第22話 過去に落ちる
――――――
――――
「じょくてーにたいちぅ、まよくのへんかんこーいつをこうじょーさせうためにはっ、てっ……てきしぇつなしきをかいちゆことが、よりこーかてきである」
薄暗いが清潔さの保たれた、少し大きなお部屋。たった一人の聞き慣れた自分の声が、孤独な空間に響きわたる。
「しかち、こぉーいつはよくないが、むよ……みぃ、……まっ、まよくをよぶんにつかうことでもっ! てきしぇーのひくいど……ぞ、ぞくていへのっ、まよくへんかんがかのーで、あゆっ! あゆ! あゆぅーーっ!!」
元気に叫んだあと、口を閉じる。しん――と再び静かになる部屋。
先程までの溌剌さを感じさせない様子で静かに本を置き、どこか物憂げに寂しそうな顔を浮かべる。寂しさと胸の痛みを誤魔化すために、今度は自分の頭頂部に手を置くと、『いいこいいこ』と動かしながら言葉を発した。
「えっ、えらいねー! えゆみちあたんえらいねー!! もう、もじのはかてだねぇ!」
「えへへぇ、ありやとぉ! おたーたんありあとう! れんしゅーがんばったかやね、うれちーの!!」
「うん、よくがんばったねぇ! えらいこたんだね! いいこいいこ! さすがゆみちあたんだね!!」
褒めてくれる人間がいないから、そんなひとり芝居を演じながら部屋の中をぴょんぴょん跳ねる。首にはお母さんのペンダント。それを手の中で抱きしめながら、とびはねる。
「よめたっ、よめたっ! えみちぁはすごいね、えらいこたんだね、わーいわーいっ!!」
自分に掛けられた、自分だけの声が、静かな空間に虚しく響く。
よっつになって、少したった。文字を読むため、たったひとりで頑張っていた。ずっとずぅーっと、頑張っていた。あの日からの努力の全てと言っても過言ではない。……そして今日、初めて全ての文章をスラスラと読めたのだった。
……だから、久々に笑った。今までの努力が実を結んだ事が嬉しくて、自分にでも褒められたのが嬉しくて――自分を洗脳する為に、むりやり笑った。
「すごいねぇ! よくがんばったね!! わーい!!」
ぴょんぴょん跳ねる。部屋の静けさを埋めるよう、寂しさを紛らわせるように言葉をつむぎ、息つぎが苦しくなって口を止める。静かになるおへや。……動きも止まる。
「………………おかーたん」
ゲンジツにかえる。
呟いた自分の声を聞き、今度は涙があふれてくる。
「……ひっ……ままぁ……まぁあ…………」
床に座り込む。さらに涙が、弱音があふれる。お母さんの顔を思い出す。あの時の顔を思い出してしまう。お母さんはいない、お母さんはいない、あふれて、あふれて、胸から想いが思いが憶い出があふれて、止まらなくなる。
ふと、地面に落ちていた鏡に映る自分と目が合った。
「……にこにこ、たん…………」
自分の情けない顔に向かってぽつりと呟く。
お母さんが言っていた、辛い時こそにこにこたんだよって。だから、にこにこする。しようとして、余計に涙があふれてくる。お母さんの大好きな笑顔が頭よぎって、あの優しい声が頭に響いて、余計に辛くて、涙があふれてくる。
「にこにこ……にこにこ……」
にこにこできない。
にこにこすれば、お母さんを思い出してしまう。笑うといつも、あの楽しい日々を思い出してしまう。だから、笑えない。笑えない。笑うと余計に苦しいから、あの日からずっと、心から、笑えなくなってしまった。
「…………っ」
静かな部屋。涙と胸の痛みを奥底に閉じ込める。
ふいに視界に映った部屋の扉。呟く。
「…………おとーたん」
扉の向こうには、お父さんがいる。ここには、私とお父さんしかいない。この死んだ場所で生きている、唯一関わりを持つ事が出来る人間だ。
