルは静かに瞑目し、緩く息を吐く。
そして金色の瞳を見開き、呟く。
「はい。占い師とやら……気がかりですね」




