補完[学院メイドの悲喜交々-5]
~"訳ありメイド"ドロシー~
マルトー青年の野望を挫くべく、ボクはとある人物に会いに来た。
勿体ぶる意味も無いのでぶっちゃけると金髪巨乳メイドことヘレナちゃんである。今回の件の当事者というか、ある意味元凶とも言える存在ながら、現在蚊帳の外に置かれてしまっている彼女だ。
ボクがヘレナちゃんの姿を見付けた時、彼女はちょうど休憩中だったのか、職場の裏手のベンチに座って項垂れていた。胸以外は華奢な身体を一層小さくして、どんよりと影を背負って、今にも泣き出しそうな暗澹たる雰囲気であった。
彼女にしてみれば、明日にはマルトー青年の私室を清掃する業務に従事せねばならず、それがただの清掃業務でないことなんて火を見るより明らかなのだから、絶望するのも無理からぬ話ではあるが。
「やあ。こんにちは」
「…………?」
ボクが適当に挨拶しながら近寄ると、ヘレナちゃんは緩慢に顔を上げて、訝しげに眉を顰めた。
その双眸にははっきりと泣き腫らした痕があって、なんとも不憫だ。
「災難だったね」
「貴女は……?」
「あのマルトーっての、何度もああいうこと繰り返しててさ、ボクも前にちょっとね」
ちなみに、マルトー青年の過去の所業については軽く洗っただけでわんさか出てきた。調べなければわからない程度には表面化していないわけで、その理由ってのが彼の毒牙に掛かったメイドは基本的に学院を去っているから、というのが闇が深い。
なお『前にちょっとね』は『前にちょっと調べたことがあってね』の意味で、ボクがマルトー青年の毒牙に掛かったという事実はない。
ボクは外見だけならばヘレナちゃんと然程年齢も変わらない同僚にしか見えないから、彼女はボクのことを過去に同じような目に遭った被害者であると理解したみたいだった。
「まあ、どうせすぐ飽きるから、犬にでも噛まれたと思っておきなよ。ここで働く以上は仕方ないことさ」
「……」
欠片も気持ちの籠ってない無責任な言葉に、ヘレナちゃんは唇を噛んで俯く。
勿論、ボクだって本気でそんなことを思っちゃいない。これでも一応は女だから、ヘレナちゃんに同情する気持ちもある。
だけど、仕事上は、そういうのは無理矢理にでも飲み込むしかないのだ。ボクも、彼女も。
「…………私、これでよかったと思ってるんです」
「うん?」
ボクがその場を動かないことに何を思ったのか、唐突にヘレナちゃんが内心を零した。
「私が我慢して、それでハンナが助かるなら、いいんです」
「その結果キミがどんな目に遭おうとも?」
意地の悪いボクの問いかけに、ヘレナちゃんはしかし迷いなく頷いた。
「私は、私が居なくなったほうがいいと思ってるんです」
「…………へえ?」
「だって私、ハンナの人生のお荷物でしかないから」
「…………ふーん」
「弱虫で、愚図で、厄介ごとばかり持ってきて……ハンナは元気で強くて明るくって、可愛くて、頑張り屋さんで……きっとハンナだけだったら、もっと気楽に、楽しい暮らしができるのに、って、ずっと思ってて」
「…………なるほど」
「でも私は弱いから、自分でハンナから離れる勇気すらなくって、だからいっそ……」
自分でもどうかと思うくらい適当な相槌を打つボクに、ヘレナちゃんは訥々と語る。
彼女とて別にボクに真剣に聞いてほしいわけではなくて、むしろ初対面で名も知らないけど喫緊の事情だけ共有している相手というのが、弱音を吐露するのに都合の良い相手だったというだけだろう。
「そっかそっか。キミはそのハンナちゃんが大切なんだね。彼女の人生を邪魔したくなくって、自分を排除しようと思ってるわけだ。マルトーとかいう下衆の玩具になってぶっ壊れちゃえばいいと思ってるんだ」
彼女なりに考えた結論というか、そうやって必死に自分を納得させたのだろう。
下衆に弄ばれることを良しとしているわけではなくて、弱気のせいで自分で自分を排除することが出来ないから、抗いようのない何かによって自分がハンナちゃんから引き剥がされてしまえばいいと。
きっとハンナちゃんを大切に想う心と、だからこそ抱えた負い目というのは本物なのだろうな。
「ふ、ふふふ、くっふふ」
思わず、笑みが零れる。
「あの……?」
「いやごめんね。ちょっと、滑稽だなぁと思っちゃって」
「……これでも、真剣なんです」
「違う違う。そうじゃなくてさ」
むしろ、真剣だからこそ笑ってしまったというのが正しいか?