お父さんは、とても優しかったお父さんは……いまではちょっと怖い。お母さんが死んでから、オカシクなってしまった。狂ってしまった。……色んな事を、やるようになった。
でも、お父さんは好きだ。まだまともな部分のお父さんが好きだ。時には一緒にご飯を食べるし、よく本も読んでくれる。本当にお母さんの事が大好きで、お母さんのペンダントに細工もしてくれた。
……中でも、お父さんが色々な魔法を見せてくれる時間は唯一の楽しみで、魔法の時のお父さんは、楽しそうで、笑っていて、何よりマトモな時間が長かった。
だから、そんな大好きなお父さんに、自分の努力の成果を褒めてほしかった。褒めて、褒めて……魔法とお母さんだけじゃなくて、私も見て欲しかった。
――扉を、開ける。
変わり果てる風景。一面に広がる地獄、人間の生臭さ。こびり付た血と、飛び交うたましい。いつもの光景。
もちもちもち、と本を抱きながら幼く不安定に廊下を走る。横の部屋を見ないように、僅かに聞こえる嗚咽と唸声を聞かないように、幼くても分かる殺気から逃げるように、両手が塞がっていて耳が塞げないので、急いでお父さんのいる大きな部屋へと向かう。
「……おとーしゃん……?」
「……っ、……ごめん、なさいっ……ご……めんな、さぃっ……ごめんなさぃ…………」
床に散りばめられ積み上げられた本の陰、乱雑に書かれた数多の魔法式の上に、彼は居た。
見えないナニカに怯えるように身を小さく縮こませ、ガクガクと体を震わせている。遠くではよく聞こえないが、近くに寄ると、か細い怯えた声で、意味を持たない呪文の如く「ごめんなさい」と繰り返し呟いている事が分かる。
……よくある光景だ。
「……おとーたん」
そう声を掛けてみるが、やはり気が付かない。
お父さんは、小さい頃に色々あった……のだと思う。自分よりもっと小さい、……喋れないくらい小さい、“あの子”くらいの年齢からずっと、怖い思いをしてきたみたいだ。
多分あまり聞いちゃいけない事だから、自分から聞いた事はないけど、お父さんの、さらにお父さんとお母さん、あと他の周りの人が、みんな怖い人だったらしい。
お父さんを、ゴミとか道具みたいに、扱っていたらしい。
今は多分、それの幻覚を見ているのだと思う。あの日からお母さんと会話する幻覚とか、あの子を抱っこする幻覚とか、色々な幻覚を見るようになったけれど、これだけは種類が違う。
最近はお父さんの幻覚を当てられるようになってきたし、幻覚によって元に戻す方法も分かってきた。
「おとーたん? ……だいじょーむだよ、こわいこわいさんじゃないよ。ゆみちぁで良かったらね、ぎゅーしてあげゆの」
震える肩を優しく触ると、ヒッと息を飲む音を発しながら、ビクリと跳ねた。
「ごめんなさい」「何でもしますから」「ゆるしてください」そう、言葉にならない声で呟くお父さんに、大丈夫だよ、怖くないよと優しく声を掛けながら、小さな手と体で優しくぎゅっと抱きしめ、お父さんの長い銀髪の上からいいこいいこしてあげる。
……かつてお母さんが自分を抱きしめてくれていたように、お父さんにもしてあげる。
……やがて震えがおさまる。ゆっくりと顔を上げたお父さんに向かってにこりと無理やり笑顔を向けると、それを見てかハッとした顔を浮かべ、突然抱きしめ返された。
そして掛けられた言葉――それは、自分ではなくお母さんの名前。まるで絞り出すかのように、弱々しく、しかしハッキリと、何度も自分に向かって、お母さんの名前が紡がれる。
「…………」
