補完[小夜啼鳥-4]
・過去偏はダイジェストにして一話で終わらせる英断。
「――ねえおかあさん、なんでミヤの目はみんなと違うの?」
ミヤは自らの赤い瞳が他の者とは違う何かであると気付いていた。周りの者達は皆、黒だったり茶だったり青だったり、まれに赤い瞳の者も居ないではないが、それと比べてもミヤの瞳は異質だった。
だからミヤは母親に訊いてみることにした。母であるサヤは黒い瞳だし、父であるコウヤも黒い瞳だがサヤよりも少し淡い褐色気味の色をしている。
ミヤの疑問に応えてくれたのはサヤではなく、一緒に居たコウヤのほうだった。
「ミヤのそれは『暁月の巫眼』と呼ばれる、特別なものなんだよ」
「あかつき?」
「そう。魔を退ける浄化の瞳さ」
コウヤの説明は幼いミヤには半分くらいしか理解出来なかったが、つまり特別な何かであるのだと納得した。
やっぱり皆とは違うんだ、と。
俯いてしまったミヤに慌てたように、コウヤが言葉を続ける。
「ミヤだけじゃないよ? サヤだって使えるんだ」
「そうなの?」
びっくりしてミヤが母のほうを見ると、彼女は苦笑気味に頷いた。
そして、証拠を見せるように一瞬だけその黒い瞳をミヤと同じ赤色に染めてみせた。
「わぁ……!」
「ふふ。でもね、母様はミヤよりもへたっぴだから、少ししかできないのです」
「おとうさんは? おとうさんはできるっ?」
ミヤが今度はコウヤのほうを振り向くと、彼は微かに苦い笑みを浮かべる。
「ごめんね。僕はできないんだ」
「そっか……」
ミヤはただ、大好きな両親とお揃いだと嬉しいなと思って無邪気に質問をしただけだったのだが、同年代の子供と比べて早熟な少女は同時に、この時の父の様子から、今の質問が彼のナイーブな部分を突いてしまったのだと直感的に理解していた。
すると空気を変えるように、あるいは誤魔化すようにサヤが口を開く。
「それよりもミヤ? いけませんよ。私達のことはなんと呼ぶのでしたか?」
「あっ、かあさま。とおさま」
「よろしい」
何故そのように呼ばなければならないのかはよくわからなかったが、こうして家族だけの場ならまだしも、他の大人達がたくさん居る場所で呼び方を間違えるととても叱られてしまうのだ。
特に厳しいのはサヤの母親――つまりミヤの祖母であり、彼女の前で粗相をするとそれはもう烈火の如き叱責が飛んでくる。そしてそれはミヤ本人のみならず、むしろ両親にこそ厳しい言葉が向けられるので、ミヤはそんな祖母のことがあまり好きではない。
「大丈夫。心配しなくてもすぐにサヤみたいにできるようになるよ」
「ほんとう?」
「本当だとも。サヤが今のミヤくらいの時はもっとずっと酷かったからね」
俄かに想像出来ないことを聞かされて、ミヤは目を丸くしてサヤを見遣る。
サヤは恥ずかしそうにしながらも、ミヤを安心させるように微笑んだ。
「母様ね、本当はもっとずっとぶっきら棒な女の子だったんですよ?」
「ぶっきらぼー」
「ほんっと最低限しか喋らなかったもんね。たぶん、お義母様がミヤに今からこんなに厳しく言うのは、サヤのときに凄く苦労したからだろうね」
「ひ、否定できない……」
◇◇◇
「――やあミヤ、元気にしてたかい?」
「おじさま!」
久し振りに訪ねてきたのは叔父のユウキであった。
自宅でサヤと一緒に勉強をしていたところに突然現れたユウキを、ミヤは笑顔で出迎えた。
「ほら、お土産だぞ」
「ありがとう!」
鳥を象った小さな置物を受け取って、ミヤは赤い瞳を輝かせる。ユウキはミヤの父であるコウヤの弟であるが、基本的に自宅付近で仕事をしながら生活をしているコウヤとは異なり、ユウキはよく仕事の関係で遠出をしている。だからミヤが会えるのは不定期になるが、会うたびにこうして土産物と土産話を持ってきてくれるので、ミヤはこの叔父のことを気に入っていた。
ちょうど切りがよかったので勉強は小休止として、使用人がお茶を淹れてくれて三人で卓を囲む。
「いつもありがとうね、ユウキさん」