だってさぁ、
「そのハンナちゃん、今まさにキミのために破滅しようとしてるのに」
「………………え?」
絶句するヘレナちゃんに、先程まで見てきた光景を説明してやる。
何故見ず知らずのボクがこれほど詳細に事情を知っているのかという当然の疑問すら思い浮かばない程度には、彼女にとって衝撃的な話だったようだ。
「というわけで、まあマルトーの奴はおしまいだろう。あのアシュタルテに喧嘩売っちゃったんだから」
「そん、な……」
「実行犯であるハンナちゃんだけが見逃してもらえるなんて展開は、ないと思うなぁ」
ボクに詰め寄ろうとしたのか、腰掛けていたベンチから立ち上がったヘレナちゃんは、しかしよろめいてその場にへたり込んでしまう。
そんな彼女を見下ろしながらボクは考える。
言うまでもないが、ボクはこの場に遊びに来たわけではないし、ヘレナちゃんに事を伝えて絶望する様子を楽しみたいわけでもない。
「そんなに驚くようなことかね?」
「だって、ハンナ、そんなこと一言も」
「変なこと言うね。キミがしようとしてたことと全く同じことをしようとしてるだけじゃないのか?」
暗に、ならキミはハンナちゃんに言ったのか、と問う。
もしそれを告げていたのなら、まあこんな場所でボクなんぞに愚痴っていないだろう。
「あ…………」
「きっとハンナちゃんも同じこと考えてるんじゃないかな。自分が居なくなっても、キミが助かるならそれでいいって」
「っ……!」
もどかしいことだと思う。
だって、ボクにしてみれば、心の底から羨ましいことだ。自分を犠牲にしてでも救いたいと思える相手が居ること。そして自分も相手からそう思ってもらえること。どちらもボクがかつて渇望し、そして叶わぬと諦めたことだ。
人の欲によって生み出され、人を害することで生きてきたボクなどには、得られるはずもなく、得る権利もない、羨ましいくらいの贅沢だ。
「ボクが思うに、キミ達どっちもバカだよ。このままハンナちゃんが破滅したら、キミ、それを忘れて笑って生きられるのかい?」
「…………」
「だったらそれが答えだろ。どっちかが犠牲になった結果もう片方もつぶれるなら、最初から潔く二人で生きなよ」
「でも、それじゃあ、」
「そもそもそこがわかんないんだよなぁ。頼りっぱなしが負い目だって言うなら、なんだってじゃあ離れましょうって結論になるわけ?自分が相手から同じくらいに頼ってもらえる存在になろうっていう発想が出てこないのはなんなの?」
ボクがそういうと、ヘレナちゃんはきょとんと瞳を丸くした。
「キミ達はちょっとアレだな。お互いを尊重し過ぎだと思うよ。もっと会話しなよ。たぶん、キミが思うほど負い目なんてないんじゃないかな」
「…………ハンナぁ」
「おっと、説教くさくなっちゃってごめんよ。まいったな、こんなの柄じゃないのに」
「……いえ、いいんです」
ヘレナちゃんが瞳に強い光を宿して立ち上がるのを見て、ボクはその場を立ち去ろうとする。
それとなく発破をかけるだけのつもりが、ちょっと個人的なジェラシーが溢れて詰るみたいになっちゃったけど、まあ結果オーライかな?
