1話_side_Cl_アシュタルテ侯爵邸
~"御傍付"クラリス~
お嬢様は一体どうしてしまわれたのだろう。
私はお嬢様の私室で彼女の淡雪色の御髪を整えながら、疑問に思う。
私はアシュタルテ侯爵家のメイドとしては若年で、というか私が知る限りでは最年少である。そんな若輩の私が大事な長女であらせられるプリムローズお嬢様の傍役と言う大役を仰せつかっているのは、偏に他にやりたがる人が居ないからだ。
要は、一番ザコメイドの私が押し付けられたに過ぎない。
曰く、お嬢様は凄まじくわがままだ。
侯爵夫妻にも二人の兄御にも只管甘やかされて育ったらしいお嬢様は、我慢と言う言葉をご存じないのだ。
ご自分の望みが通らなければ癇癪を起こすし、幼さ故の残酷さで平気で使用人を傷付け、あることないこと喚きたてる。
お嬢様に限らず、侯爵家の方々は使用人など消耗品としか思っておられないので、お嬢様がひとたび『アイツがいじめた!』などと言ってメイドを指差そうものなら、その瞬間に即刻解雇という無体がここでは罷り通る。
そんなだからますますお嬢様を諫めるものは居なくなり、お嬢様は増長し、メイドは順調に数を減らした。
ベテランでバランス感覚に優れた年嵩のメイド達は巧妙にお嬢様に関わり合う立場から逃げ、最終的に私がこの立場を押し付けられた――と、言うのが私をここに宛がった先輩メイドから聞かされた経緯である。
ただ、私には少し不思議に思える話だった。
確かに、見知った顔を見なくなることは多い。そう言えば最近あの人見ないな、と思っていたら実はとうの昔にお嬢様の逆鱗に触れて解雇されていた、なんてことがざらにある。そもそも人の入れ替わりの多い職場なので、まさかそんな事態になっているとは説明されるまで気付きもしなかったけど。
ではなくて、そう、つまりは説明された今ですら実感できていないのが不思議なのである。
というのも何故か私はお嬢様に気に入られているようで、今まで一度も理不尽な目にあってはいないのだ。
だから、とりあえずお嬢様にはクラリスを与えておけば良い、と言うのがここの使用人の暗黙の了解となるくらいに。
そんなお嬢様の様子が、少し前からおかしい。
それほどわがまま放題だったのがいきなり鳴りを潜め、もの凄くもの静かになられたのだ。
綺麗なドレスが欲しいとも、高級な宝石が欲しいとも、美味しいお菓子が欲しいとも仰らない。
メイドに向かって遊べとも仰らないし、歌えとも踊れとも仰らない。
あまりに異様な変貌ぶりなので旦那様自らお嬢様の様子を窺われたところ、別に病気でもないし、受け答えは間違いなくプリムローズお嬢様だし、本当にいきなりわがままだけが消えてしまったとしか言えない状態だったのだ。
当然、私も傍役として原因の心当たりを尋ねられたが、生憎とさっぱりだ。強いて言えば、お嬢様が様変わりする直前に、また一人メイドが理不尽な言いがかりで解雇されたはずだが、そんなの別に珍しくもないので、特別なきっかけとも思えない。
最もお嬢様の近くに侍りながら原因の見当もつかない私に、旦那様は『使えない奴だ』と仰り、解雇を言い渡そうとされた。とうとうお役御免かと、同僚が消えすぎてすっかり感覚が麻痺してしまっていた私は冷めた思いで沙汰を待っていたのだけど、そこにお嬢様がぽつりと仰るのだ。
「クラリスをとっちゃ、や」
誰よりもお嬢様に駄々甘の旦那様はその言葉にころりと意見を翻し、晴れて私の首は繋がったのである。
まあ旦那様方からすれば、お嬢様が『お気に入りの玩具を取り上げられるのを嫌った』くらいにしか思っておられないのだろうが。
私はと言うと、これだけお傍にいて一度も私の名前を呼ばれたことが無いお嬢様が、私の名前を憶えていてくださったことにまず驚いたのだけど、それと同時に少しだけ納得もしていた。
私がこの侯爵家にメイドとして仕えるようになったそもそものきっかけは、庶民にしては見目が良いから、というのを長男様(つまりお嬢様の兄君だ)に見初められたからだった。私は物心ついた時には既に孤児で肉親も居ない天涯孤独の身だったけど、一応孤児院の皆とは良好な関係だったし、無い頭で頑張って勉強もして、ようやく孤児院の先生達のために働いて恩返しできるかなぁと思った矢先の出来事だった。なにかの折に私を見かけた長男様が『アレをメイドにせよ』と望まれ、私は泣いて謝る先生達に見送られてこの屋敷の門戸を叩いた。
