Cafe Shelly 翼を失った鳥
私の夫は講演家。人前で話をすることを商売としている。
おかげさまで、全国あちらこちらに行っては、自分の経験から得た教訓の話をさせてもらっている。どこかの調査の人気講師ランキングのトップ10入を果たしており、おかげでラジオ番組も一つ持っている。
身内である私ですら、夫の声に聞き惚れることがある。渋くて通るやさしい声。これが夫の武器ともいえる。
そんな夫だからこそ、喉にはとても気を遣っている。特に冬のシーズンになると、ノドを傷めないように最新の注意を払っているのだが。
「おかしいなぁ、ちょっと喉の奥に違和感があるんだよね」
この二、三日そんなことを言い出す夫。世の中は風邪やインフルエンザが流行っているこの時期だから、ひょっとしたらどこかで病原菌をもらってきたのかもしれない。
「早めにお医者さんに行ってみたら?」
「まぁ、熱もないし大丈夫だと思うよ。それに今月はスケジュールがパンパンで、病院に行っている暇がないんだよ」
白髪交じりの頭をたたきながら、そういう夫。もう若くはないのだから、ゆっくりと仕事をしてほしいのだが。世の中がそれを許してはくれないらしい。
「じゃぁ、マスクは必ずしていくようにね」
「わかった、ありがとう」
夫はそう言って、今日も講演の仕事に出かけていった。一度外に出るとしばらくは家に帰ってこない。そんな生活を送っている。
息子が二人いるが、一人はすでに社会人。もう一人も遠くの大学に行っているので、家には私一人。けれど寂しいわけではない。私もちょっとした仕事をやっていて、その仲間たちと毎日顔を合わせるし。夜は夫は必ず電話をかけてくれる。そこで夫婦の会話もできている。おかげで何不自由のない暮らしを送らせてもらっている。
その夫が、今夜かけてきた電話が気になった。
「なんだか痰が絡んできてね。今日は思うように声が出なかったよ」
「やっぱり病院に行ったほうがいいんじゃないですか?保険証は持ち歩いているんでしょう?」
「あぁ。けれど、明日は昼間に一本、夜にも仕事と懇親会があるから時間がないんだよ。まぁ、市販の薬でなんとかなるんじゃないかな」
「そうですか。時間ができたら病院に行ってくださいね」
夫の症状はあまりよくなさそうだ。声が商売なのだから、喉には十分注意をしてほしいのだが。
三日後、夫がようやく帰宅。
「ただいま」
「おかえりなさい。あなた、やっぱり声が変よ。まだ治らないの?」
「あぁ、ちょっとガラガラ声になってしまったようだ。さすがに声をだすのがつらいから、明日は病院に行ってみるよ。ちょっと疲れたな。酒を飲んで寝るから用意してくれ」
夫は大の酒好き。特に洋酒が大好きで、寝る前には必ずスコッチを飲む習慣がある。夫の商売柄、懇親会には頻繁に出席するみたいだが、そこでも強いお酒をどんどん飲んでいるみたい。
「強いお酒は喉に悪そうですよ。今日は控えたほうが…」
「バカ言っちゃいけない。これが楽しみで生きているんだから。早く支度してくれ」
普段は優しい夫だが、お酒のことになると口調が強くなる。夫の唯一の趣味と言ってもいいくらいだから、このくらいは許すしかないか。
翌日、夫は朝から病院へと足を運んだ。幸い、今日はラジオの収録が午後からあるだけだから、ちょっとはゆっくりと過ごせそうだ。
ラジオ番組は十五分ではあるが、仕事柄生放送というわけにはいかない。そのため、一ヶ月分を録音して放送する。私は毎週、夫の番組を楽しみにしている。家で聞く声とはまた違った、仕事人としての夫の声。これに聞き惚れている。
けれど、あんなガラガラ声で収録は大丈夫なのかしら?ちょっと不安が残る。
「ただいま」
午前の病院、そして午後の収録を終えた夫が夕方帰宅。
「あら、声、だいぶいいみたいね」
「あぁ、病院での処置と、もらった薬がよかったのかな。おかげでラジオの方もなんとか無事にこなせたよ」
「それならよかった」
夫の声が戻ったことで、私は一安心。
「でも、ノドの奥になんだか違和感があるんだ。まだちょっと声を出しづらいかな」
「あなたは声が商売なんだから。無理をなさらないでくださいね」
「あぁ、わかってる」
わかってる。そう言いながらも声を出さなければいけないのが夫の仕事。私に何かできることはないのかしら。
