第30話 川上から人が『どんぶらこ、どんぶらこ』と流れてきました
――アキとオートラルが到着した時、そこは正に凄惨であった。
自然のみで調和された茶と緑の上に撒き散らされた、鮮烈な赤色の内蔵と血液。比較的綺麗な状態である御者の死体とは別に、男の死体が四つ……その全てが、見るのも憚られるような状態で散乱していた。
そんな死が蔓延する中、生きているのは意識のない亜人男性と赤髪女性、酷く怯えた表情で地面に伏すリーダー格の男性と、その上に跨るユリセアだった。ユリセアの左手には血塗られた魔法のナイフが持たされており、それが何を意味するものなのか、この状況を見て分からない者はいなかった。
「……い、依頼の違和感の正体はコレか! まさかマギア族なんてなぁ……! ……ッ、クソッ、狂ってやがる……」
「違うッ返して返して返してよ! ペンダントを返してッ、お母さんを返して!! お前らがぐちゃぐちゃにしたんだ私のお母さんを返してッ!! みんなを、わたしのおうちをかえして……」
「……ッ、知らねェよ糞マギア!! テメェの糞みたいな汚ぇ血のクズ親なんて知るかよボケ! そんなヤツ、虫の糞でも喰らって死ねばいいッ!!」
恐怖を上書きするように叫んだ隻眼の男は、手に隠したナイフを煌めかせてユリセアの首元へ切かかる……が、即座に展開した魔法によって、ナイフは腕ごと飛ばされた。
自身の腕が宙を舞う様を見ながら、しかし男は彼女に靴に仕込んだ刃を用いて、攻撃を仕掛ける。だがその攻撃が当たるよりも前に、今度は彼の足が爆発して、血肉となって四散した。……これも彼女の魔法だ。耳を劈くような悲鳴を上げる男を、ひたすらの虚無で煮詰めた銀瞳が見詰めていた。
……酷い状況であったが、この中で最も怯えていたのは、誰が見てもユリセアだった。
ガクガクと震える彼女は、まるで幼くてか弱い子供が、強大で絶対に敵わない親の仇の前に立っているような、そんな印象を周りに与えた。
「お母さんにイタイイタイ虫を無理やり食べさぜだのはッッ!! お前ら゛のクセにッッ!!」
彼女の髪から、月虹花の花弁がひらりと落ちる。同時に、藻掻き苦しむ男に追い打ちをかけるように、彼女は隻眼男の腹部をナイフで突き刺し、引き裂いた。
思ったより深く入らなかったのか、はたまた苦しませる為に敢えて浅く切ったのか、中から内蔵が飛び出るが、辛うじて男の命は繋ぎ止められた。
「ぎぃァァ゛アアあッ! ぐ、ごェふぉ゛っ! …………っ、わ――……、かった、カらッ! 返せば、ぃ゛、いんだろっ?! お前のペンダント!!」
盛大に血を吐き散らしながらそういった男は、残された力を振り絞って、ペンダントを宙高くに放り投げた。半分幻覚の中にいるユリセアの視線が、ペンダントの軌道をそのままなぞる――瞬間、男から最期の閃光が迸った。
「死――ぃぃ゛ねっ!! 社会の害悪マギア族!! お前らのせいでッ、俺は――――」
内蔵を滴らせながら、最期の全てを出し切り、彼女へ斬り掛かる男――だが、次に見たのは、彼女の虚ろな視線だった。
ひたすらに、ただひたすらに。世界の全てが抜け落ちてしまったような虚ろだが、その奥にはち切れんばかりの憎悪と悲哀の満ちた、美しくも恐ろしい銀眼だった。
まるで現実のモノではないようなその瞳に、魅力された男の体を、無数の杭が突き破る。痛みと共に喉奥からゴぼォりと血を吐き、腹から内蔵が溢れ出る。
そこで、彼は初めて現実にひっくり還った。
……最期に、自分よりも遥かに下賎でクズ同然の種族の首を取って、少しでも誇りながら死にたかったのかもしれない。束の間、男は無念をそのまま彼女の方へ腕を伸ばして……力尽きた。
――しん、と。
不思議な静寂が駆け抜ける。
森の自然の香りが、淀んだ血生臭さを洗い流し、空間に清涼さをもたらした。
