第26話 世界と矛盾した考察 ☆
過去の記憶に起因する、トラウマに関する幻覚を見せる蝶。あの幻覚は、やはり過去に経験した出来事……な、気がする。
アキは混乱した。……わけが分からない、矛盾だらけだと。ユリセアにとっても、最初の洞窟が彼との初対面であった。加えて、ジェニルどころか、出会ってすらいない人物も幻覚には居たし、それ以前にこの世界自体、既に死にかけではあるが幻覚の様にはなっていない。
過去云々以前に、事実として起こっていない。
普通に考えてありえない、ありえる筈がない。あれが過去だと感じるのは、幻覚による副作用と考える方が現実的……なのだが、それでも引っ掛かるのだ。
――そこで、他のことも含めて一度、幻覚について整理しよう。
幻覚は大きく分けて、
・紅核生物の蔓延る死んだ世界で、ユリセアに助けられる幻覚。
・肉の壁に囲まれた空間で、ジェニルとミミカという女性と共に化物と戦っている幻覚。
・最初の洞窟に似た場所で、オートラルと謎の黒フードと共に、自分の事について話している幻覚。
この三種類だ。
仮に前提として、アレらの幻覚が自分の”記憶“だとして、一番引っかかるのは最後の幻覚だ。
あれは、他とは違ってもっと曖昧で……なにかが違っていた。一つだけ、オートラルとの会話は斡旋所での記憶そのままだったが、最後の幻覚の舞台で彼とは出会ってないし――黒フードと話した後の事はほとんど覚えていない。
……魔紅力に引き摺り込まれて、ナニカを言われたような……そんな気がするのだが、ソレを思い出す事は脳が拒否しているようだった。きっと思い出してはイケナイものなのだと、ソレを理解してしまえば来るってしまうと……何故だかそんな気がした。
さらに、魔紅力の後……目覚める直前……。ナニカに助けられたような? というより、何かを忘れないよう、一生懸命に考えていたような気がしなくもないのだが、こちらはほんの少しも思い出せそうな気がしない。呆れるほどに、考えようという気が一切起きない程に思い出せない。……諦める他に選択肢はない。
「…………」
そして、他二つ……一番目と二番目の幻覚について引っかかる点が三つある。
第一に、一つ目の幻覚で、知らない筈の知識が付与された事について。
第二に、ミミカという見も知らぬ筈の人物を、幻覚に見た事について。
第三に、ユリセアに関して、現実で何度か親近感を感じた事について。
第一については考えるまでもない。「人型の紅核生物について」「死んだような世界について」妄想にしては具体的かつ詳細な、自分が持ち得ない知識が付いていたのである。幻覚とは自分の脳に記憶されている情報を元に構成されるものなので、もし本当に知らないのならば……幻覚に見る筈もない。
第二についても同じである。見も知らぬ女性について、あんなに具体的な印象を持った幻覚を見るだろうか。……ましてや、今は理解出来ないが、幻覚の中で感じた強い仲間意識を持てるだろうか。
これらも実際に起こり得ていなければ、幻覚に見る事すら不可能なのではないか。
そして、第三について。彼女については、幻覚とは関係の無い場面で、懐かしさや親しみを感じた瞬間が何度かあった……筈だ。アイツは気に入らない奴だと思っているが、それなのにだ。
……こちらも現在は理解出来ない感情なので分からないが、代表的なのが、出会った時や先程の馬車の会話。抱く筈のない感情を彼女に抱き、明らかに違和感のある行動を自分は取っていた。
もしかすれば彼女以外についても、自覚していないだけでそんな事があったかもしれない。
「…………はぁ」