翌日、私は知り合いに相談をしてみた。
「ノドねぇ。季節柄空気が乾燥しているから加湿器なんてどうかしら。ほら、ノドに直接当てるようなタイプの」
「それなら家にあるのよ。昨日の夜はそれをやっていたわ」
「あとは薬用のど飴とか」
「のど飴はいつも、特別なものを使っているわ。高いけれど効果があるのよ」
「それだけノドに気を遣っているんだったら、私にはもう思いつかないわよ」
そうか、普通の人はそこまでノドに気を遣っていないのか。
「あ、そうだ、あの人ならいいことを何か知っているかも」
「あの人って?」
「私の知り合いに、旦那さんと同じように人前で喋る仕事をしている人がいるの。講演家じゃなくて、コンサルタントなんだけど。よく研修をやっているって聞いているから、ノドのケアも何か知っているかも」
「よかったら紹介してくれない?」
「わかった、ちょっと待ってて、連絡をとってみるから」
彼女は早速、その人に電話で連絡を取ってみた。うん、うんとうなずいている。この様子だと、いい感じで話が進んでいるみたい。
「わかった、ありがとう。彼女、きっと喜ぶわ」
そう言って電話を切る彼女。
「いい話になったわ。相手の人、羽賀さんっていうんだけどこれから会ってくれるって。ちょうど知り合いの喫茶店に行くところだったから、そこでどうかって。あなた、時間あるんでしょ」
ありがたいことに、私はいつも時間を持て余している。もちろん二つ返事でオーケーを出した。
「私はこのあと用事があるから。羽賀さんと引き合わせたら退散するわね。じゃぁ、早速行きましょ」
彼女の誘導で、待ち合わせをしている喫茶店へ移動することに。彼女はおしゃべり好きなので、移動中も一方的に話をしてくる。それこそ、これだけしゃべって、ノドは痛まないのかしら?
「ここ、ここ、このお店よ。ここの女の子がまた可愛いのよ。そしてマスターが渋くていい男なの」
彼女のおしゃべりはお店着くまで止まることはなかった。
カラン・コロン・カラン
扉を開くと、心地よいカウベルの音。同時に漂ってくるコーヒーの香り。そこに甘い香りも混じって、私は一気に心地よい空間へ誘われていった。
「いらっしゃいませ」
低くて渋い声。このお店のマスターかな。
「あ、羽賀さんっ!」
彼女が向けた声は、お店の真ん中にある丸テーブル席の男性に向けられた。同時に男性が立ち上がる。長身でスラリとした方。そして笑顔がとてもよく、親しみを感じる。
「こちらが羽賀さん。いい男でしょ」
まったく、彼女の口癖は気に入った男性を見ると「いい男」だもんな。
「初めまして、羽賀純一といいます。なんでも旦那さんのノドが気になっているということでしたが」
「はい、実は…」
早速夫のことを話し始めようとしたとき、彼女がそれを止めた。
「私、これから用事があるから。あとは二人で。あ、ここのオリジナルブレンド、必ず飲んでね。羽賀さん、あとはよろしくね」
「はい、わかりました。いってらっしゃい」
彼女、いつもあわただしいな。
「さてと、先ほどの続きをお話いただいてもよろしいでしょうか。あ、その前にボクからもぜひここのオリジナルブレンド、シェリー・ブレンドはおすすめしますよ」
「じゃぁ、それを注文します」
「はい、わかりました。マスター、シェリー・ブレンド一つおねがいします」
「かしこまりました」
マスターの声、夫と似ている。安心できる声だ。
「では始めましょう。確か電話では旦那さんのノドのことが気になっている、ということでしたね」
「はい、実は…」
私は夫の仕事のことから、今の調子のことまでをかいつまんで話をした。すると、羽賀さんのほうが驚いていた。
「びっくりですよ。まさか旦那さんがあの有名な方だったなんて。いやぁ、ボクも旦那さんの声のファンです。ラジオも時々聞かせていただいていますし」
「ありがとうございます。それで、ノドのケアって他になにかやることないでしょうか?」
「そうですね。ちょっと気になることがあるので質問させてください。旦那さんはタバコは吸われますか?」
「以前は吸っていたのですが、ここ数年は吸っていないはずです」
「では、お酒は?」
「お酒は大好きで、毎晩欠かさず飲んでいます。スコッチとかブランデーとか」
すると羽賀さん、ちょっと考え込んでいた。やはりこのあたりに原因があるのだろうか?
