第5話 どこかで出会った気がする
頭上から、聞いた事のない女性の声が響く。
疑問を持つよりも前に、無骨な三本の矢の形をした氷塊が飛翔し、一本は武器を持った化物の手に、もう一本はその肩を打ち砕き、最後の一本は彼の頭部を貫いた。
【ッあ――――】
矢の勢いをそのまま受けて横に倒れる。同時に三つの矢も鈍い音を立てて地面に到達し、砕け散るように散開する。
化物は、失われた視界でじたばたと狂ったように手足を動かしてアキを探す。
必死にただ必死にひたむきに。ただこの好機を、一生に一度だけの好機を逃すまいと探して探して彷徨うが、最早知性の欠片も感じさせない。脳を穿たれ、再生するまで彼は知性を取り戻せないだろう。
この隙は見逃さない。アキは体制を立て直して核を壊そうと構える――が、
「ちょっと待って! まだ“紅核”壊さないで!」
「えっ……?」
「その変な“紅核生物”調べるから! まってってー!!」
アキが言葉を詰まらせたのは、状況による混乱でも、救われた安心感によるものでもなく、ある一つのとある強大な違和感のせいであった。
しかし声の主はそんな事は知る由もない。彼女は慣れた手つきで壁を降下すると駆け寄って来た。
美しいというより可愛らしい風貌。肩あたりで外にハネた藍色の髪と、金色の瞳。手には大きな弓矢を持ち、薄灰色スカートの下にズボンを履いた軽装備。首にはネックレスを付けているが、服に隠れてよく見えない。
そして、最も目を惹いたのは、彼女の頭頂部の二つの突起物。それぞれが同じ三角形を成しており、ピクピクと動いている……如何にもモフモフのふわふわのそれは、世間で言うところの“猫耳”だった。それだけではなく、よく見れば瞳孔は縦に割れていて、髪と同じ色の尻尾だって生えていた。
初めての人間だが、自分の知る人間ではない。それはもはや画面の向こうの世界――所謂“亜人”とか“獣人”とか、そう言った部類のナリだった。
「おぅい、大丈夫かよ?! 人が襲われてるって、こんな所で本当に」
「遅いよアレン! もうっ、ギリギリセーフ! あと少し遅れてたら大変だったっ。早く、こっち! 怪我人してるっ」
猫耳少女が耳をピコピコと動かして、身振り手振りで答えるその様は可愛らしい。そんな彼女へ遠くから叫ばれたアレンと呼ばれた者の声は、今度は男性の物だった。
早めのペースの足音と共に、金属がかち合うような音が反響する。その主がアキの事を視認すると「うわ、マジだ!」などと続けて言いながら、より軽い身のこなしでこの場所へと飛び降りた。
アキはその言葉を聞き、先に感じた強烈な違和感は確信的な物に変わり、寧ろ違和感は声に対してではなく、自分自身に対してに切り替わる。
「すごいな……。キャルト族の耳は伊達じゃねぇ」
……そうだ、幻聴なんかではない。自分の気が狂った訳でもない。
アキが初めにも感じた強大な違和感の正体――それは、“彼らの話している言葉が知らない言語であるにも拘わらず、理解出来てしまっている”、という事である。そして同時に、化物の時には何故気が付けなかったのだろうといった疑問も浮かぶ。あまりにも自然で意識すらしていなかったのか……? 普通に考えれば異世界語を使っていたと思うのだが。
「おぉーい、君、大丈夫……?」
「え、あ! ああ、混乱して頭が……だ、大丈夫……」
「どう見ても大丈夫には見えないのだけど……うーん、魔紅力の影響かなぁ?」
アキの返答に対し、懐疑的な姿勢を見せる猫耳。
魔紅力だとか紅核生物が何だかは知らないが……口に出せば、自分も普通に異世界語を使えてしまう。それも母国語のようにスラスラと。……まるで、自分の知識に書き加えられてしまったかと思う程だ。
「……よう! おおお本当だ、ボロボロだけど生存者だ! 急いで駆けつけて良かったよ!! ……ていうかお前、そんな装備でこんなに魔紅力濃度の高い場所にいて無事って、すげぇな」
そう思い詰めている間に、いつの間にか駆け寄って来ていたアレンが、どことなく感心しながらアキに話しかけた。