先生達が泣いて私に詫びた理由は簡単で、前述の通り、使用人を人間扱いせず消耗品として扱うこのアシュタルテ侯爵家という家の外聞が最悪だからだ。侯爵領の住人は専ら、侯爵家の人々を鬼畜外道の類だと実しやかに囁いている。
例え評判は悪くとも侯爵家は侯爵家。生粋の大貴族の言葉にたかが一孤児院が逆らえる道理もない。
孤児の身で礼儀作法なんて習えるわけもないから、最低限のモノすら身に着けていない。そんな私が分不相応の職場に、見た目だけを求められた愛玩用の扱いで呼び寄せられ、待ち受ける運命なんて悲惨なモノしか浮かばない。外の世界を碌に知らない私ですらそう思ったのだから、孤児院の先生達にはより陰惨な光景が透けて見えていたに違いない。
まず、そういう経緯で入ったものだから、先輩メイドからの風当たりは相当に強かった。
だって、彼女らからしたら生意気にも美人だから、というだけの理由で、メイドとしてはまったく使えない新入りが入ってきたのだ。私だって、逆の立場なら反感を抱いたかもしれない。
いつ首を斬られるかわからないストレスフルな職場で、役立たずの面倒を見たがる者など居ない。何故なら私がやらかせば、教育係にも間違いなく累が及ぶのだから。
先輩達からは壮絶な『歓迎』を受けた。
私を見初めた長男様も結局は一時の気まぐれでしかなかったらしく、私が最低限の教育(という名の洗礼)を終えて、メイドとして業務に加わった頃には既にご興味を失くされていたようで、となれば私の役割は先輩メイドの単なるストレス解消用サンドバックでしかなくなったのだ。
日々の鬱憤をぶちまけるのにうってつけの立場で、それで嫌になって辞めてくれれば言うことなし、といったところか。
ある時、私は使用人用の水場で、汚れまみれのお仕着せを洗っていた。
先輩の『歓迎』の一環で、ひどく汚されてしまったのだ。見た目の汚らしさも然ることながら、それ以上に酷い臭いで、先輩方は一体どこからこんな汚物を調達してくるのだろうかと毎回疑問に思う。
そう、毎回である。
こうして汚されるのも、それを洗うのも、初めてではない。
この頃には既にこれが恒例行事みたいなものと化していて、間違っても汚れた姿で侯爵家の方々の前に出るわけにはいかないから、仕事が始まる前に綺麗にしておきなさいと言い渡されるのがいつものことだったのだ。先輩方の『歓迎』は日に日にエスカレートしていたが、私は絶対に自分から辞めてなるものかと必死に食らいついていた。この侯爵家の人間性は最悪だが、金払いはすこぶる良いのだ。私がここで理不尽な屈辱に耐えてさえいれば、お給料で院の皆に良い生活をさせてあげられるのだから。
季節は初冬で、肌着姿で凍えながら冷たい流水で必死に衣服の汚れを落としていた私は、いつのまにか傍に立っていた人影に気付かなかった。
「ねえ」
びくり、と私の肩が跳ねる。
「だれがやったの」
ひどく小さな声でそう問われ、初めて私はすぐそばにプリムローズお嬢様が立っておられることに気付いたのだ。
屋敷の裏手の、ひと気のない洗い場に、供も連れずにたった一人で。庭師ならともかく内勤のメイドですら用がなければまず訪れない場所だ。言うまでもなく、侯爵家の方々が来る場所では決してない。
明るい夜を凝縮したみたいな美しい瑠璃色の瞳が、無感情に私を見詰めていた。
もこもこと可愛らしい冬用のドレスを着て、御髪も淡雪の如く真っ白なプリムローズお嬢様は、静かに佇んで居ると本当に雪の妖精かなにかのようだ。その片腕に抱かれた真っ白なクマのぬいぐるみが、唯一年齢相応に幼気だった。
声を掛けられるまでお嬢様の存在に気付かないなんてとんでもない無礼だし、こんな格好だし、今更取り繕っても遅いかなぁ、と諦めていた私は、開き直って手を止めないままヤケクソで答えた。
「メイドのシンシアさんと、ヴァネッサさんですよ」
どうせ使用人の名前なんて覚えても居ないんだろう。
当然、私などの名前を問うたりするわけもない。
案の定、お嬢様は「そう」と呟いたきり興味を失くしたように立ち去ってしまった。
その後、結局私は風邪をひき、先輩に嫌味を言われながら三日間の療養を余儀なくされた。
そして復帰した私は初めて耳にしたのだ。
メイドのシンシアとヴァネッサが、お嬢様の機嫌を損ねて解雇された、と。
2021/5 細部の描写を修正。