しかし、幾ら色々と並び立てたところで、これらが実際に起こっていない事象というのは不変の事実で、経験した・していない以前の問題である。
最初から考えるまでもない。あれが自分の記憶だというのは、どう足掻いても世界そのものと矛盾してしまう。……それなのに、やはり何かが引っ掛かる。
少なくとも、あの幻覚には“何か”がある。きっと、何かのヒントになる……そう思った。
『死んでしまったような世界』
ふと、最初の幻覚が頭を過ぎる。
嫌な想像が脳裏を走り、ヘドロのような恐怖が足から心臓を搦め取り、身動きの取れない気分が沈んでゆく。……もし幻覚を肯定し、“一度経験した事”だと認めるのなら、それは、つまり……いや、訳が分からない。
――ともかく。
これから自分がすべき行動と、新たな目標。
……あんな幻覚を見た自分、もはや分からない事だらけの自分自身。最優先事項は異世界に帰る事だが、その他に、この世界へ来てしまった自分自身についてもっとちゃんと知るべきだ。……どうやってこの世界へ来たのか、その瞬間の事だって分かっていない。
自分を知れば、元の世界に帰る方法に近付けるかもしれないし、この世界について――死んでしまったような世界についても、分かる事があるかもしれない。
その為には、第一にユリセア他二人と接触を測ってみる事だ。先程考えた通り、彼らは自分に繋がるナニカのヒントになるかもしれない。
そしてもし、あのミミカという女性が実在し、出会えたのなら……あの幻覚の信頼性が飛躍的に向上し、今まで考えた様々な可能性――幻覚が実際に体験した内容など――が飛躍的に向上する。……一番目の幻覚、この世界についても分かる事があるかもしれない。
そして第二に、あの黒フードと、出会えるなら出会ってみる事だ。
三番目の幻覚は、こちらも先程考えたように事実と妄想がまぜこぜで信用ならないが、彼がもし実在していた場合話は別だ。それに……黒フードのアイツは、自分と元の世界について何かを知っている気がした。
『異世界転移を……して、きた? お前が?』
『むしろ、オカシイ事ばかりじゃねーか』
……あの幻覚で、黒フードとオートラルに、そう言われた。
自分は異世界転移をしてきた普通の日本人で、それは紛うことなき不動の事実。きっとアレは、必要以上の不安が実態化しただけの幻覚。……これだけはそうに決まっている。そうでないとしたら何だと言うのだ、そうでなくてはならないのだ。しかし、見知らぬ黒フードにそんな事を言われたのは、ミミカ同様知らない奴だからこそ引っ掛かるのだ。
黒フードに出会う価値は十分にある……のだが、同時に彼には出会いたくないと、不思議とそう思った。付けられるだけの理由を付けるとするのなら、ミミカとは違い危険人物という可能性があるからだが……いや、それでもやはり探してみるべきだ。
「…………よっ、と」
幾分か時が経ち、酔いはほとんど覚めてくれた。
憶幻蝶の幻覚は、一度幻覚に掛かれば近い内ならば耐性が出来ているので再発しないと聞いたが、同じ場所に長居するのは危険だ。とにかく、誰でもいいから人間と合流して、早く平原に出るべきだ。
もう一度、彼は水筒の水を喉に通す。思考が透き通り、若干の浮遊感は残ったままだが気分の悪さに関してはほとんど抜けてくれた。
一応斡旋所で借りた短剣を右手に構えておき、消し方の分からない気配を消して、警戒しながら立ち上がる。他のみんなはまだ幻覚を見ているかもしれないが、一緒に落ちたのだからそう離れてはいないだろう。森は霧掛かっていて遠くが見えないので、せめてもう少し見渡しの良い場所に移動しようと周りを見渡した。
(…………うん?)