遥か頭上を鳥類の群れが過ぎ去り、やがて、ざわざわとした森のざわめきも落ち着いてくる。
「んぅ……ぅ、え……」
その静寂を断ち切ったのは、ユリセアだった。
「だ、大丈夫……かよ、お前……」
声にならない音を発する彼女に向かって駆け寄るアキ。彼が支えるよりも前に、具合が悪そうにぐったりふらふらした彼女は立ち上がろうと試みるが、重力に耐えられずに地面に肘を付き――数秒も持たず意識を失った。
彼女はとてもボロボロで、ここに来るまでの間に、沢山傷付けられた事がわかる。
そんな彼女の様子を目の当たりにしたアキは――とても、ほっとした。
先程の彼女の様子も含め、今まで妙に人間味がなくて少し怖かった彼女も、あんな風に取り乱して、こんな顔をするんだなと思った。こいつも弱いところがある人間なんだなと思った。……だから、とても安堵してしまった。
そして、そんな自分に嫌気が刺すのと同時に、彼女が酷く可哀想にも思えた。あの異常な取り乱し方……どんな過去があったのか知らないが、余程の事があったのだろう。それは脳内に残り続けるあの悲痛な叫び声と、悲壮な銀眼が物語っていた。
「…………あ」
不意に、彼は思い出す。
そう、マギア族。彼女は半分マギア族だ。赤髪女性と亜人男性は意識がなかったから分からないだろうが……一緒にこの光景を見ていたオートラルは、しっかりと見てしまった筈だ。
マギア族は差別されていると、彼女は言っていた。それがどれ程のものなのかは分からないが……あまり知られない方が良いことは、この世界の知識に疎い自分でも分かる。
自分の身近にはあまりなかったが、差別は元の世界でも問題になっていた。……彼女は言うほど酷くはないだとか言っていたが、元の世界よりも閉鎖的なこの世界の差別は、元の世界の比ではない筈だ。
……正直ユリセアは、あまり好きにはなれない。性格は良いとはいえないし、息を吐くように嘘だってつく、倫理観ゆるゆるのアレな奴だ。
でもアイツは、言うほど悪い奴じゃない……と思う。分からないけど、途方も無く重い経験を沢山していて、色々な世界を見てきて、あんな性格に捻じ曲がってしまったんじゃないかと思っている。それこそ、あんな危険な裏世界と繋がりを持たないと生きていけない程に。
だから、そんな彼女がマギア族というだけで色々言われるのは……嫌だと思った。
「…………そいつ……」
黙り込んだままだったオートラルが、ふいに、低く深い声を漏らした。少しだけ、幻覚の時のオートラルを思い出す。
あのオートラルだ。きっと大丈夫……そう思いたいが、難しいのかもしれない――とアキは思った。だから、少しだけ、次の言葉に身構えるが……
「……っ、そいつ具合悪そうだし、どっかに寝かせてやんねーとな。色々ごちゃごちゃしてるけど、とにかくここから離れよーぜ。蝶々だってまた飛んでくるかもしれないし」
「……!!」
「あっ、もちろん死体の処理してからな! そこの二人も出来れば起こして……状況説明しながら、みんなで協力してやろう」
なんて、いつもの調子でオートラルは言い、他の二人を起こすべく行動を起こした。
そんな彼に、アキは少しだけ救われた。マギアについて何も触れてこなかった……それだけで心が楽になった。
そして彼の素顔が見えず、感情が汲み取れない事に、今回ばかりは安心した。……彼がマギアについて本当はどう思っているのか、あまり、知りたくなかったからだ。
◆◆◆
「オートラル、これって薬草……だよな? 見分けんの難しいんだけど……」
「合ってるよ。見分けは全然難しくない方だけど……まあ、慣れと勉強だな」
「うへぇ……」
そんな会話を交わしながら、アキは薬草の茎部分をナイフで切り落として麻袋に入れ、頭の中の薬草カウントに一を足した。
現在彼らは、遺体の処理やら失神していた二人への状況説明やらを終え、森を抜けた先の平原である薬草の群生地にて薬草採取に励んでいた。