「いえいえ、お気になさらず。私も、ミヤが喜ぶ顔が見れて嬉しいですから」
「子供好きだし、子供からも好かれますものね」
「ははは、精神年齢が近いからかな?」
ちなみにコウヤは現在仕事中であり、自宅から近い仕事場に出向いている。ユウキはいつも、こうしてコウヤが居ない時にミヤ達に会いに来るのだが、ミヤはその理由をなんとなくだが察している。コウヤとユウキが共に居る時の様子から、二人がそんなに仲良しではないとわかるのだ。険悪というよりは、互いに遠慮しているというか、そんな雰囲気だ。
ミヤは昔から、そういうものが見ただけでわかってしまう。それがミヤという少女の利発さに磨きをかけているわけだが、原因は間違いなくミヤが有する特殊な目のおかげだろう。
「ユウキさんも良い歳なのだし、そろそろ身を固めてはどうかしら。自分の子供なら、可愛さも一入だと思いますよ?」
「いやはや、御尤なんですけど、なにぶん仕事が忙しくてね」
「優秀過ぎるのも困りものですわね」
「おだてても何も出ませんよ?」
「呆れているのです」
◇◇◇
祖母が亡くなった。
ミヤにとっては突然の訃報であったが、どうやら前々から身体を悪くしていたようで、周囲の大人達は驚くよりも粛粛と受け入れているように見受けられた。ミヤはもう二度と祖母には会えないということを理解し、彼女があれほどまでに厳しくミヤの作法を指導したのは、もしかすると己の死期を悟っていたからなのかもしれないと思い至る。
祖母の思い出はミヤにとって嬉しくない類のもののほうが多かったが、こんなことならばミヤももっと歩み寄る努力をすればよかったと、子供らしからぬ感慨を抱くのであった。
ミヤの生家であるスメラギ・フレンネル家は東方の系譜であり、慶弔の様式は王国の一般的なものとは異なっている。
葬式が執り行われ、ミヤも母に手を引かれて列席した。
厳かな雰囲気で進行する式の最中、ミヤはとても不思議に思っていた。
身を清められ、死装束を着せられ、棺に寝かされた祖母の遺体へと参列者が別れを告げているのだが、ミヤにはどうしても気になることがあるのだ。
何故誰も気にしないのだろう。
何故誰も言わないのだろう。
「おばあさまの魂……まだそこにあるのに」
思わず零れた呟きに、手を繋いでいたサヤが「え?」と困惑の目を向ける。
ミヤ自身は気付いていなかったが、その瞳は煌々と異形の赤い輝きを放っていた。その姿に言いようのない不安を覚えたサヤが咄嗟に制止しようとするも間に合わず、ミヤは行動に移してしまった。
皆が気付かないなら、教えてあげなくてはいけない。
ミヤが祖母の遺体に向けて小さな片手を翳して見せると、それに伴って赤い魔力が迸る。取り付いた魔力が揺さぶるように鳴動し、遺体が軋むような音を立てて微動する。魔力によって動かされているようにも見えたし、魔力を与えられて独りでに動き出したようにも見えた。
参列者は何が起きたのかわからないという表情で固まっている。
ミヤ自身にも、自分がなにをしているのか明確にわかっていたわけではない。
一つ言えることは。
それは、とてもとても悍ましい光景であったということだ。
「――――ッやめなさい!!」
鋭い怒声と共に、乾いた音が響く。
途端に魔力は空気中に霧散し、遺体を含めて何事もなかったかのように静寂が帰ってくる。
荒い息を吐くサヤは、振り抜いた片手と、叩いてしまった愛娘の姿を愕然とした面持ちで見詰め。
ミヤは自分が何故叩かれたのかはわからなかったが、
ただ、自分がどうしようもなく間違ったことだけは理解したのだ。
◇◇◇
その夜、サヤはミヤへと語って聞かせた。
「人の死は、摂理です」
「せつり?」
「世界が正しく在るために、定められた理ですよ」
ミヤが行使した魔法は、後の世で『死霊術』と呼ばれることになる技法の原型とも言えるものであったが、これは母であるサヤの血筋から受け継がれたものであった。サヤはこれを意識したことがなかった。何故ならば彼女の有する才覚はミヤのそれに比べれば遥かに細やかなもので、己に特殊な力があると自覚する程の経験をしたことがなかったからだ。