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
そのとき、マスターがコーヒーを運んできてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「よかったら、飲んだ後どのような味がしたかを教えて下さいね」
飲んだ後の味の感想を聞かれるなんて、めずらしいな。
「あ、そう言えば今日はマイさんは?」
そういえば、彼女はここに可愛らしい女の子がいるとか言っていたな。
「マイはちょっとおつかいに行ってもらっています。もうじき帰ってくると思いますが」
「なんだかマイさんがいないと、このお店も華やかさに欠けますよねぇ〜」
「羽賀さん、私じゃ役不足ってことですか?」
「うぅん、やはりシェリー・ブレンドの感想を聞く役目はマイさんのほうがしっくり来るなぁって思って」
「いやいや、こういった奥様に対しては私のほうが人気あるんですよ」
「またまたぁ〜、マイさんに言いつけちゃいますよ。マスター、女性の人気取りをしているって」
この二人の会話の様子を見ていると、なんだかとてもほほえましい。それだけ信頼しあっている仲なんだな。
「では、私はコーヒーをいただきますね」
喫茶店のコーヒーなんて久しぶりだな。いつもは家にいて、自分で淹れたコーヒーを飲むことは多いけれど。
カップを近づけると、コーヒー独特の香りが漂ってくる。なんだかすごく落ち着く。そしてカップを口にしてコーヒーを注ぐ。
「あぁ、なんだかすごく幸せな気持ち」
このとき、夫の声が聞こえた気がした。低くて渋い、そして私を包み込むような声。その声に囲まれると、すごく安心する。これが私の幸せでもある。
「お味はいかがでしたか?」
マスターの声で私はハッとした。そうだった、今は喫茶店にいるんだった。
「なんだかすごく落ち着く味ですね。私は夫の声を聞いていると、すごく落ち着くんです。そのときのような感じがしました」
「なるほど、奥さんは旦那さんの声の大ファンなんですね。そこから得られる落ち着き、安心感。こういったものを欲しがっているんだ」
「はい。まさにその通りです。だから、夫の声がとても気になるんです。あの声を失ったら、私の幸せも失われるんじゃないかって」
そう言って初めて気づいた。私、どれだけ夫の声に助けられているのか。
「わかりました。奥さんの幸せを失わないようにしないとね。では気になる点をお伝えします」
羽賀さんの顔つき、先ほどまでのにこやかなものから一転して、急にまじめなものとなった。私も背筋を伸ばして羽賀さんの話を聴く。
「まず、ノドのケアについてですが、できればすぐにお酒をやめさせてください。洋酒は特にノドに刺激を与えてしまいます。それと、耳鼻咽頭科の専門医にすぐに診せてください」
「専門医、ですか?」
「はい。調べないとわかりませんが、ポリープなどができている可能性もありますから。あくまでも可能性なので、念のためのことです」
「は、はい…」
ポリープと聞いて、ちょっと動揺した。悪性のものだと生体の切除、なんてこともありえる。確か有名な歌手がノドのガンでそういうことがあったというニュースを聞いたことがある。
「わかりました。ありがとうございます」
ちょっと胸がドキドキしている。ひょっとしたら、夫の声を聞けなくなるかもしれない。私にとっては生きがいでもある夫の声。それを失ってほしくない。
私はお礼を言って、家に戻った。しばらくして夫が帰宅。
「ただいま」
「あら、少し声が戻ったみたいですね」
「あぁ、ラジオの収録前にちょっとだけ声の調子が戻ってね。でも、違和感はなかなか消えないんだよ」
夫のその言葉で、突然不安になった。羽賀さんの言葉を聞いてからの、あの衝撃がふたたび思い出された。
「あなた、今日知り合いから紹介されて、専門家の意見を聞いてきたの。そうしたら、洋酒はノドに刺激を与えるから控えたほうがいいって。それと、専門医にすぐに診せたほうがいいって言ってたわ」
「バカ言っちゃいかん。お酒は私の唯一の楽しみだ。それを奪われるくらいなら、声くらいなんてことない。それに明日からまた出張だ。医者に行く時間はない。そんなに心配するな。すぐに治る」
「でも…」
言葉を続けようと思ったがやめた。こうなったときの夫は、周りの言葉なんか聞かない頑固者になってしまうから。
不安を抱えながらも、夫はお酒と仕事を止めようとしなかった。そうして何日か経ったある日のこと。
「ひさしぶりー。旦那さん、あれからどうなった?」
前に相談した知り合いから、突然電話がかかってきた。彼女はいつも明るい声で周りの雰囲気を変えてくれる。
「うん、それがね…」
羽賀さんから聞いた話、そして夫の今の状況を彼女に伝えてみる。
「わかった、私がなんとかしてあげましょう。たぶん、あなただからわがままが通ると思っているのよ」
夫も彼女のことは知っている。といっても、仲良く話すほどの仲ではない。彼女は一体どのような手を使おうというのだろうか?
