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【この世界は死にました】  作者: もちきなこ
第2章 はじめての街
23/35

第18話 はっぴーばーすでい


 ――――――


 ――――


 ぐちゃぐちゃだった。


「おかちゃ……」


 体液と甘いのと焦げたのと腐ったのといろんなにおい。


 あるく。


 あいつらのぐちゃぐちゃの遊び場になってしまった、自分のおうちの中をあるく。


 あるく。


 血まみれのからだから血がしたたる。

 傷跡から血が吹き出す。歩くたびになかみを砕かれた体に痛みが走る。


 いたい。全身が痛いけど、どうでもよかった。

 やっと近づける。ずっと、近くなのに近づけなかった、お母さんの元にあるく。


 いっぱいの刃が。いっぱいの重たいのが。熱いやつが。いたくて苦しい液体が。

 家族みんなのふわふわぽんぽんが、おさらが、つくえが、あいつらにぐちゃぐちゃにされたいっぱいの思い出が。


 たくさんのものが散乱する床の上を、ボロボロになった足で不安定にあるく。


「おか……しゃ……」


 今しかない。あいつらはいない。あいつらはいない。あいつらはいない。


 ずっと見ていた。見せられていた。むりやり、何日も、何日も、寝かされないで、目を閉じられないようにされて、ずっと、ずっと、ずっと見ていた。

 お母さんが、あいつらにぐちゃぐちゃにされるのを。あいつらが、いつも嗤って笑ってわらって、たのしいなって、嗤って、ゆっくり、ぐちゃぐちゃにするのを。


「ま……」


 たどりつく。


 ――ぐちゃぐちゃだった。


 青色と紫色。

 たくさんの血。

 バラバラの肉。

 傷跡とらくがき。

 苦しいえきたい。

 面影なんて、どこにもない。


 あいつらがやったのに。あいつらが、きたなくなったとか言って、唾はいて、踏んで、もっとぐちゃぐちゃにされた……大好きなお母さんのお顔。


「……おかーた、だいじょ、ぶ? おかーしゃん」


 ぎゅっとやさしく抱きしめる。

 お母さんのことを考えると、可哀想で、辛くて、苦しくて、悲しくなって……この感情を言い表す言葉を持ち合わせていない、小さな小さな体で、愛情いっぱい抱きしめる。


 ……つめたい。とっても、つめたい。

 きっと、いっぱいお水をかけられたからだ。


「――ごめんね、ごめんね……えゅ……ゆみちあのていで…………っ、ゆみちぁが、いた、かや……、えみちあが、……た、たすけ、らぇなかった……ていで…………」


 まだ幼く、呂律の回らない言葉を紡ぐ。


 じぶんのせいだ。

 じぶんが、あいつらの“めいれい”を聞けなかったから。

 じぶんが、あいつらの“めいれい”を聞いてしまったから。


 なのに、お母さんは強くって、あいつらの言いなりになんてならなくて。でも、じぶんがいたから、お母さんは言うこと聞かないとだめなときがあって。


 お母さんはわたしを守って、でも私は、お母さんを守れなくって。

 わたしがいたから、わたしがいたから、

 お母さんはもっとひどい目にあって……


「ごめんね……ゆみちあ……が…………ゆみちぁが……」


 つまり、わたしも、お母さんをぐちゃぐちゃにしたということ。


 ふと横を見ると、私がお母さんにプレゼントであげたやつが、ボロボロになって落ちてた。

 ――いっしょうけんめい、作ったんだ。

 あの日、お母さんが喜ぶ姿が見たくて、がんばって。これをあげた時、お母さん喜んでた。すっごく嬉しかった。大事にするねって言ってくれた。


 それなのに、あいつらが来て、見つけて、あいつらのせいで、お母さんいつも、これのせいで苦しんでて。

 ……わたしが、つくったから。


「……ま……まぁ…………」


 涙があふれそうになるのをこらえる。

 自分が泣いたら、お母さんが不安になっちゃうから、こらえる。泣くともっとひどい目にあわされるから、こらえる。


 ふと目の端に、あいつらにぐちゃぐちゃに食べ散らかされ、飽きたっておもちゃにされたおたんじょうびケーキが目に入る。

 お母さんがずぅーっとじゅんびしてくれていた。私といっしょにつくっていた。ずっと楽しみにしていた。


 そう、今日は、


 ――私の四歳のおたんじょうび。


「……おかぁた、おきゃーた……いたいいたいなの? ……っ、だいじょーぶだよ、いちゃいいたいなくちてあげゆからねっ。だいじょぶだよ、だいじょーぶだよ、えみちぁよんたいでつよくなったかやね、ゆみちぁがついてゅかやね、だいじょーぶだよ」