故にサヤはそれに関して然程詳しくもない。あるいは、当の祖母であればもっと多くのことを知っていただろう。
その祖母が亡き今、あの場で起きた出来事を本質的に理解出来ていたのはサヤだけだった。
「人の死を覆してはなりませんし、覆ることはありません」
「でも、おばあさまの魂、あそこに居たのに」
納得がいかないミヤが拗ねたように言うと、サヤは悲しげに微笑んで娘の頭を撫でた。
「それはね、お婆様も、彼岸に渡る前にミヤ達の顔を見たかったからなのよ」
「そう、なの?」
「きっとね。お婆様の身体はもう疲れて眠っちゃったから、無理に動かしたら困ってしまうでしょう?」
サヤの説明を聞いて、ミヤはそれが正しいとは思わなかった。もっと本質的な理解をした。そこに正しい答えなど無い。正確には誰にもそれを正しく理解など出来ないし、すべきでない。
だからミヤは、母親が言葉を尽くして説明しようとしたこと自体を受け取った。
人の死は覆してはならない。それが世界のルールだからではなく、それが人の世の理だからだ。
「おばあさま、怒ってるかな」
「ふふ、きっといつもみたいに、こーんな顏してると思うわ」
おどけて、サヤは自分の両眼の眦を指で吊り上げてみせた。ミヤはそれを見て笑ってしまった。確かに、ミヤの思い出の中の祖母はいつも目を吊り上げていたし、母娘なのだからおかしなことではないが、祖母の真似をした母の顔が思った以上に祖母にそっくりだったからだ。
◇◇◇
あの日から、ミヤを取り巻く空気が変わった。
良い変化ではなかった。誰もがミヤを遠ざけるようにして、忌避し、まるで悍ましい怪物を見るかのような目を向け始めたのだ。ミヤは元々あまり活発な性質ではなく、どちらかというと出掛けるよりも自宅で家族と過ごすことを好む少女であったが、あれから輪をかけて外に出なくなっていた。
月日が経ち、成長したミヤはますます利発になり、周囲の者達が自分を遠ざけようとすることを仕方ないことだと受け容れていたのだ。
そして、変わってしまった周囲の人々には、最愛の両親も含まれていた。
母であるサヤも、父であるコウヤも、変わることなくミヤに接してくれる。
だけれどふとした折に、例えばミヤが寝静まった深夜の時間などに、二人が言い争うような声を聞くことが多くなった。ミヤの住む屋敷はとても大きいが、家族の寝室は近くに配置されていて、ミヤは両親の口論で夜中に目を覚ますことが少なくなかった。
『――僕の才能の乏しさはキミだってよく知ってるだろう!』
『そんなことは、』
『思えば、巫眼だっておかしいじゃないか。僕は言うに及ばず、キミだって辛うじて使えるぐらいのあの力を、なんでミヤはあんなに強力に!』
『だからそれは、ミヤにたまたま強い才能があっただけのことだと、貴方も納得していたではありませんか!』
父が怒鳴る声など聞きたくなかった。
母の泣きそうな声など聞きたくなかった。
ミヤは布団を被って耳を塞ぐ。
ミヤは思った。
全部、この目が悪いのだ。
皆と違うこの目は、やっぱり悪いものだったのだ。
両親の口論にはいつもこの目の話が出てくるし、そもそもこれがなければ葬儀の時に祖母の魂が見えたりもしなかったに違いない。
ミヤは固く目を瞑る。
このまま瞼がくっついて、二度と開かなくなってしまえばいいのに。
◇◇◇
その日、久し振りに叔父が訪ねてきたことを使用人に知らされて、ミヤは顔を出そうと考えた。
成長して少しだけ大人になったミヤは、かつて父の言った通り、ちゃんと母と同じような淑やかな振る舞いが出来るようになってきた。だからいつかのように、騒々しく廊下を走って叔父に会いに行ったりはしないのだ。
そうして、いつも母が叔父を出迎えている客間に向かったミヤは、扉越しに彼等の会話を聞いてしまう。