とりあえず、彼女に夫の携帯電話の番号を教える。あとはまかせて、ということだったので待つことにした。
それから二日後のこと。夫が出張先から帰宅するやいなや
「明日、時間を作って病院に行く。悪いが予約をしてくれないか」
そう言い出した。この気持ちの変わり様、一体何が起きたのだろうか?夫には聞けずに「はい」と返事だけをして近くの総合病院に予約を入れることにした。
その日の夜、彼女に電話をして何をしたのか聞いてみた。するとこんな答えが返ってきた。
「正直に、旦那さんの一ファンとしての感想を伝えただけよ。とても素晴らしいお声をしていますが、最近調子がよろしくないようですねって。あ、もちろんあなたの友人であることは名乗ったわよ。変な気を起こしてもらいたくなかったからね」
あははと笑う彼女。そういうことをあっけらかんと言えるからすごいな。
「でね、あなたから聞いていた、羽賀さんの情報を伝えたの。場合によってはポリープができているかもしれないって。そう言ったらちょっと焦ってたわ」
夫は見栄や外聞を結構気にする方である。ファンからそう言われたら、気になってしまうのだろう。まったく、私がいくらいっても聞かないのに。まぁ、結果オーライと言ったところかな。
翌日、夫は病院へ。これで一安心かな。そうだ、病院から返ってきたら夫をあの喫茶店に連れて行こうかな。あそこのコーヒー、きっと気に入ってくれると思うから。
だが、夫の帰りが遅い。総合病院だから混んでいるのだろうか。それにしても、朝一番で出ていったのに、もう昼を回っている。せっかくお昼を一緒にと思っていたのに。
午後一時を回って、ようやく夫が帰宅。
「ただいま」
その表情は暗い。病院で何かあったのか?
「あなた、おかえりなさい。病院はいかがでした?」
すると、夫はソファにドカッと座り込み、ふぅっと大きなため息。そして小さな声でこうつぶやいた。
「ノドに…ポリープができていた」
この瞬間、私の中で不安の感覚が大きくなった。
「ぽ、ポリープってどういうこと?」
「まだわからん。これが悪性なのか、検査をしてもらっている。そのために時間がかかった」
夫もこれがどういうことなのか、理解はしているようだ。悪性であれば喉頭ガンの疑いがある。
そして数日後、病院から結果が出たので来てくれとの連絡があった。なぜか私も一緒に、ということだ。ますます不安が募る。
「今回の検査の結果、旦那さんは喉頭がんであることがわかりました」
医者の冷酷な宣告。このとき、目の前が真っ暗になった。さらに私に追い打ちをかける言葉が。
「ガンは中期の状態です。治療方法としては声帯の切除を行うことになります」
この瞬間、私の意識がなくなった。
次に気がついたのは病院のベッド。
「まったく、付添のお前が倒れてどうする」
どうやら私は、医者の宣告を聞いて意識を失ったらしい。それほどまでにショックが大きかった。
「あなた…」
それ以上声にならなかった。苦しいのは夫のはずなのに。
「大丈夫、大丈夫だ」
大丈夫なわけがない。声を売り物にしている夫なのに、その声を失ってしまうのだから。
「私は声を失ってしまうことになる。まったく、翼を失って飛べなくなった鳥と同じだな。これも自業自得か」
夫が言うには、タバコはやめたと言っていたが時々吸っていたらしい。私にやめたと言った手前、家では絶対に吸わなかったそうだ。
「お前に対してごまかしてきたツケが、こんな形で現れてしまったんだなぁ」
なんとか夫の声を失わずに済む方法はないのか。私がまっさきに思い浮かべたのは、あの羽賀さんである。あの人なら何か知っているかもしれない。
早速、以前もらった名刺を見て電話をかける。
「そうでしたか…」
事情を話したときの羽賀さんの第一声はこれであった。しばしの沈黙の後、羽賀さんの方からこんな言葉が飛び出した。
「一度、旦那さんにお会いさせていただけないでしょうか。場所はこの前と同じ、喫茶店カフェ・シェリーで」
具体的な策が飛び出したわけではない。けれど、羽賀さんのその言葉で安心感を感じる。私はすぐに夫にそのことを伝える。
「そんな人に会って、何か救われるのかね」
少し怒った口調で私に言葉を向ける夫。やはり、自分のことでイライラしているのだろう。
「とにかく一度お会いになって下さい。こういう方です」
夫に羽賀さんの名刺を差し出す。すると、夫の表情がみるみる変わった。
「お前が会っていたのは、コーチングの羽賀さんなのか!?」
驚きの表情を見せる夫。どうしたんだろう?