「あの!私ハンナと話してみます!ありがとうございましたっ!」
「そっか」
そのためにはまず、しなければならないことがある。
ハンナちゃんに背を向けつつ、ボクは「独り言だけど、」とわざとらしく呟く。
「アシュタルテ様なら、この時間は第三講義棟だよ」
「っ!はい!ありがとうございました!」
猛然と走り去ったヘレナちゃんを見送り、ボクは来た道を戻る。
「さて、うまいこと転がってくれればいいけど」
そんなわけで、一仕事終えたボクはハンナちゃんがクラリスを監禁した建物まで戻ってきた。
居住区画から程近くに存在している寂れた教会だった。少し前に、老朽化を理由に新築の教会が別の場所に建てられ、お役御免となって解体待ちとなっている建物である。一応は施錠がされていたはずだが、内部には何も残って居ないに等しいので、申し訳程度に錠が掛けられているだけであり、壊して侵入するのは難しくなかったようだ。
尤も、ボクにしてみれば正面から錠を破壊などせずとも、屋根に上がって天窓外して侵入余裕だったのだが。
比較的健在な梁の上に降りて下の様子を窺う。
かつての礼拝堂は物が撤去されてがらんどうになっており、申し訳程度にいくつかの長椅子が床面に据え付けられているだけだった。清掃もされていない屋内は埃くさく、ただ施設の性質上採光量が大きくとられている構造なので、意外なくらいに明るい。
で、長椅子の一つに寝かせられていたクラリスが先程目を覚ましたところだ。
なお、マルトー青年はボクがここにスタンバってしばらくしてから現れ、眠るクラリスを気色悪い視線で観察していたようだった。ハンナちゃんの姿は見えないが、マルトー青年が入ってくる前に外で会話をしている気配があったので、おおかたハンナちゃんは邪魔が入らないように見張り役でもさせられているのだろう。
目覚めたクラリスは危機的状況を察して当然逃げようとした。
ハンナちゃんがここに彼女を監禁するにあたって手足を縛っていたようだが、何を思ったのかマルトー青年はクラリスが眠っている間に拘束を解いてしまったのだ。
力の限りにマルトー青年を突き飛ばして、礼拝堂の扉に向かって駆け出したクラリスを、マルトー青年は追い掛けるでもなくニヤニヤと眺めている。
脱兎の如くクラリスが扉に飛びつく、寸前。
「おぉっと残念」
「きゃあっ!?」
マルトー青年の背後から床を突き破って生えてきた何かが、凄まじい速度で虚空を走り、クラリスの身体を絡めとった。
深緑色をした植物の蔓のようなものが無数にクラリスの肉体を雁字搦めに縛り上げ、そのまま引き摺ってマルトー青年の元まで連れ戻し、まるで磔刑にでもするように吊り上げる。
お誂え向きに礼拝堂の聖壇上へと捧げる供物か、あるいは十字架の如く。
樹属性魔法の『賢明なる緑』だ。
媒介となる苗床がある場所でないと使えない魔法だが、様々な効果を付与することが可能で、攻撃や防御には勿論、荷物の運搬や陣地構築、登攀等にも利用可能な汎用性の高い魔法である。
あらかじめ展開してあったあの魔法でクラリスを捕える自信があったから、敢えて拘束を解いたのだろう。というか『あと一歩のところで逃げられたのに残念でしたぁ』がやりたくて態々クラリスが目覚めるのを待ったと思しきあたり、彼の品性の下劣さには信頼すら覚える。
衣服の内側にまで無遠慮に絡みつく蔓の感触に身を震わせるクラリスを嗤いながら、マルトー青年が告げる。
「状況は理解できているかな?抵抗しても無駄だぞ。ああ、助けを呼びたければ呼んでいいぞ」
「くっ……ぐ、う」
クラリスの首に絡みついた蔓が窒息しない程度に締め上げているので、大声を出すことなどできるはずもない。
「俺に忠誠を誓い、俺のものになれ。そうすれば苦しまないようにしてやろう」
「お、ことわり、します」
「意地を張らないほうがいいと思うがなぁ」
全身を締め上げる力が強まったのか、クラリスが声にならない悲鳴を上げる。