こちらは猫耳とは違って見た目は人間のソレと同じ、短めの赤茶髪に翠色の瞳を持った、二十代前半程の男性。背中に巨大な大剣を背負っており、全身には重そうな鎧を着込んでいる。……魔物などの素材を使っているのだろうか、装飾の感じからして如何にも“冒険者”といった雰囲気だ。
「でも感染はしてるかもっ。魔紅力に強いか、発現が遅い人なだけで……。どちらにしろ、この人早く手当てしてあげないと!! ……ほら、あのチョー緑色の麻酔草、持ってる?」
「超緑色……ああ。それはあの人が……ええと、ユリセアが持ってるよ。だからその前にこっちの紅核生物を……って、うわっ!! なんだコイツ……まるで人間みたいじゃねーか」
顔を顰めて、「うぇぇ」と口を歪めるアレン。
アキは、ふと『ユリセア』という単語に聞き覚えがあるような気がしたが、気のせいだろう。
「人型も初めて見たけど、それより凄いのはね……なんと、会話してたんだよ!? こんな頭がいい紅核生物も居るんだね、この人のお陰だよっ! すっごい手柄だよっ!」
「か、会話!? それ手柄どころじゃないだろ……。いやまさかさ、俺たち即席パーティで新種発見に新区域発見なんて、正直思いもよらなかった」
「ね! すごい! ……ところで、ユリセアちゃんまだかな。回復薬持ってるし、この紅核生物の事も聞かないと」
アキは、ウキウキとして語る二人の話にまるで付いていけないし、言語が理解出来るという不安もあるのだが……それでも会話を聞いていると、徐々に救われた、助かったんだという実感が湧いてきて、安心感に心が満たされてゆく。
……ここに来て初めての感情だ。不安を全て捩じ伏せてしまう程の安堵、とても懐かしく感じるそれは、ひどく心地が良く、それは感謝の気持ちと共に自然と口から溢れ出した。
「あ、 あの、」
「……ん、どうしたの?」
「ぁ、ぁあ、ありがとう……ありがとう、助けてくれて、ありがとうございます。本当に……あの、なんて言えば良いか」
「……えやっ、大丈夫だよ! 私もたまたまここを通りかかれて良かったよ! 君のお陰で新種も見つけられて、報酬貰えるからね、お互い様!」
力が不安と共にどんどん抜けてゆく。
「うん……ぁあ、俺、終わってしまうかと思った。死んだって、そう……。ぅあ……ぁぁ、俺は……」
今まで張り詰めていた思考が氷解し、半分独り言のように頭がぼうっとする。
頭も回らなくなって言いたい事が言えていないが、アキは自覚しておらず、傍目から見ればかなりの挙動不審。それでも彼らは、
「いーのいーの、ダイジョーブ!」
そう言ってニッと微笑み返してくれた。
釣られて力の抜けた笑いを返す。それに合わせ、さらに気持ちも緩んでゆく。
「……ところですっごく気になる事があるんだけど、ええと君は……どこから来たのかな?」
「えっ? ど、どこっ……」
「うん。こんな場所に一人って、不思議だと思って……」
その質問に、緩みかけていた思考は強制的に叩き起され、急速に脳みそが回転を始める。
言語に猫耳、ほぼ確定で異世界な此処に、さらに異世界という概念はあるのだろうか。実は日本人、もとい地球人は割と沢山いて、一般的に知られているかもしれない。
だが逆に、そんな概念はなかった場合、かなり不審がられてしまうだろう。そうすれば助けてくれないかもしれない。……なんて返そう。
「いや、実は……」
無難に何も覚えていないんだ、と続けて言おうかと思ったが、それは強制的に断ち切られる事となる。
「……あれ? あぁーっ!! やっと来たぁ! おっっそいよ!!」
「来た……?」
突然叫びながらアキの後ろを指さす彼女。会話に出てきていたもう一人の仲間だろうか。釣られて振り向いたアキ、その視界に映る一人の女性は、二人が軽々と飛び降りた崖を、見ていてハラハラするような不慣れ手つきで下り、飛び降りようとていた最中だった。
長い髪の毛が宙に浮く。装備がはためき、躓いて、非常に危なっかしく着地。
「――ッガァ?!」
――まるで景色がスローモーションのように見える。