「羽賀さんといえば、なかなか会うことができない一流のコーチだぞ。よくこんな人に出会えたなぁ。私たち講師の中でもトップクラスの人だぞ」
羽賀さんってそんなにすごい人だったんだ。そんな人が私なんかと気軽に会って話をしてくれただなんて驚きだ。
ともあれ、夫は羽賀さんと会うことになった。
「いらっしゃいませ」
あの喫茶店、カフェ・シェリーへと再び足を運ぶ。今度は女性の店員さんがいる。髪が長くて、とてもかわいらしい人だな。
「あの、羽賀さんという方と待ち合わせをしているのですが」
「あ、うかがってます。羽賀さん、今日はぎりぎりになるということでしたので、こちらのテーブルでお待ち下さい」
通されたのはこの前と同じ、店の真ん中にある丸テーブル。
「ほう、なかなかいい雰囲気の喫茶店じゃないか。色合いも落ち着くし、香りもいい。流れているジャズも雰囲気にぴったりだな」
夫はこういったお店の評価には厳しい。ここまで褒めるのはとてもめずらしいこと。それだけ気に入ったということなんだな。
「先日はお越しいただきありがとうございます」
お店のマスターが直々に挨拶に来てくれた。
「こちらこそ、ありがとうございます。夫にもあのおいしいコーヒーをのませてあげたいので、二つお願いできますか」
「かしこまりました。すぐにご用意しますので、しばらくお待ち下さい」
夫もこの喫茶店が気に入ってくれたようだ。きっと、あのコーヒーを飲んだらさらに気に入ってくれるのではないだろうか。
「失礼ですが、ノドを痛めていらっしゃるということをマスターからお聞きしました」
女性の店員さんが親しげに話しかけてきた。
「そうなんだよ。これが困ったことにね、もうすぐ私の声が出なくなることになってね」
笑いながら話す夫。笑い事ではない。けれど、今は少しでも気持ちを軽くするために、笑い話として人に伝えるようにしているのだろう。
「声が出なくなるって…もしかしたら喉頭がん、ですか?」
「はい、よくご存知で」
「実は、私の知り合いにもそういう方がいらっしゃって。けれど、その方とは今もおしゃべりを楽しんでいますよ」
「えっ、声帯を切除したのにおしゃべりを?」
夫の顔色が変わった。私もふさぎ込んでいた気持ちが、ぱっと明るくなった気がした。
「ど、どうやっておしゃべりを?ぜひ教えてください!」
「教えるよりも百聞は一見に如かず、だと思います。ちょっとその方に連絡を取ってみますね」
そう言うと、女性店員は一度カウンターの奥に引っ込んだ。それと入れ替わりに、マスターがコーヒーを運んできてくれた。
「お待たせしました、シェリー・ブレンドです。飲んだらぜひどのような味がしたのかを教えてください」
前回と同じだ。どうして味の感想を聞くんだろう。そう思いつつ、私はコーヒーに口をつけた。
「えっ、うそ、ど、どうして?」
驚いた。前回と味が全く違う。
「どうしたんだ、やけに驚いているが。うん、確かに美味しいコーヒーだ。なんていうんだろう、心に広がっていた闇の中に、一筋の光が見える。例えるとそんな感じがした。いや、これは味の感想ではないな。はっはっはっ」
夫は笑いながらそう言う。だが、私が感じた味は全く違う。
「奥様はどのような味がしましたか?」
「はい、私はすごく複雑な味がしました。苦味もあれば酸味もある。いや、悩みや苦しみ、そして絶望…けれど、それを吹き飛ばすような感覚があとから襲ってきたんです」
「なるほど、そういうことですか。失礼ですが旦那さまは大きな悩みを抱えていらっしゃますね。そして、その解決策をなんとかして求めたい。そして奥様も同じような感じですが、今はとても複雑な思いをしていらっしゃる。そうではありませんか?」
「どうしてそんなことがわかるんだね?」
夫の疑問、私も同じことを思った。
「先日奥様がいらっしゃったときにはお伝えできなかったのですが。実はこのシェリー・ブレンドには魔法がかかっています」
「魔法?」
夫と私、同時に同じ言葉を口にした。コーヒーに魔法って、どういうことなんだろう?