その時だった。
霧の向こう側、誰だかは判別出来ないが、朧気な黒い人影が揺れているのが見えた。
胸に雪崩込む安心感。幸先運が良いんだか悪いんだか、ともかく時間を掛けずに人を見つける事が出来て良かった。そんな事をアキは思いながら、人影に向かって声を張り上げた。
「おーいッ、誰か、そこにいるんだろ!? 大丈夫かー?」
そう叫んだ事により、人影も気が付いたのかこちらに向かって歩いて来る。明確な行動に呼応したという事は、恐らく幻覚は見ていないようだ。
……彼は一体誰だろうか。髪の長さと体格からして人族の男だと思うのだが、一緒に来た一人は亜人で、もう一人のオートラルは全身鎧。……という事は、残った御者さんだろうか。
「…………あ、れ?」
……朧気だった輪郭が、徐々にくっきりと、明確に象られてゆく。
片手に刃……地面にナニカを垂らし続けている曲刀に、自分より高く痩せた体格。ふらりフラり、と不安定に歩く足――見えてきたその顔貌は、
「あんだァ、オおィ。俺を呼んだのはテメェか? あぁ゛ん?」
明らかに危険な雰囲気を纏った、知らない悪人面の男だった。
「――ヘッ!? ぃゃ、え……っ?」
「つぅーかよぉ、てめェーあれだろ、新米だろォ? うゲゲッ、こんな魔物だらけの森でぇえ、気配がダダ漏れだったゼェ〜〜? グェ゛ッベヘェ!」
男の持つ曲刀を視界に入れた……瞬間、冷や汗が全身から吹き出し、腰が抜けそうになった。
曲刀から滴るナニカ。それは、真っ赤に粘ついた血液だった。未だ鮮やかということは、新しい血なのだろう。
……ふいにアキは、斡旋所で聞いた誰かの会話を思い出す。
新米討索者が気を付けなければならない事、それは『新米狩り』だと。討索者なりたての弱い新米を狙い撃ちに、金品や装備を奪っていく輩が存在するという。しかし、この世界は魔物による殺害や依頼中の原因不明の死なんてザラなので、新米狩りに遭った事は気付かれにくい。
新米狩りをする奴らは一定以上の実力の者が多いが、中には討索者としてまともに稼げもしないチンピラや、盗賊とか裏側の世界の人間も居るらしい。
警戒してアキが一歩下がると、男は彼に合わせるように一歩に踏み出しながら「おいおぃ、逃げんなよ新米ィ。痛い目に遭いたくなかったら大人しく従えやァ」と言い、舌舐めずりと共に曲刀を突き出してアキに剣を下ろすよう命令する。
戦慄が体を突き抜ける。……アキは、他人から明らかな殺意を持って刃物を向けられたのは人生で初めてだった。刃物を向けられるだけでこんな簡単に抵抗の意思が削がれるものなのか――そんな事を息をする事すら苦しく、寒くもないのに震える体で考えていた。脈拍が早まるのが顕著に感じ取れた。
……要件はやはり、金を出せとか装備を寄越せとかだろうか。奴の見た目はチンピラ的だが、自分では敵う訳がないのと、恐怖に負けて素直に剣を手放し、男の次の言葉を待った。
「素直なイイ子だ。俺ァ、長〜ぇ銀髪の魔法使いに用があンだよ。……なァ、奴は今ドコにいる?」
「長い……銀、髪……?」
……が、彼の口から放たれたのは、アキにとっては思いもよらなかった一言だった。
――長い銀髪の魔法使い。それは、どう考えてもユリセアの事ではなかろうか。しかし、何故彼女を指定してきたのだろう。彼の目的が彼女なら、彼は新米狩りではない……?
短い間に思考がグルりと回るが、一旦ソレらを放り投げる。彼の質問に対して、持ち合わせている返答はただ一つ『知らない』だけだ。事実として知らないのだから、そうとしか答えようがなく、仮に適当に答えたとしてもすぐにバレて殺される。
「し、知らな――」
「まァいいや」
僅かな思考の末、そう答えかけた時だった。
突如、アキに向かって走り出す盗賊。反射的に左腕のバックラーでガードしたアキ――同時に強い衝撃、甲高い金属音と共に火花が散り、力負けしてアキの腕が振り払われる。彼は反射的に後ろに飛び退き、男との距離を取る。先程自分の居た場所に曲刀の一閃が走り、遅れて鋭い風を感じた。
「どちらにせよ殺すんだしィ? ……ヒヒッ、そうだなァ、そうだよな? 折角なら楽しまないとナァ……グヒヒッ?!」
よく漫画やアニメで見るような、血塗れた曲刀をジュロリと舐めて見せた男。「てめェにチャンスをやるヨォ、ぐぇひひっ。……ほら、さっき落とした剣を拾いなァ? 人生最後の剣の指導をしてやるぜェ」そんな事を言いながら、アキが剣を構えるのを悠々と佇み待っていた。