今回の目的物である薬草は、森に隣接しているこの場所でしか採れない物らしい。どうやら森を縄張りにする魔物の生態系と関係があるらしいが、詳しい事は聞いていない。
考えてみれば当然の事だが、どこでも採れる薬草というのは既に薬草専門の業者が育てており、斡旋所に回ってくる依頼は業者から仕入れられない特殊な物が多いのだ。だから、Fランクの薬草採取と言えども、完全に安全な依頼というのは少ない。
それでも今回のような依頼は、比較的安全だし誰でもこなせるという点から人気が高く、直ぐに埋まってしまうのだそうだ。この依頼を取る事が出来たのは、運が良かったのかもしれない。
「ごめんな、俺の分まで……」
「全然大丈夫だよ、気にすんなって!」
「……ありがとう」
薬草の幹にナイフをめり込ませていたアキに向かって、亜人男性が言う。彼は右腕を負傷して薬草採取が難しい為、彼の分も手伝ってあげていたのだ。
「俺、俺さ……英雄セルファに憧れて討索者になったのに…………一昨日帰ってきた、変性領域を殺したあの人みたいに、誰かの助けにないたいと思ってたのに……これじゃ、おれ……」
ぽつりと呟く男性。彼が目覚めて以降、ずっとこの調子だった。
彼は、誰かの役に立ちたくて討索者になった。英雄セルファみたいに、強大なモノに立ち向かい弱きを助けられる人間になりたかった。
……なのに、それなのに、襲撃で対峙したアイツらに対して圧倒的に実力が足りず、立ち向かう勇気すらなかった。命惜しさに御者さんを犠牲にし、躊躇せずユリセアの場所を売り、自分だけ助からうとした。……これではまるで、セルファとは程遠い、人殺しだと、彼は思った。
――最期に見た御者さんの表情が忘れられない。
「おれは、人を殺し―」
「違う、お前が殺したんじゃない! その……こんな事言っていいのか分かんないけど……仕方が、なかったんじゃないかな。だから……」
「仕方なくなんてなかった……!! 俺がもっと強かったら、ちゃんと戦えたら、そしたら……」
そう嘆く彼の瞳孔が開く。そう――殺されそうになった。あと一歩で殺されていた。あの時の恐怖が血となり全身を巡り、思考を支配する。……そんな彼の様子を見て、アキは思った。
みんなで死体を埋めた後、御者さんを少しでも弔うために短い黙祷をしたのだが……自分は“あの時”、死んだケイシーとアレンを弔ってあげることすら出来なかったのだ。
あの時の自分と、彼の状況は随分と違う。何より、御者さんとは親しかった訳ではないし、一緒に話した事がある訳でもない。ただ、自分の無力さのせいで、自分とは関係のない誰かが死んだという点では同じだ。だから、気持ちはよく分かるし、励ましてあげたいと思った。
「気持ちは分かるよ……すごく分かる。俺も似たような事があって……その、辛いよな……」
「…………」
「でもさ、もう終わっちゃった事はどうしようもないからさ……せめて、御者さんの事は心の中で弔って、次は失敗しないようにする事が大切なんじゃないかな。俺が言える事じゃないけど」
アキのその言葉は、彼に向けてではなく、自分自身に向けての言葉であった。
「……なんか偉そうに言って、ごめん」
「そんな事ないよ! むしろありがとう……お陰ですごい落ち着いたよ。……俺さ、セルファみたいな立派な討索者になりたいんだ。だから、今回の事は絶対に忘れないし、同じ失敗も繰り返さない。もっと強くなろうと思う」
そう言って笑い返す彼は、やはり恐怖だとか後悔は抜けていないようだったが、それでもどこか、清々しい顔をしていた。
そんな彼を見たアキは……とても、強いと思った。少し前に話した赤髪女性も同様だ。二人ともこの世界で生きているからかもしれないが、普通あんな状況に陥れば、しばらく気に病んで寝たきりになってしまっても可笑しくない。