「はい、このコーヒーは飲んだ人が望んだ味がするのです。コーヒーとは薬膳として使われることがあります。効能は、その人の悪いところに効果があるのです。そしてこのコーヒーはその作用がさらに強くなっていて、人によって欲しいと思うものの味がするのです」
人によって欲しいと思うものの味がする。それで私が最初に飲んだときには、幸せを感じる味。そして今日は悩みを解決するという味がしたのか。
「けれど、今回は味というよりもイメージが強かった気がするぞ。これはどうしてなんだ?」
「はい、人によっては味のイメージが映像として浮かんでくる人もいます。多くの場合は強くそれを望んでいるときです」
「なんと、不思議なコーヒーがあったものだ。信じられないが、実際に今体験したことだから間違いないのだろう…」
私は信じる。だって、前回と今回でこんなにも味が、そして感じるイメージが変わっていたのだから。本当に魔法のコーヒーだ。
「連絡つきましたよ。今から来てくれるそうです」
カウンターの奥から女性店員さんがそう言いながら出てきた。
「彼、来てくれるのか。きっとお二人にとって励みになりますよ。まさに希望の光になると思います」
マスターがそういうのだから間違いないだろう。声帯を切除したのに、おしゃべりができるというのだから。夫にとってはまさに希望の光だ。
カラン・コロン・カラン
「お待たせしました。遅れてごめんなさい」
お店に飛び込んできたのは羽賀さんである。遅れて、と言いながらも約束の時間ぴったりに登場。私たちのほうが勝手に早く来ているのだから。
「あ、もうシェリー・ブレンドを飲まれたのですね。どんな味がしたのか、ぜひ教えて下さいよ」
親しげに話しかけてくる羽賀さん。夫はちょっと恐縮した感じで、あらためて名刺交換をしようとしている。
「初めまして。いやぁ、まさかあの有名なコーチングの羽賀さんとこんな形でお会いできるなんて光栄です」
「そんなにかしこまらないで下さい。ボクはそんなに偉くありませんから。それよりも旦那さんのほうがすばらしいですよ。講演で全国を回られているだなんて。尊敬するなぁ」
夫の表情もにこやかになる。
「それで、夫の状況なのですが…」
私はあらためて、羽賀さんに夫の病気の状況について説明をした。そして、声帯切除のこと、それによって声を出せなくなることも。
「私はこれで職を失いますね。唯一の武器である声を失くしてしまうのですから。ははは、ははは」
夫は無理やり笑っていることがわかる。そうでもしないと、気持ちが沈んでしまい生きていく希望すら無くしてしまうかもしれない。その気持が痛いほどよくわかる。
「その問題なのですが、おそらくなんとかなるかもしれません。といっても、今のような形でしゃべるわけにはいかないのですが」
「羽賀さん、そんなこといって無理な希望を抱かせないで下さい。声が出なくなるのはわかっているのですから」
夫はあきらめた表情でそう言う。
「マイちゃん、飯山さんのことは紹介したの?」
「はい。もうすぐこちらにいらっしゃるはずですよ。羽賀さんがそう言うだろうと思って連絡をつけておきました」
「さすが、マイちゃんは気が利くね」
飯山さんというのは、先ほど女性店員が言っていた人のことだろう。喉頭ガンで声帯を切除したのに、おしゃべりを楽しんでいるってどういうことなんだろう。その謎を早く知りたい。
カラン・コロン・カラン
お店の扉が開く。そこに現れたのは一人の男性。
「いらっしゃいませ。あ、飯山さん」
飯山さんって、さっき言っていた人?