目を逸らす。よくある事だけど、ちょっとだけ怖くて、複雑な気持ちだった。
今のお父さんは幻覚を見ている訳では無い。……私がお母さんに似ていて、特に笑った顔がそっくりだから、思い出したのだ。私のイデンシの半分の、お母さんの部分に抱きついているんだ。
……そう、自分の半分はお母さん。お父さんが好きなのは、私の半分のお母さんの部分だ。もう半分のお父さんは、たぶん、嫌われている。……お父さんには、お父さんとお母さんを合わせた、私自身の事は見えていない。
お父さんが何度も紡いでいたお母さんの名前……数回繰り返されたその台詞は、正気に戻ってきたのか徐々に弱くなってゆき、やがて止まると、抱きしめられていた体が緩くなった。
「……あっ、あのねっ、……ごめんね、ゆみちぁはね、おかーさんじゃないんだよ…………」
少しだけお父さんから離れ、俯きながらそう言う。やっぱり少し怖くて、再び「ごめんね」と小さく言うと、今度こそ目を覚ましたお父さんから「ごめん……」と、心から申し訳なさそうに謝罪をされた。……正気に、戻ったのだろうか。
気まずい間が嫌で、それを打ち砕くように、今度こそ言いたかった事を元気に話す。
「あのね、あのねっ! おとーたんっ、さっきね、ほんがね、ひといでよめたんだよ! おしえてもやってたもじがね、よめるよーになったんだよ!!」
「……そうか、凄いなぁ。流石だ、お前の半分はお母さんだもんな」
「…………うん、ゆみちあがんばったの」
胸がきゅっと締め付けられる。文字が読めたのは半分のお母さんじゃなくて、頑張った自分の努力の成果だ。褒めて欲しいのは自分だ。
本を強く抱いて、寂しげな笑顔を湛えながら呟くが、期待していた返答は一切なく、代わりにお父さんはこう言った。
「聞いてくれ、こっちにもいい知らせがあるんだ」
長い銀髪を揺らし、久々に見る自信ありげな様子でお父さんは立ち上がり、いつも前髪で隠していない方……つまり右目を、死んだように笑わせながら続ける。
「とうとう目処が立ってきたんだ。生き返らせる……ははっ、生き返らせられる……、ハハハッ」
「………………おかーたん?」
「そうだ! お母さんが生き返るんだ。もっと、もっと多くの私の魔力と、命さえあれば必ず。……ぁああ、そうさ、必ず生き返るッ。ぁあアっはは! 生き返る!! ははッ、はははははは!!」
狂ったように笑い出すお父さん。私の事よりも遥かに嬉しそうに笑い出すお父さん。
……お母さんを生き返らせる――ただそれだけの為に、お父さんはずっと研究してきた。その為に色々な物を犠牲にしたし、今もしている。
もし、お母さんがもし生き返ったら、また、あの日々が戻ってくる。また、大好きなお母さんのにこにこが見られる。もしかしたら、他のみんなも、死体すら見つけられなかったあの子も生き返るかもしれない。
……だからね、お父さんのやっている事は、無駄じゃない。殺した知らないみんなは、無駄じゃない。殺したみんなも、死んでない。
「ははっ、それはつまり死んでないっ! まだ生きてルぅ、また逢えるぅううウ!!」
……でも、たぶん、お母さんは生き返らない。魔法で命は作れないし、魔法で死んだ魂に干渉も出来ない。常識だ、生命に干渉できるのは、何処にもいないカミサマとかいう奴だけだ。
最初から、多分、分かっていた。……お父さんも、きっと本当は分かってる。生き返らないと、信じたくないだけなんだ。
……だけど、もしお父さんが信じちゃったら。私が「生き返らない」と言うのは……怖い。すごく強いお父さんは、怖い。絶対に勝てないお父さんは、怖い。お父さんがもっと狂ってしまうのも、怖い。まともな部分の、好きな部分のお父さんを、殺したくない。