『コウヤさんはどうしてしまったんでしょう……最近は、私の話も殆ど聞いてくれなくて』
『外で見る分には、そんな風には見えないけれど』
『家では、全然』
扉に掛けようとしていたミヤの手がぴたりと止まる。
それは当然ミヤも気付いていたことだった。最近、両親の口論は少なくなった。でもそれは彼等の関係が昔のように睦まじいものに戻ったわけではなく、論を交わすことすらない程に冷えてしまったということだ。
その原因――いや、元凶は言うまでもなく、
『あの人、ミヤの才能がどうしても納得できないみたいで』
『あー……兄さんは昔から、人一倍劣等感が強いからなぁ』
『誰かさんのせいでね』
『自分で言うのもなんだけど、私はわりと優秀なので。ウチの親も、周りも、兄弟で比較するもんだから余計に、ね』
コウヤが変わってしまった根源はそこなのだ。彼は自分に自信が持てないからこそ、娘であるミヤの類稀な才能を認められない。
ミヤはそれならそれでよかった。父がミヤのことを認められないなら、突き放してくれていい。だけど、だったら母と喧嘩する必要はないではないか。
何故、自分の存在が原因で両親が仲違いしてしまうのか、少し成長したとはいえ未だ幼いミヤにはその機微がわからなかった。
『サヤさんと結婚して、だいぶマシになったと思ってたんだけどな』
『お願いします。ユウキさんから少し、あの人に話してもらえないでしょうか』
『そうだね。私が兄さんを説得してみるよ』
父は母の言葉をもう聞いてくれないので、叔父に取り成しを頼むしかなかったのだ。
ミヤは扉に額を付けて項垂れた。こんなに弱り切った母の声を聞きたくなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
全部、この目が悪いのだ。
ミヤは決めたことがあった。これまでの人生で学習したと言ってもいい。
結局、この目にまつわる全てが、ミヤの人生にとっては悪いことしか齎さなかった。
だからミヤは決めたのだ。
もう、この目に何が映ろうが、決してそれを口にはしまいと。言えば言うほど、周りとの溝は深まるばかりなのがわかりきっているのだ。
それはミヤに出来る精一杯の自己防衛であった。いかに利発であろうとも幼い子供であり、むしろ下手に利発であったからこそ口を噤むという選択肢を取ることが出来てしまった。
これ以上、拒絶されたくない。
壊したくない。壊れないで欲しい。
故に。
――最近、父の魂に黒い靄が掛かって見える。
それをミヤは誰にも告げず、己の中に仕舞い込んだまま口を閉ざすことにした。
◇◇◇
ある日の夜、壁越しに聞こえてきたけたたましい騒音でミヤは目を覚ました。
棚をひっくり返して調度品をぶちまけたような音だった。廊下を慌ただしく駆けるような足音は使用人達のものだろう。音を聞いて駆け付けてきたのだ。
ミヤは布団を被って震えた。
もうめちゃくちゃだった。
断続的に聞こえ続ける騒音に、使用人達の制止する声や、悲鳴。
そして、大好きな人達の、怒号。
『またユウキに会ったのか!! 僕の居ないところでッ!!』
『あれは、貴方を説得してもらおうと、』
『説得だって!? なにを白々しい! どうしてアイツに頼む必要があるんだ!? 同じ家に住んでいるのだから、直接言えばいいだけじゃないか!』
『ッ――お言葉ですが、聞く耳も持たないのはどこのどなたですか!! どの口が仰るのです!? 自分勝手も大概になさいませ!!』
ああ、やめて。もうやめて。
どうして、どうして。
『ああもういい! 謎が解けた気分だよ!』
『なにが――』
『アイツは昔から優秀だったさ! 僕は一度だって勝てたためしがない! 知ってるかい? いや知ってるだろう!? アイツは『巫眼』だって使えるんだ!!』
『まさか…………まさか、私の不貞をお疑いなのですか!?』
『それで全て辻褄が合うじゃないか!! ユウキと寝たんだろう! ミヤは……アレは僕の娘じゃない!! ユウキの娘なんだ!!』