……そう。きっと、今の“俺”よりもよっぽど強い。また襲われるんじゃないかという恐怖から抜けられず、人と話す事で気持ちを誤魔化している俺より強い。未だに洞窟の時の感情から抜け出せず、自分で自分を演じ、自分の感情を騙そうとしている俺より強い。
だから自分も――肉体面だけではなく、精神面でも強くならなくてはいけないと、心から思った。
「あっ、おつかれー! あの、私の分の薬草までありがとう」
――それから数分後。薬草がたっぷり詰め込まれた麻袋を背負いながら、簡易テントに向かったアキ達に最初に耳に飛び込んできた言葉は、赤髪女性のものだった。
「おう。そっちこそ調子は大丈夫か?」
「うん、頭痛はまだひどいけど、吐き気はなくなってきたし、大丈夫だよ!」
「そっか良かった……! ……そうだ、ユリセアのやつは、まだ起きてないのか?」
「うん……まだ魘されてる……」
そう言って、少し俯く女性。
彼女の言うように、ユリセアは未だ目覚めていないおらず、簡易テントの中で寝かされていた。酷く魘されていた彼女は、幻覚の様子も踏まえて一人で寝かせておくのには不安が残ったため、様子を気にかけるように同じ女性である赤髪討索者に任せていたのだ。
赤髪の方も幻覚の副作用で頭痛や嘔吐感に悩まされており、薬草採取が難しいとの事だったので、ちょうど適任だったのだ。
「私、なんにも出来なくてごめんね……」
「全然大丈夫だよ! むしろアイツのこと見ててくれてありがとう。俺たちじゃ悪い気がするしさ」
うん、と頷く女性であったが、それでもやはり申し訳ないようで……。
少し考え込むような素振りを見せたあと、突如ハット目を見開かせ、テントに置きっぱなしの自分の荷物へ駆け寄った。そして、中から四つの丸いナニカを取り出し、こちらが側へ帰って来る。
「お腹空いたんじゃない? みんなにこれあげる!」
そう言って手渡されたのは、キツネ色をした丸い物体だった。そのキツネ色は単一色ではなく、場所によって濃さが異なっており、その表面は幾つものヒビが入っていた。また、表面には白い粉がこびり付いており、手で擦るとその一部がさらさらと舞い落ちた。
そう、その見た目は紛れもない『パン』であった。
「よくあるパンだけど、ちょうど多めに持ってきてたの。食べていいよ!」
「ありがとう……!!」
今まで意識していなかったが、意識してみればお腹がすいていた。思い返してみれば、朝から何も食べていないので当然だ。むしろ、もっとお腹が空いていないとオカシイ程だ。
手に持つソレは、パンにしては固すぎると脳の端の方で思ったが、それを認識する前に食欲が推し返した。お礼を言ったそのままの口に丸パンを運んでゆき、そして噛み潰そうと顎に力を入れた――
「かッッふぁひ!!」
が、返って来たのは、歯が砕け散ってしまいそうな程の衝撃と、電撃の如く駆け抜ける痺れだった。
パン……? 石の間違いではないだろうか。あまりにも硬くて、幼少期に抜けかけの乳歯を、痛いのに無理に傾けていた時の事を思い出した。主に前歯に残る衝撃を和らげようと口の上から手で抑え、半分涙目で女性を見つめる。
「ちょっと……大丈夫っ!?!? そのパン、まずは水でふやかさないと……」
「み……みずでふやかふ……??」
「えっ、もしかして食べたことない……?」
水でふやかして食べる、なんて聞いた事ない。そう思って他の二人の方を見るが、その酷く驚いたような視線から、自分がオカシイという事に気付かされた。
彼女は新米なので、特に安物のパンだから(かもしれない)という理由もあるかもしれないが、ともかく討索者用の食べ物は、何よりも保存を効かせる事を優先して作られているのだろう。長く保存させる為には、食品中の水分活性を極端に減らさなければならない為、この場合は極端に乾燥させてあるし、それ以前に製法も前の世界ほど発展していないと思われる。