「は、はは……は…………君を生き返らせる為、ひとりで頑張ったんだ。ずっとずぅーっと、頑張ったんだ…………なぁ、すごいだろ? 褒めてくれよ……なぁ…………また、会いたいよぉ…………」
…………だけど、もしも、万が一、奇跡が起これば、生き返るかもしれない。お母さんと、また会えるかもしれない。まだ、死んでないかもしれない。
だから私はお父さんに協力する。お母さんを生き返らせる為に、また会うために、……もう絶対に会えないという結論に、自分を至らせない為に……。
「…………ははっ、お前も嬉しいだろう?」
恍惚とした表情のお父さんが、こちらに声を掛けてくる。
「何か、言ってくれよ。……なぁ――――」
そして、私の名前を、紡ぐ。さっき言って欲しかった、私の、名前を、紡ぐ――――――
――――
――
「――――ユリセア!!」
アキ・タケウチはそう叫んだ。
こいつ寝ていやがるのだろうか。そう彼は思い、もう一度声を掛けようと口を開きかけた時、
「……ユリセアって……だれ…………」
彼女はそう言った。
「寝ぼけてんの? ほら、起きろよ」
「ぇ……ぅぁ…………、あ゛?」
肩を揺さぶると不機嫌そうに彼女は目覚め、まるで『鬱陶しい』とばかりに、朦朧とした意識の中で瞳孔に光を送る宙を睨み付ける。……嫌な夢でも見たのだろうか、それにしても可愛げの欠片すらない奴だと、アキは思った。
「あと三十分くらいで着くから準備しろってさ」
「えっ、さんじゅ…………? ……ぁ……、そう」
「……大丈夫かよ」
彼女は、アキの言葉には反応を示さなかったが、内心、また過去の夢を見た事にうんざりしていた。
……やはり、今日は随分と調子が可笑しい。
自分でそう思いながらも、とはいえ原因なんて皆目見当も付かず、そもそも具体的な原因があるとも思えない為考える価値がないと判断し、現在考えるべき馬車の位置について確認する。
――現在、馬車は崖上から分岐した緩やかな下り坂、左手側に壁が来るような細い道を通っていた。馬車の右手側数メートル先は崖下、幻迷の森の絨毯が広がっている。
この下り坂を下り終えれば目的地の平原だが、まだ道は長いため、三十分程度は掛かってしまうらしい。
未だ目覚めぬ頭でそれらを確認したユリセアは、色々準備しようかと思ったが眠気に負けて、再び夢と現実の間を彷徨い始めた。
「よし、出る準備しなきゃ」
そんな彼女とは相反して呟いた女性は自身のバッグの中から幾らかのアイテムを取り出し、整理するために床に並べたりしていた。
気になって覗き込むアキ。並べられたソレらは、例えば大小様々な小瓶や革製の空の袋、何かに使えそうな植物繊維のロープ、スコップやナイフ、糸と針、木で出来た食器類……その他等々、分かるものは見て直ぐに分かるのだが、幾らかはどう使うのか検討すらつかない物もあった。
「なぁ、これって何?」
アキは、その中で幾つか目を引いた物について彼女に聞いてみると、彼女はむしろ嬉しそうに説明をしてくれたが、不意に、まさかといった表情でこう言った。
「ていうか、対魔物用の道具とかは斡旋所で無料貸し出やってたと思うけど……もしかして何も借りてこなかったの?」
アキは純粋に驚いた。そんな便利な貸し出しをしていた事実すら知らなかったのだ。
武器の貸し出しの説明はされたのだが……やはり変性領域を踏破したジェニルの影響による混雑で、受付さんも忙しく、説明するのを忘れられてしまったのかもしれない。
「えっ、知らなかった……。斡旋所かなり混んでたからな、説明忘れられちゃったかもしれない」