「なにが、もく、てき、で」
「目的?目的か。お前の主のクソガキに復讐することだ!俺をコケにしたことを後悔させてやる!!」
そのために取った手段が従者を痛めつけることって言うのが、なんとも小物で失笑を禁じ得ないのだが、張本人であるクラリスにとっては決して笑える状況ではないだろう。
だが、クラリスは微かに、だがはっきりと鼻で嗤って見せた。
「ちいさい、ひと、ね」
「なんだと……!もう一度言ってみろ!?」
「小物、くさくて、鼻が、まがり、そうだわ」
おお、ガッツあるなぁ。相手に生殺与奪を握られた状況で、よくもまあ。
「立場がわかってないようだな。今すぐにでも、俺はお前を殺せるのだぞ?」
「どうぞ、ごじゆう、に」
ボクの立場的にはクラリスを殺されるのはよろしくないので、もしそうなりそうなら助けに入るつもりでここに居る。だが、マルトー青年の目的がクラリスを辱めることである以上、少なくともすぐに殺しはしないはずだ。
クラリスの強気な発言は、それを見透かしているからこそでもあるのだろう。
なので、マルトー青年は切り口を変えてきた。
「言っておくが、俺はお前を死ぬよりも辛い目に遭わせることだってできる」
「…………」
「無知なお前に教えておいてやるが、この魔法『賢明なる緑』という魔法は術者次第で色々な使い方ができる」
無知なお前に~、という台詞回しは先日も使っていた気がするが、きっと普段から些細なことで他者にマウントを取らずには居られない性質なのだろう。一々それを枕詞にするあたりが最高に小物くさいのだと気付いていないのは本人ばかりである。
そんなマルトー青年が腕を振ると、クラリスの肉体を拘束する蔓が不気味に蠢き、彼女を上下逆さまにひっくり返し、四肢を四方から引っ張り大の字に拘束する。
重力に従ってクラリスのロングスカートが捲れ上がり、マルトー青年の口元が喜悦に歪む。
「いい眺めだなぁおい?」
「くだらない、使い方、ですね……?」
「口に気を付けろ。つい勢い余ってお前の手足を引っ張り過ぎてしまうかもしれない」
「ぐぅ!?あああぁっ!?」
クラリスの四肢を拘束した蔓が、外側へとテンションを張り、ミチミチと不穏な音を立てる。クラリスが苦悶の形相で声を上げたので、マルトー青年は溜飲を下げた様子で力を緩めさせる。
「あるいは、こうだ」
マルトー青年がもう一度腕を振ると、今度は蔓がクラリスの身体の至る所に絡みつき、微かに濁った謎の粘液を滲み出し始める。
その粘液が触れた部分からクラリスの衣服が腐食したようにぼろぼろと崩れ去り、瞬く間にまだら模様のあられもない有様になってしまう。
「それは人体には無害だから安心するがいい。だが勿論、人体を溶かすものもあるぞ。お前の口に突っ込んでから内側にぶちまけてやろうか」
征服欲を大いに満足させて上機嫌なマルトー青年だが、ボクは彼の御高説を聞いて呆気に取られていた。
え?それだけ?
いやいやいや、もっとあるでしょ出来ること。蔓で引っ張るとかは凄くもなければ特殊な使い方でもないし、衣服を腐食させる粘液とかただ只管に下劣なだけで応用性が皆無だし、体内に云々は結局やってること同じだし。『賢明なる緑』という名前が可哀そうになってくる。
ボクが過去に見たことがあるだけでも、例えば蔓の表面に毒針を形成したり、表面を部分的に硬質化させて打擲の威力を上げたり、あるいは擬態させて罠として用いたり、なんて使い方がある。ちなみにボクが知る中で一番えげつない使用方法は、極細に形成した『賢明なる緑』を相手の肉体を苗床に張り巡らして、強制的に身体のコントロールを奪うというものだ。
そのくらいに、術者次第で化ける魔法なんだけどなぁ……まあ、下劣な方向に特化しているという意味ではマルトー青年らしい持ち味が出ていると言えなくもないのか。ボクが言ったような使用法はこの場で必要ないから言わないだけって可能性もあるけど、まあ彼の顕示欲を鑑みれば自分が出来ることは出来る分だけ嬉々として自慢するだろうから、そういうことなのだろう。