幾度か感じたあの頭痛。後頭葉に鉄骨が突き刺さったような、そんな感覚。脳の奥。遥か遥か記憶の深淵に、漠然とした何とも言い表せない気持ちが疼いて、視線が彼女に釘付けになる。
「どうやら間に合ったようだね」
「どうやら、じゃないよ! 遅いよぉ!」
声、声を聞いた。知らない声だ。聞いたことも無い。それどころかとても無愛想で、突き放すようなその声は、しかし酷く心を揺さぶった。
白から水色を基調としたローブに似た服装。身長は150cmあるかどうか程に小さいが、恐らくアキと同い年。整った顔立ちに浮かぶ、かなり面倒臭そうに彼らを見据える理知的な瞳は鋭く、その色は鴇色と言うべきか綺麗なピンク色をしていた。
歩く度に靡く、膝に掛かるかどうか程に伸ばされた癖の強いくるくるの銀髪は下方から上部に向かって瞳と同じ色のグラデーションが掛かっており、アキから見て右方向の髪の一部を三つ編みにしていた。また、全体的に非常に強い癖っ毛は、三日月のような形の髪が頭上で跳ねている程だった。
彼女の容姿を確認した途端に、開いた瞳孔が閉じなくなった。
アキの心が揺さぶられたのは、決して彼女が美人だったからといった理由ではなく、恋に落ちたとか、そういった類のモノとも掛け離れていた。
決して小さくはない取っ掛かり、酷くなる頭痛。けれどその感情は……決して、負の感情ではなかった。
「ねえ、この人怪我してるの! 早く治療してあげないと!!」
声が遥か遠くにぼやけて聞こえる。鼓動が荒れる。息も荒れる。汗が吹き出し、これ以上開けないという程に開き切った眼球と共にどんどん頭痛も酷くなる。それは、捩じ込まれた鉄骨が軋みをあげ、何かを自分に伝えようとしているようにも感じた。
そんなアキの様子を見て、ユリセアが口を開く。
「……ソイツ、高濃度感染区間を抜けてきたんだろう? 見てみろ、既に狂人じゃないか。この様子ではどの道すぐに死ぬぞ」
「えっ、ちちょッ……待って! だって同じ討索者……いや、さっきまで“普通に”会話してたから狂ってないよ! きっと、あの紅核生物に攻撃されて気が動転してるだけ……って、君、なんで泣いてるの?」
アキの顔を見た猫耳が呟くが、もう、その言葉の意味も、アキは理解出来ない。
……ザ……ザざ…………
ふと、頭痛の中に、意識の中に、アナログテレビの砂嵐のようなノイズが広がる。
フラッシュバックのように、何かの映像が映り込む――が、人の輪郭のような物だったり、漠然とした風景だったりと、何なのかは殆ど捉えられない。
…………ざっ……ザざ、ざ……ザり、ざ……
酷くなるノイズ。もう、外の音も聞こえない。
無意識に、ゆっくりと、彼女の顔を仰ぎ見る。
彼女の鴇色の瞳が自分の瞳と重なり、眼光が交錯。互いの網膜に光が届いて、脳で視認。ノイズの輪郭と、彼女の顔が重なり合った――
瞬間。
「――ッがぁアア――――ッッ!!」
「えぇっ?! ちょっ、どうしたの!?」
――衝撃。後頭葉に捩じ込まれたような鉄骨が、ねじ曲がり、頭が割れそうな痛みが電光石火の如く駆け巡り、呼吸が乱れ、視界が乱れ、あまりの痛さに悲鳴をあげる。
折れる、折れる、鉄骨が折れてしまう。ギシギシと軋み火花を散らすソレは砂嵐に変わり、今にも全身を飲み込んで、全ての感覚神経を蹂躙する。
ほとんどの支配権を握った痛みを掻い潜ったさらに奥。意識の欠片……記憶の最果て。
ノイズの映像への既視感……ふと思い出す「そう、あれは――――夢だ」
――ああ、そうだ……。そういえば俺は、ここで目覚める前……永い夢を見ていた気がしていたんだ。ずっと忘れていた。
ここに来た一番最初の記憶。あの夢の中身。
夢の、なかみ――――
…………
――――あれ?
――まてよ、何考えてたんだ?
なんだっけな、夢? 夢ってなんだ。
自分は気が付いたらこの空間にいた。そもそも夢なんて見てないじゃないか。
何なんだ、分からない。自分がおかしい。異世界に来たのも、こんな目にあっているのも、自分自身の事さえ何も分からない。
俺は、
おれ、は――
『…………い██――……███して――――!!』
――――ガギリっ