「あーっ、めっちゃ混んでたもんね! あれって、変性領域を踏破した人がいて、それで混んでたんだよね? ……あれっ、なんだっけ、名前……」
「ジェニル・ノウェアズだろ? 俺、前にあの人から宿泊券貰ったりしたよ」
「……ジェニル? そんな名前だったっけ?」
不可思議な表情を浮かべる女性を見て、こちらに耳だけ傾けていたオートラルが口を開いた。
「ああ、あれだろ? 金髪碧眼で、顔は中々整ってたけど、ずっと浮かない表情だった人」
「……は、金髪? 碧眼、だった気はするけど……」
だが、そんなオートラルに対して、会話を聞いていた亜人男性がそう答えた。
女性と亜人男性が揃って、頭に自信なさげな疑問符を浮かべる。……だがアキは、これに関しては自分の記憶に自信があった。彼と直接会話を交わし、宿泊券まで貰ったのだから。
「いや、オートラルので合ってるぜ。ちょうどあの時、俺も斡旋所に居たし」
「私もあの時斡旋所にいた筈なんだけどなぁ……あれれ? なんかよく覚えてない……」
考え込む二人の様子を見て、アキは少しの違和感を感じるが……そもそも人の顔や名前なんてしっかり関わりでもしないと覚えられないから、なんら不思議ではないと思い至った。同時に彼女自身も自分の記憶に自信がなく、少し記憶を辿ろうとするが思い出せなかったため、「まーいっか!」と思考を諦め、先程までの道具の話へと戻した。
「話戻るんだけどさ、これ貸し出しのやつなんだけど……多く持ってきちゃったから持ってなよ」
そう言った彼女は、突然袋からソフトボール程の大きさの団子のような物を取り出し、アキに持たせる。
「何コレ」
「これは、えーと、名前が出てこないんだけど、……イメージがね、糞団子みたいな感じ!」
満面の笑顔で答える彼女。同時に手に持たされたソレを睨みつけるアキ。
しかし、糞団子という印象。連想させる効果といえば……。
「……投げ付けた相手が猛毒になるけど、投げた自分にも猛毒が溜まってく感じ?」
「…………うーん」
効果が連想出来なかったので、某ゲームの病んでる感じの村でよく手に入るアイテムの効果を言ってみる。
先程とは違った意味で首を傾げる女性。男性は「それ危な過ぎだろ」と答え、オートラルは「惜しいかも。いや惜しくねーけど、方向性は間違ってないっつーか……?」と言った。
「うそ、惜しいの!?」
「えっ、惜しい……惜しい……? の、かなぁ? うーん、誰かに対して使うって点では、間違ってないかも……?」
アキの答えに対し、女性は続けて言った。
「そうっ、名前は“ダンバル”だ! 素材はさっき言ったそのままだけど、別に汚いものとかではなくて……これを地面に向かって思いーっきりぶつけると、外殻が壊れて魔物が嫌う成分が噴出されて、魔物避けになる……みたい!」
あっ、そっちかぁー、とアキは思った。
フンと素材の玉的なのををくっ付けて作るアレだ。直接ぶつけるのではなく、地面に当てる事でモンスターのエリア移動を促すアイテム……いや、直接ぶつける作品もあったというか、個人的にはそのイメージが強いので、自分の答えはあながち間違ってはいなかった、かもしれない。
「あっでも毒も含まれてるって聞くから、直接ぶつけるのもいいアイデア、かも……?」
恐らくこの世界の誰に話しても分からないような思考をしているアキに、ふいに女性が、そう遠慮気味に付け加えた。……的外れな事を言った自分に気を遣ってくれたのだろうか。どこぞのハーフマギアさんとは天地の差である。
「ありがとう。有難く使わせてもらうよ」
「うん! ……あ、でも使うような危険な状況にならないのが一番だけどねっ!!」