「わかっただろう?内臓が溶けだしてから後悔しても遅いぞぅ?さっさと俺のものになると言え」
「おことわり、します」
「……状況が理解できない程に、馬鹿なのかお前?」
「脅せば、うなづくと思って、いる、貴方が、馬鹿です」
「なんだと……!」
すごいな。と素直に思った。
クラリスには対抗手段がなく、そしてマルトー青年は間違いなくクラリスを殺すことが出来る。死ぬより辛い目に遭わせることが出来るというのも強ち嘘ではない。
クラリスにだってそんなことはわかっていて、怯えていないわけではないのは見て明らかだ。ともすれば歯の根が合わなくなりそうな恐怖を押し殺して、毅然と振舞っているのがわかるのだ。
死の恐怖を凌駕するほどの強い意志。自分が大事なだけならば持ち得ないものだ。マルトー青年が執拗に持ち掛けてくる『俺のものになれ』という要求には別になんの拘束力もなく、単なる口約束なのだから、とりあえず頷いておけばいいのだ。この場を乗り切ったら知らぬ存ぜぬを突き通して反故にすれば良いだけのこと。
だが、逆上した相手に痛めつけられるリスクを負ってでも、クラリスが敢然と拒否し続けるのは、それが彼女にとって絶対に譲れないことだから。
例えその場凌ぎであってもマルトー青年に諂うことを頑なに拒む理由とは、一つしか考えられない。
つまりは、主であるアシュタルテ侯爵令嬢への、揺ぎ無き忠誠心だ。
「お嬢様……」
祈るように主を呼んだクラリスの姿に、マルトー青年はつまらなさそうに顔を顰めた。
「所詮は蒙昧な従者か。痛めつけねばわからんようだな」
「お嬢様、どうか。私に勇気を………………、お嬢様?」
「その身にたっぷり教育してやろう!――――ん?」
マルトー青年もボクも、奇妙さに気付く。
というのも、自身を鼓舞するように主のことを呼び続けていたクラリスの視線が、マルトー青年ではなくその背後のほうを向いているのだ。かつての聖壇位置に供物の如く吊り上げられたクラリスからは礼拝堂の出入り口――最初に逃走しようとして阻止された扉が見えているわけで、マルトー青年はそちらに背を向けて立っている。
梁の上に居るボクからは、礼拝堂の部屋中どこでも見渡せる。
なので、いつの間にか礼拝堂の扉が開いていて、そこに白い小さな影が立っているのが見えた。
これは異常なことだった。位置的にたまたま目に入ったクラリスだから気付いただけであって、マルトー青年はもとより、腐っても裏稼業の人間であるボクですら、いつ扉が開いたのかわからなかったのだ。
クラリスの視線を辿って振り向いたマルトー青年の顔面が歪んだ喜色に染まる。
「これはこれは、誰かと思えば」
「クラリス……?」
「おっと動くなよ?お前が魔法を唱えるよりも、俺がこのメイドの首をへし折るほうが速いぞ」
「クラリス……!」
得意満面のマルトー青年の言葉をまるっきり無視して、現れた白い影――アシュタルテ侯爵令嬢はクラリスしか見えていないようだった。
彼女がこの場に訪れるように仕組んだのはボクだ。といってもそんな大袈裟なことでなくて、単にヘレナちゃんを焚き付けて、自発的に彼女に助けを求めるように仕向けただけだが。学院の警備に通報でもすればそれでも事態を防ぐことは可能だっただろうが、そうなれば共犯であるハンナちゃんは罪を免れないばかりか大部分を押し付けられる可能性が高い。なので、ヘレナちゃんがハンナちゃんを救いたければ、アシュタルテ侯爵令嬢本人に直訴して協力することで減刑を願うしかないのだ。
ハンナちゃんの進退はともかく、アシュタルテ侯爵令嬢本人を蚊帳の外にして事態が解決してしまうのはボク的にもよろしくないので。
アシュタルテ侯爵令嬢が善性であれ悪性であれ、この状況を見過ごすことはないと踏んでのことだ。
事実、予想通りに彼女は現れ、間一髪で間に合ったと言えなくもないのだが。
(…………なんだ?)