そう、彼は人間との戦闘を、単にゲーム感覚として楽しむタイプの人間であった。殊に彼の場合は、相手が新米の中でも特別雑魚という、自身の負ける要素が一つも見当たらないからこそそんな行動を取ってみせたのだ。
「――……っ!」
心臓が突き上げられたように跳ね、呼吸と共に恐怖による吐き気が込み上げる。『自分を殺そうとしている相手』化物を除き、そんな奴と対峙したのは初めてで、しかも勝てる要素が見当たらない。
早く立たなきゃ、という突発的な感情と、立てば殺される、という考えがせめぎ合って動けない。震える足、男に目を合わせると、彼はどこか恍惚とした表情で笑みを浮かべた。アキを待つ間、くるりくるくると挑発するように回された曲刀が日光に照らされる度にギランギランと執拗くウザったい輝きを見せる。しかしソレが返って狂気的であり、彼の恐怖心を撫で回す。
「ビビってんのかァ? ダッセェなぁ、これだから新米は……。グヒッ、お前には、先輩で俺を楽しませてから殺される義務がある! 早くしねェと、そのままブっ殺すぞ」
やはりと言うべきか、アキがまともに戦えもしない新米だと踏んで、煽りと脅しを入れてくる男。
負けたらどうなるのだろう。彼女の居場所を吐くまで拷問されるのだろうか、そのまま殺されてしまうのだろうか。……どちらも嫌だ。嫌なのに、動けない。動かないと殺されるのに、動けない。
「なんダァ、殺る前から降参すンのか? まァ、それならそれでいいケドな。ホラ言ってみろ『ごめんなさい』ってな。……ああ、誰かに助けを呼んでもイイゼ? 助けが来るまで、たっぷりいたぶってやるからよォ!」
怯えるアキの様子を見て、高揚感と優越感を隠さずに言う男。ただ一方的に嬲りたいだけという欲望が見え、怒りと共に悔しさも込み上げるが、そんなのは取るに足りない。
逃げたい……だが、奴の動きは早かった。逃げようにも助けの望める可能性の低いこの森で、逃げきれる可能性はほとんどゼロだ。……何を選んでも負ける、確実に負ける。だったら一度、戦ってみるべきなのか……自分はどちらを選ぶべきなのか。
「…………」
――いや、そんなのは考えるまでもない。
彼は震える膝を奮い立たせ、汗の滲んだ手でしっかりと剣を握り直す。
緊張と恐怖を誤魔化す為、はたまた決心を付ける為に唇を強く噛み、心臓の鼓動を気持ちだけでも抑え込む。……今は待ってくれているが、立ち上がったその先は死。全身に恐怖が駆け抜けるが、それを無理やり振り払い、震える体を抑えながらゆっくり立ち上がった。
「おっ? やるんかァ?」
男が目を三日月型にして、嫌悪感溢れる笑みを浮かべる。
……そうさ、試す前から『出来ない』なんて決め付けては駄目だ。やってみなければ分からない、やって出来なければそれまでだ。
アキは落とした剣を右手に、買ったばかりのナイフを左手に構え、地面に着いた脚に力を込めながら思考を巡らす。――一番重要なのは、最初の攻撃を避けられるかどうかだ。最初に喰らってしまっては全てが終わる……そう思って男の攻撃を見極める為、ギッと彼を睨み付けた。
「ただの雑魚かと思ったが、イイねぇ〜新米チャン。……ウヒヒッ、たっぷり俺を、楽しませてくれよ……ッ!!」
アキのそれを準備完了と捉えたのか、男は「ヒャッハァーー!!」なんて叫び声を上げながら、とうとうアキに襲いかかった。
……そう、最初、最初が肝心だ。
ぐっと恐怖を堪えて男の動きを視認したアキは、彼の攻撃を受け止めるフリをして左手のナイフを投げた。……人生で初めてのナイフ投擲。利き手ではないのも加わってコントロールすらマトモになっておらず、男の近くの空を切るナイフだが、それ故か男の意識がそちらに一瞬だけ逸れた――瞬間。アキは事前からこれだけの為に込めていた脚の力を解放し、近隣の木の後ろへ、自身の体を全身全霊で突き飛ばし、
「ぎゃーーーーッ!! 参りましたぁごーめーんーなーさーいーー!! ……っ、うわぁぁアアア!! 誰か助けてぇぇえええ!!!!」
猛ダッシュで逃げ出した。
そう、戦うか逃げるかなんて考えるまでもない。逃げる為に対峙する勇気を振り絞り、一瞬だけでも意識を逸らさせ、逃げられる可能性をほんの少しだけでも上げる。そんな彼が導き出したのは『戦うっぽい雰囲気を醸し出して、不意打ちで逃げよう』といった、戦法とも言えない戦法だった。