もうわからない。何もわからない。わかりたくない。
ミヤの幼い精神に、そのストレスは甚大過ぎた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、歯を食いしばって、ミヤは朝まで震えていることしか出来なかった。
◇◇◇
あれから、サヤは塞ぎ込んで自室にこもりがちになった。
使用人があれこれと世話を焼いているようだが、状況が改善する兆しはない。コウヤは同じ家に住んでいるのに、まるでサヤの存在が無いものかの如く振舞っている。
ミヤはと言えば、少しだけ冷静さを取り戻していた。ショックな出来事が続いて心が追い詰められてはいたものの、両親の有様が逆にミヤを奮い立たせた。騒動の中心に居るのは間違いなくミヤだ。
だから自分がなんとかしなくてはならない。というより、両親の仲を取り持てる存在が居るとすれば、最早ミヤだけだ。自分が元凶であるからこそ、ミヤが行動しなければ根本的な解決など望みようもないのである。
ミヤは父と、コウヤと話をすることにした。
これまでも同じく試みたことはあったが、いつだってミヤはやんわりと躱されて蚊帳の外に置かれてしまっていた。それはコウヤの劣等感の現れであり、ミヤもまた自分の存在が父を追い詰めているとなんとなく理解していたので、強硬に出ることは出来なかった。
寂しさを隠して、精一杯の笑顔を浮かべてみせると、それがまた父を追い詰めたのだとわかってしまう。笑っても、泣いても、どうやっても、自分は父を傷付けることしか出来ないのだ。
でも、もうそんな場合ではないのだ。
そして、ミヤは死んだ。
死因は窒息死であった。
実の父親に、首を絞められて命を落としたのである。
「――その顏が、お前のその顏がァ! 嫌いなんだよ!!」
馬乗りになった父親に首を絞められ、ミヤの視界が黒く染まっていく。
狂気に歪んだ父の顔。
黒く、黒く、閉じていくミヤの視界よりなお黒く、醜く濁ったその魂。
「お前の笑った顔はアイツそっくりだ! やっぱり親子なんだな!? 僕がどれだけッ、僕はァ……!!」
そう。
せめて、と思ったのだ。
せめてもの想いで、父と話す際に笑顔を見せようとしたのだ。
だって、父にも同じように笑って欲しかったから。
本当にそれだけだったのだ。
「とお…………さま…………」
抵抗しようとは思わなかった。
そんな気力もなかった。
全て、自業自得だと理解してしまったから。
父の魂が黒く濁って見える。
ずっと見えていた。
この目が捉えたものを、口に出してはならない。トラウマに蓋をして、見ない振りをすることで自分を守った。
間違っていた。
少なくとも、両親にだけは話すべきだったのだ。
この期に及んで、今更その正体がわかってしまったのだ。
「かあ…………さま…………」
ああでも、母には伝えなくてはならない。
ミヤはここで死んでしまうだろうが、どうか父を責めないで欲しい、と。
だって父は、操られているだけだったのだから。
だが、またしてもミヤは間違った。
もう息が止まってしまって、真面な思考も出来なくて、動きたくても動けないのだ。せめて母に伝えるために、この場だけでも逃れるべきだった。
何もかもが、もう遅いのだ。
霞む視界の中で、父が涙を流していた。
ぐちゃぐちゃに歪んだ顔面から零れ落ちた涙が、死に行くミヤの頬に落ちる。
ミヤは微かに笑みを浮かべた。
父が嫌いだと言った、この笑みを。
これで最期になるから、最後にしようと思って。
一つだけ。
許されるならば、父に伝えたいことがあった。
父はミヤの笑顔が叔父にそっくりだと言った。
だけどミヤは知っているのだ。
ミヤよりも、もっとずっと、叔父にそっくりの笑顔を浮かべる人が居ることを。
そっくりだけど、同じではないのだ。
――私は、もう一度、その笑顔が見たかったんだ。
末期の願いは叶えられることなく、ミヤ・スメラギ・フレンネルはその短い生涯に幕を下ろした。