腰のボーチから空の麻袋を取り出したアキは、そこにソレを一つ詰めて腰ベルトへ装着する。
「なんだこれ、霧がすごいな」
そんな時、ふと窓の外を眺めていた亜人男性がそう言った。
霧で真っ白、というレベルではないが、視界が非常に宜しくないのだ。崖下に広がっているハズの森絨毯だって、実際は霧でほとんど見えない。
しかし、全くつまらない風景という訳でもなかった。何故なら霧の中に、キラキラと輝く粉のようなものが舞っていたからだ。
「ホントだ、きれーい!」
「綺麗? 何かあるのか」
「粉みたいなの、キラキラしてるの。ほら!」
どこか魅惑的な光が、備え付けの窓の外で美しくキラキラと舞う。
それも、最初は少なかったその粉も徐々に量を増してきているようで、霧の中に沢山……そう、それはもうかなりの量が、空間中に敷き詰め合うよう舞っていて――
《ヒヒィィイイイイーーーーン!!》
「うわっ、う゛わぁ゛ぁあああぁあアアア!!」
突如、前方から一人と二頭の叫び声が聞こえ、ガダンッッと大きな衝撃が馬車内に響く。
「いッ……!? ……っ、なんだこれはッ」
壁に頭をぶつけ、うつらうつらしていたユリセアが完全に覚醒する。
重なる衝撃と共に、ごちゃ混ぜにぐるぐる振り回される馬車。亜人の男性が御者側の扉を開けると、キラキラした粉と共に質量を持った風が雪崩の如く轟々と吹き入れ、口を覆うも咳き込んでしまう。
「グェほッ、ごほっ……おい、どうしたんだッ!!」
「うわ゛ぁあああアア! 嫌だ、こっちに来るなぁああ゛ァ!!」
開けた視界にあったのは、物凄い速度で猛り狂ったように暴れ走り回る馬と、様子のおかしい御者だった。御者は暴れる馬を抑え込んでいるようだったが、まるで目が虚ろで、周りの様子がまともに見えていない。
――キラキラした粉と御者の様子。そこから考えられる原因はただ一つ。
「あっ、あれ……ㇶキャッ!」
女性が指した指の先、それは森に居る筈の蝶――霧に写った、無数の“憶幻蝶”の影だった。
《ギィヒィィィイイーーーーン!》
掻き混ぜられている空間がより大きく揺れ動かされ、四辺の壁にランダムに衝突する五人。
このままでは崖から落ちてしまう。「馬車から降りろ!!」と叫んだオートラルの声は、しかし少しだけ間に合わず、馬車から飛び出すと同時に馬が崖から飛び出して、幻迷の森へと真っ逆さまに落ちていった――
◆◆◆
「うぅ…………」
沼底に沈められた意識が、徐々に覚醒してゆく。
……全身が軋むように痛い。自分は確か――そう、幻迷の森に落ちて、そして意識を失ってしまったんだ。
憶幻蝶は、確か過去に関する幻覚を見せる蝶で、馬車を襲ったのも奴らだろう。森に長居するのはとても危険だ、まだ正気のうちに、早く平原に出なければ。
そう思ったアキは、未だぼうっとする意識を強制的に稼働させ、頭痛を抑えながらゆっくりと体を起こし……目を開く。
「…………は?」
広がる視界、覚醒する意識。
――そこは、森などではなかった。
瓦礫と瓦礫が積み重なった、まるで滅びた街。
眼が埋め込まれ、手や足や臓器が生えた、蠢く肉のような地面。立ち込める紅色の霧と、響き渡る生々しい叫哭。広がる視界全てが地獄の底のように紅く、全てが蹂躙された世界。
紅色に侵食され、変形した無造作に転がる死体の数々。蔓延る巨大な紅核生物と、ソレらに押し潰されてゆく、数多の彷徨う小さな人型の紅核生物。
……それは、アキが目覚めた洞窟が馬鹿らしく平和に見えるような、そんな世界。
どこか見覚えのある世界。
何もかもが失われた世界。
言うなれば、“死んでしまった世界”だった。