 うごかないお母さん。……きっと、いたくてうごけないんだ。こんなにひどい怪我だもん。うごけないにきまってる。

 でも、だいじょうぶ。こういう時よくお母さんは、いたいいたいをなくす呪文をかけてくれていた。だからだいじょうぶ。だいじょうぶ。……だいじょぶ、なの。


 それに、お母さんはいたいいたいで、きっとこわいこわいさんだから、だいじょぶだよって安心させてあげるの。今までお母さんがしてくれていたように、お母さんがいるだけで安心したのを、こんどはその逆をしてあげるの。


「い、いたいのいたいの、とんでけー! いたいのいたいのとんでけぇーっ!」

 

 自分が転んだりケガした時に、よく唱えてくれた魔法の呪文。

 すごく好きだった。あったかくて、痛いのも、本当にとんでいったかんじがした。その後は頭をいいこいいこしてくれて、ケガは痛いのに、全然痛くなかった。


 だから、今度は私がお母さんにやってあげる番なんだ。お母さんのいたいのを、なくしてあげる番なんだ。


「いたいのいたいのとんじぇけーーっ!」


 血を少しでも止めるために、そこら辺のビリビリの服を使ってほとんど意味のない止血を行い、手を当て、痛みを上に飛ばすような動作をしながら、なんかいもなんかいもいっしょうけんめい唱えた。


「いたいのいちぁいのとんでけー! いたいのいたいのとんでけぇーっ!」


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 どうしてこんなことをするのだろう。


 しあわせだったのに、しあわせだったのに、どうして?


 どうしてお母さんが?

 お母さんは、優しくて、大好きで、あったかくて、大好きで、にこにこしてて、大好きで、


 何も悪いことしてないのに、どうして?


 どうして?


 ど う し て ?


 ど  う  し  て  ?


「いちゃいのいたいのっ、とんじぇいけぇーっ!」


 うごかない。うごかない。

 いつうごかなくなってしまったんだろう。それも、分からない。


 冷たいからだ。うごかない。


「い……いちゃ、……いたいの、いたいの……とん、で……け…………」


 どこかで分かってたかもしれない。

 もう動かないと、わかっていたかもしれない。


 でも、分からなかった。ずっと幸せに暮らしてきた、一切の不幸を知らなかった四歳の少女が、受け入れられるはずもなかった。


 だから唱え続けた。

 健気に、いっしょうけんめいに、一回一回全てに想いを込めて、丁寧に、何回も、


 何回も、何回も、何回も、何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何も何かいも何かいもなん回もなん回も何かいもなん回もなんかいもなん回もなんかいも何かいもなんかいもなんかいもなんかいもなんかいも


「おか、おかーたん……っ、にこにこたんなの……。まぁま……いたいのいたいの、とんでくの……」


 お母さんの笑顔が好きだった。

 お母さんの優しい顔が好きだった。


 だから、笑って欲しかった。

 また、笑って欲しかった。


 でも、お母さんの顔は、


 ぐちゃぐちゃな形で、

 ぐちゃぐちゃな色で、


 体も、顔も、ぜんぶぜんぶ、


 ぐちゃぐちゃで、ぐちゃぐちゃで、


 ぐちゃぐちゃでぐちゃぐちゃでぐちゃぐチゃぐちゃぐちゃぐチゃグチゃぐヂゃくちャグちゃぐヂャぐチャグちゃグちャぐちゃぐぢゃグちゃグチゃぐヂゃくちャグちゃぐヂャぐチャグちゃグちャぐちゃぐぢゃグちゃグチゃぐヂゃくちャグちゃぐヂャぐチャで