「早かったですね」
女性店員がそう話しかけると、その人は少ししゃがれた声でこう答えた。
「ちょうど買い物に出てたから。そろそろコーヒーが飲みたいと思っていたところだったからね」
この人、普通に会話をしている。本当に声帯を切除した人なの?
「こちらが先ほど電話で話した方なんです。よかったら飯山さんの体験を話していただけますか?」
「もちろん、いいですよ。初めまして、飯山と言います」
そう言って夫に握手を求めてくる飯山さん。なんら普通だと思うのだが。
「どうも。飯山さんって本当に声帯を切除されたのですか?私は喉頭がんを宣告されて、声帯を切らなければならなくなってしまって…」
「はい、二年ほど前に。私の場合、食道発声法というものを練習して、今では普通に会話ができるようになりましたよ」
「食道発声法?」
「はい、食道の一部を声帯代わりにして震わせて声をだすんです。練習は必要ですが、こんな感じでしゃべれるようになりますよ」
そんな方法があっただなんて。これで夫にも声が…。
「それって、どのくらい練習しないといけないのですか?」
夫は飯山さんの話に食いついてきた。希望の光が見えたのだろう。
「そうですね、半年から一年はかかるかと」
「えぇっ…そんなに」
今度はまた落胆する夫。どうしてなのか?
「私は人前で話をするのが仕事なんです。そんなには待てません。私の話を待っている人たちがたくさんいるんです。もっと短い期間でどうにかならないのですか?」
焦る夫。その気持ちはわかる。ずっと人前で喋ることが仕事だったのだから。それを失う怖さ、そして生きがいをなくす喪失感。そこからの焦りがきているのだろう。
困った顔の飯山さん。だがここで、羽賀さんがニコリと笑ってこんなことを言い出した。
「ボクなりに探した結果、こんなのを見つけたんですよ」
そう言うと、バッグからパソコンを取り出した。そしておもむろにキーボードで文字を打つ。すると…
「こんな最新の方法で、本人の声を出すことができるんです」
パソコンからは羽賀さんの声が出てくる。画面には今喋った言葉が文字で出ている。
「今のは録音ではないんですよね?」
「はい、パソコンに入力した文字をそのままボクの声で出したものです」
夫の目が輝いた。
「これって、私でもできるものなのですか?」
「はい、そのためには声のサンプリングが必要になります。これに一日は費やしてしまうのですが。それに費用もかかります」
「いえ、やります。これなら食道発声法を練習している間も、私自身の声で会話ができる…」
夫に希望の光が見えてきた。まさにさきほど飲んだコーヒーの、あの感覚だ。
「飯山さん、羽賀さん、ありがとうございます。これで夫も治療に専念できると思います」
「いえいえ、私は私のようなガン患者に、希望を持ってもらえたのならそれで満足です。そうだ、今度私たちの会に参加されませんか?私と同じ、喉頭がんで声帯を切除してしまった人たちの集まりです」
飯山さんの提案。夫はこれを喜んで受け入れた。同じような境遇の仲間がいる。それだけでも心強い。
「みなさん、本当にありがとうございます。私はね、翼を失った鳥の状態でした。大空に飛び立つことの出来ない、飛べない鳥。声を失った講演家というのはまさにその状態だったんです」
「そうですよね。ボクも人と会話をして成り立つ仕事をしていますから。声を失ったらどうなるか、想像しただけでも恐ろしい気がします」
羽賀さんも夫の言葉に同調した。
「そういえばまだコーヒーが少し残っていますね。最後によかったら、今どのような味がするのか確認してみて下さい」
マスターがそう言って促してくれた。私もまだコーヒーが残っている。今ならどんな味がするんだろう。早速、コーヒーを口にしてみた。
少し冷めてはいるが、味はしっかりとしている。さっきは苦味や酸味、複雑な味の中からそれを吹き飛ばすような感覚だった。さて、今度はどうなのか。
「んっ、こ、これは…」
私よりも先に夫が言葉にする。何か起きたようだ。私にも何か変化があるのだろうか。
「えっ、どういうこと?」
コーヒーを口にしたときに、すぐにその変化に気がついた。さっきまで苦いと思っていたコーヒーが、とても甘く感じるのだ。これはどういうこと?