「いや……食欲に任せてちょっとうっかり……。あっでも水筒の水、もうないや……」
アキは自身の革水筒を取り出すが、中身が入っていない事を説明する。すると、近くに川があるから汲んでくると良いと言われた。
「か、川の水飲むの……?」
「あー魔紅力ね! ここの地域は濃度めっちゃ低いから大丈夫なんだよ〜!! すごいよね、川の色見ると分かるけど素晴らしく透明だよ」
彼の呈した疑問は、水道から出る水ではなくて、川の水を飲むのかといった事だったが、帰ってきた回答はそれ以前の問題を指したモノだった。
そう、魔紅力。全く頭になかったのだが、そういえば確か、魔紅力に感染していない場所は最早ほとんどないとか言っていた。当然、そこらの水だとか、動植物だとかも同様で、魔紅力濃度の高いソレらを口にしてしまえば死に至ってしまう。
川の水云々以前の問題だ。そもそも水道水という概念が存在しない世界だ、川の水くらい普通なのだろう。魔紅力濃度が低くて飲めるだけ感謝せねばならない。
それでもちょっと、いやかなり嫌だなぁとは思いうのだが、この環境に慣れないといけないと思い、一人で川のほとりへ向かった。
◆◆◆
ざあざあと力強く響く川音は、しかし澄み透ったな印象を与え、太陽光を反射した水は、まるで絹糸が動いているようだった。
五分もしないうちに川に着いたアキは、鼻奥に透き通るような清涼な匂いを感じながら、そのほとりに身を置いた。
その光景は、生粋の都会っ子であった彼にとっては目新しい物だった。
まるで絵に描いたような綺麗な川だった。広くて穏やかな川の上を、白波が龍の如く泳いでいる。また、ここら辺は浅瀬になっているらしく、水底に沈む石が太陽光を乱射させながらキラキラ輝いていた。
「めっちゃ落ち着く……」
彼は水筒に水を掬ってから、しばしの間川のせせらぎに耳を傾け、ゆらゆらと心地の良い感情に浸る。顔に微粒の水しぶきがかかる。某動画サイトで、集中力促進だとか、睡眠導入だとか、α波がナントカだとかを謳ったリラックスBGMで、川の音がよくあるが、それを少しだけ思い出した。
ふいに、この川はどこから続いているのだろうかと思い、上流の方へ目を泳がす。それは遥か彼方、先程馬車が通った崖上の方から続いているようで、反射で宝石の如く輝いている光と共に、様々な物を運んできていた。それは例えば、森から吹かれ着いた木の葉だとか、短くなった枝だとか、濡れた服を着た金髪の男だとか――
「えっちょっ――はぁッ!?」
まだ幻覚でも見ているのかと思った。自身の瞳孔に映し出された光景が信じられず、ぱちくりと瞳を瞬かせて三度見するが……変わらない。確かに川上から人が『どんぶらこ、どんぶらこ』と流れてきていた。
どこかのおとぎ話で聞いたような光景だが、桃には入っていない、生身の人間だ。
何はともあれ、アキは急いでズボンの裾を捲ると、川の中に足を踏み入れた。そして川中央の方へ駆け寄って、流れてきた人の服をなんとかしっかりと掴み取ると、川岸に運ぶべく体を抱える。
その人の体重に加え水で服が濡れている事と、アキ自身の足が水に浸かっている事もあって、中々運ぶ事が叶わなかったが……ここが浅瀬であり、かつ川の流れが遅い事が幸いした。少し可哀想だが仕方ない……地面に引き摺らせるようにしながらも、何とか川岸まで運び、その人を地面に寝かせる。
「はぁ……っ、は……キッつ――って、この人……」
背中から両手を地面に付き、息を整えながらその人を見る。しっかりとした体躯の男。金髪で恐らく人族。それといった特長は何もない彼であったが、アキはその人を知っていた。
変性領域【蝕みの村】を踏破した英雄、はたまたアキの幻覚に出てきた彼――ジェニル・ノウェアズであった。