「……っ、まっまぁ……っ、いぢぁいぃたぃ、なの…………っ、まぁあマァぁぁあああ……」


 泣き出した。


 押し殺したように小さくて、か弱くて、ボロボロな、聞いた事もないような悲痛な声で、泣き出した。

 とめどなく、ぽろぽろと涙が零れる。

 泣いたら、もっとひどい目に合うから泣けなかった。なのに、泣いてしまった。


 四歳になっても、ぜんぜんつよくなんてなれなかった。


 お母さんは、私の笑顔が好きだって、よく“にこにこたん”だよって、私がにこにこしたら元気が出るって言っていたけど、今は、それを考えるともっとに苦しかった。幸せだった普通の日を思い出して辛かった。


 にこにこしても、なんにもならない。

 にこにこなんて、出来るわけない。


 お母さんのにこにこは、どこにもなかった。


「いぅっ……ぃ、いたいの――……っ、いたい、の……とんで…………」


 再び唱える。

 孤独な空間、残酷さを煮詰めて濃縮したような、かつての憩いの我が家で、ひとりただ一生懸命に唱え続ける。


 逃げる場所なんてなかった。一人残さず殺されてしまった。

 外は、みんな暮らしてたここは、もうあいつらでいっぱいだ。


 みんな、みんな、


 皮を剥がれて、素材にされてしまった。

 内蔵を抉られて、売られてしまった。


 みんな、遊ばれてから殺されてしまった。

 亜人じゃないお母さんは、ぐちゃぐちゃに遊ばれてしまった。


 もう逃げられない。どうしようもない。


 ……お母さんは、

 美人さんだったから悪いんだって。外を歩いてる時があったから悪いんだって。自分達の理性を抑えきれないのは、ぜんぶお母さんが悪いんだって。


 ふざけるな。


 自分達にぐちゃぐちゃにされるのは、本当は嬉しがってるんだって。抵抗してるフリして、本当は喜んでるんだって。だからやったんだって。そうすれば自分たちを好きになるはずなんだって。みんなそうなんだって。


 ふざけるな。


 だから、自分達にぐちゃぐちゃにされるのは、感謝して、嬉しがるべきなんだって。もっとぐちゃぐちゃにされるべきなんだって。

 俺たちにぐちゃぐちゃにされるために生きてるんだって。それしか価値がないんだって。


 ふざけるな。


 都合のいい、めちゃくちゃな理論ばかり。

 クソみたいな、クソみたいな、


 でも、この場所では、それが正義で、

 あいつらみんなそう思ってるから、

 あいつらが支配者だから、


 それが真実で……


 ――もう、死ねばいいのに。



 死ね。



 死ねよ。


 とっととゆっくり死にやがれ。


 ぐちゃぐちゃになって、苦しみもがき、叫び声をあげながら、びちゃびちゃ撒き散らしながら、苦しい液体を入れられて、体に虫を入れられて、中身を外に引き摺り出されて、爪と指の間に針を刺されて、皮を剥がれて、舌を切られて、毎日ゆっくり焼かれながら、ゆっくり少しづつ小さくなって、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりゆっくりゆっくりゆっくりゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり死ねばいい。


 お母さんよりもひどくなってしねばいい。


 あいつらみんな、しねばいい。


「い、いたいのいたいの、とんで――――」


 とんでけ、と上にあげた両手の片方を掴まれる。

 ヒヤリ、と心臓が冷たい手で捻り上げられる。


 だれだろう?


 思い当たるのは? 考えられるのは?

 もしかして……



 ――――お父さん?