「お二人とも、とても驚かれているようですね」
マスターの言葉に、先に答えたのは夫であった。
「はい、いや驚きました。コーヒーが甘いんです」
「えっ、私もそう。甘く感じるんです。砂糖は入れていないのに。どういうことですか?」
「お前も甘く感じたのか。ということは、同じものを望んでいるということなのか…」
夫と同じ味を感じている。ということは同じものを望んでいる。
私が今望んでいるもの。それは夫とのゆっくりとした、そして落ち着いた生活。講演家としての夫は、いつも忙しく動き回っていた。だから二人でこうやって外に出ることなんてあまりない。
できれば、こんな感じでゆっくりとした時間を過ごしたい。そう、今更ながらではあるが「甘い生活」を送ってみたい。けれど、そんなことは口には出せない。夫も本当に同じような思いをしているのだろうか?
「私は忙しすぎた。仕事、仕事ばかりでお前のことを見てあげられなかった。これを機に、もう少し仕事を減らそうかと思う。そして、ゆっくりお前と過ごす時間をつくってみたい」
夫がそう言ってくれる。まさに私と同じ思いだ。このとき、うれしくて思わず涙が出てしまった。
「おいおい、泣くことはないだろう」
「ごめんなさい。でも、うれしくて…」
「奥さん、よかったですね。シェリー・ブレンドが教えてくれた、甘い生活が旦那さんと同じだった。だから嬉しかったのですね」
羽賀さん、私の想いを理解してくれている。それもまた、とても嬉しかった。
「ここでボクから旦那さんに提案があります」
「はい、どのようなことでしょうか?」
「その声を売り物にしませんか?」
「声を売り物?まぁ、今も講演で声を売り物にはしていますが。けれど、それはできなくなりますよね」
夫が疑問を抱くのは当たり前。私もどういう意味なのか知りたくなった。
「実は、ボクがこのパソコンで音声を出すことを始めたのは、ボクが書いた原稿をインターネットで音声で流そうと思ったからなんです。まぁ、これはアルバイトに来ている女の子のアイデアなんですけどね。ボクは忙しくて、音声を録音する時間がなくて」
「あ、わかりました。つまり私が書いた原稿を、パソコンの音声にしてインターネットで流す、ということですね。けれど、それを売るってどうやって?」
「旦那さんほどの講演家なら、今まで書き溜めてきた原稿とかあると思うんです。それに少し手を加えて、有料コンテンツにする。そのためには、ブログなどで原稿と音声を毎日流す必要があります。そうすると、ファンがついて有料のものを聴いてみたいと思うようになります」
「なるほどねぇ。けれど、そんなにうまくいきますか?」
「ボクの友人に、こういったことのマーケティングが得意なやつがいますから。ご協力させていただきますよ」
なるほど、これなら夫も今までの仕事をそのまま続けられる。
「ありがとうございます。ぜひその提案にのりたいと思います。いやぁ、羽賀さんに出会えて本当に良かった。そして飯山さん、私に勇気を与えてくれて本当にありがとうございます」
夫も満足している。私もそんな夫の姿を見ることができて、とてもうれしい。
夫は「声」という武器を失ってしまう。だからこそ、今度はその「声」をあらたな武器にして新しい舞台に立とうとしている。
翼を失った鳥は飛ぶことができない。けれど、飛べない鳥だからといって、鳥としての価値がなくなったわけではない。
飛べない鳥でも、それなりの生き方がある。いや、飛べない鳥だからこそできることがある。夫はその道を見つけることができたのだ。
「よし、そうと決まれば早速行動開始だ。私の声がまだ出ている間に、早速録音をしよう。そして飯山さん、ぜひ同じ境遇の方たちと会わせて下さい。そこで見たもの、聞いたものをもとに、こういった方々が頑張っていることを、多くの人に知ってもらえるよう協力させていただきます」
「そう言っていただけると、とても心強いですよ」
飯山さんも笑顔になる。そしてみんなも笑顔になる。
このとき、夫の背中に新しい翼が見えた気がした。
<翼を失った鳥 完>