どうにも様子がおかしい。
静かだ。
静かすぎる。
不気味なくらいに。
「おい!俺を無視するな!」
無謀なのか馬鹿なのか、まあ両方だと思うが異様な雰囲気に構わず声を荒らげたマルトー青年に、アシュタルテ侯爵令嬢がようやく視線を向けた。
やはり、静かすぎる無表情のままで。
「貴様がやったんだな」
「このメイドのことか?見てわからんのか馬鹿め、お前がこの俺に舐めた真似さえしなければ、こんなことをせずに済んだのだがなぁ?」
「そうか」
「もう一度言うが、下手な真似はしないことだ。俺が今からこれを教育するのを、特等席で見てるがいいさ」
「……そうか」
ボクは即座に動けるように緊張感を保ち、状況を観察する。
アシュタルテ侯爵令嬢が現れてから、嫌な気配が拭えない。冷や汗が流れる感触なんて随分と久し振りだ。あの不穏な気配に微塵も気付いた様子の無いマルトー青年はある意味幸せ者だろう。
アシュタルテ侯爵令嬢に見せつけるように、マルトー青年がクラリスの拘束を強め、彼女が苦悶の吐息を漏らした、その時だ。
ぽつりと、呟きが聞こえた。
「許さない」
突如、苦悶の声が響いた。
クラリスではない。
愉悦のままに笑みを浮かべて居たはずのマルトー青年が、変な体勢で固まっていた。よく見れば、己の胸を掻き毟るように手を当てているのがわかる。
「が、っは、あが」
真面な呼吸すらできていない様子で、マルトー青年はその場に崩れ落ち、凄まじい形相で歯を剥いた。
口角から泡を飛ばすマルトー青年の身を、想像を絶する苦痛が襲っているのは明白だった。何故ならクラリスを拘束していた蔓が罅割れて崩壊し消えていくからだ。マルトー青年に魔法を維持するだけの思考能力がなくなったのである。思考すら儘ならない状態にあるということだ。
アシュタルテ侯爵令嬢がマルトー青年に対して何らかの魔法を行使していることは明らかだが、どんな魔法を使っているのかがさっぱりわからない。傍目にはマルトー青年が勝手にもがき苦しんでいるようにしか見えないのだ。アシュタルテ侯爵令嬢は静かな足取りで礼拝堂内に歩を進めながら、氷のように冷たい視線でマルトー青年を見ているだけだ。
予兆もなにもなく、少なくともボクはあんな魔法は見たことがなかった。
とは言え、この状況は流石に見過ごせない。いくらなんでも殺してしまってはマズい。ボクが彼女をここに呼ばせた結果、彼女が人殺しをしてしまったとなれば、充分にボクの仕事上の過失足り得るだろう。遺恨がどうとかっていうレベルではない。
元より、行き過ぎた真似をすればそれがマルトー青年であれアシュタルテ侯爵令嬢であれ、止めるためにここに居たのだから。
梁から飛び降りようとしたボクは、しかし驚愕する羽目になる。
(なんだと……!?)
動けないのだ。
まるで泥濘の中に身を落としたような、巨大な抵抗力が肉体を包んでいて、殆ど身体を動かすことができなかった。
だが、そんな状況の中でボクの代わりに動いた人物がいた。
「――――お嬢様!」
クラリスだ。
ほぼ裸に近い格好を省みることもなく、クラリスはアシュタルテ侯爵令嬢へと呼びかけ、マルトー青年に痛めつけられたせいか途中で何度も転びそうな危なっかしい足取りで駆け寄ると、勢いのままに小さな主を掻き抱いた。
「お嬢様、それ以上はいけません。死んでしまいます」
「死ねばいい」
「いけません!死んでもいいかもしれませんが、殺してはいけません!」
何気に酷い言い草だが、クラリスが受けた所業を思えば当然だろう。
「お嬢様、クラリスは無事で御座います。お嬢様のお陰です」
「ほんとうに?」
「本当に御座います。少々の辱めを受けましたが、お嬢様が私などのために憤ってくださっただけで、充分に報われました」
「そうか……そっか」
「どうか、御心安らかに」
「うん……」
クラリスが声を掛けるほどに、アシュタルテ侯爵令嬢の異様な気配は鳴りを潜め、同時にマルトー青年の苦しみようも緩和されていくようだった。ついでに、ボクを縛る謎の抵抗感も。
朽ち寂れた礼拝堂の中心で、天窓から降り注ぐ光の下、子を抱く母のように。
クラリスが小さな主を抱き締める麗しい光景を眺めつつ、ボクは安堵の息を吐いた。