 絶望の中、空っぽの希望に満ちた目。

 最悪の可能性を、自己防衛反応で排除してしまった、脆く幼い思考回路。


 お父さんが帰ってきた。あいつらに殺されずに帰ってきた。

 お父さんが帰ってきた。もうなんにも怖くない。あいつらみんなぶっ殺して、お母さんの仇を打つんだ。


 おとうさん。おとーさん。


 振り向く。


 そこにあったのは――――




  あ 


       い  


          つ


     ら 


  の


       え


            が  



         お



 ――――――


 ――


「……っ、うぉ゛ぇええええ゛エ゛ッ!!」


 吐き出した。


 ――嫌な夢を見た。本当に、久しぶりだ。

 感触から感情までやけにリアルで気持ちが悪い。


「ぅ、っぷ、……っ――――はあっ……はアっ…………は、ァッ………………っく」


 肺が痛くなる程に荒れる呼吸を、胸あたりを鷲掴みにするようにして止める。

 苦しい。くるしい。服に取れないシワがくっきりと刻まれるくらい握りしめて、やがて落ち着き、水を止める。


「…………………………はぁ」


 弱々しい溜息をつき、静けさのもたらされたその場所に、ずりずりと座り込む。


 ――最悪だ。


 思い出したくもない、あの時の記憶。

 ……悔しい。あのゴミ共の顔は出てくるのに、お母さんの顔はまるで思い出せないのが悔しい。


「…………おかぁ、さん……」


 今にも消えてしまいそうな、儚い声で呟く。

 水で濡れた床が冷たさを返す。屈めた膝に顔を押し付け、腕を回して支える。


 あの日、四歳の誕生日を(もっ)て私の価値ある人生は終わり、無価値な人生が始まった。

 アイツらがお母さんを殺したから、お父さんは変わってしまった。お父さんが変わってしまったから、こんな事になってしまった。

 アイツらさえいなければ。アイツらが、アイツらが……


 あいつらが。


「…………っ」


 いけない。感情に、流されている。

 人間の人生は一方通行だ。幾ら後悔したところで、起こった事は取り消せない。一度死ねば、生き返らないし、御伽噺のように時間を巻き戻す事なんて不可能。終わった運命は変えられない。


 私はアイツらをぐちゃぐちゃにした後、感情に任せたせいでどうなった(・・・・・)

 ……ははは、笑えない。何も良い事なんてなかった。理性的じゃないし、合理的でもない。クソが。クソ、クソクソクソクソ――


「…………ッ」


 凭れ掛かった壁を支える手に力が入る。

 奥歯に力を込める。ギリギリ、と歯茎が圧迫されて血が滲み出る。軋みに生じた鈍い痛みが、首の後ろから、後頭部へ。そして、思考へ入り込み――握り締めた手から、生暖かい血が流れたあたりで、

 ハッとする。


 服が、濡れていた。

 ただの水じゃない、しょっぱい水だ。


 …………泣いていた? そんなまさか。


 一体何年前の話をしているんだ。泣くなんて全く馬鹿らしい。

 それに、お母さんの事はとっくに克服した筈だ。何を、感傷的に、なっている。


 ふらり、と立ち上がる。

 眼前の鏡、そこに映し出される自分の顔。――紛れもない“ユリセア・ヴァルミリア”の顔貌。


『お前は、お母さんによく似ている』


 当時は複雑な感情だったが、そういう意味の事を、お父さんはいつも言っていた。


 お母さんは、どんな顔だっただろうか。すごく優しくて、暖かくて、綺麗な人だったと、思う。

 長いピンク色の三つ編みだったとも、お父さんは言っていた。私と同じ瞳の色で、それがとても母親の片鱗を感じさせるのだと。

 ……でも、何年も前から思い出せない。仕方がない、最後に顔を見たのはあの日、四歳の誕生日だ。


「…………」


 ……いつか、私は決心したんだ。

 私を庇って死んだお母さんの死を、悪い結果で終わらせない。あの死から始まった惨憺数々を終わらせる。それしか、私に価値は無いのだから。


 そう『課程よりも結果』だ。

 過程の時点で甘い考えを持って、下らない躊躇いを持てば結果は変わる。過程が良くとも望む結果にならなければ……何の価値もない。

 そして……結果として救ってみせる。あの日以降の無価値な人生は全てこの為、私の存在は全てこの為。お母さんとお父さんの死を報いて、“あの子”を助ける。こんな結果のまま終わらせやしない。


 感傷が邪魔なら、本でも読んで上塗りすれば良い。魔法の創作はもっと良い。魔法は難しいから、他の事を考える余地が無くなる。考えなくて済む。オマケに楽しい。楽になれる。

 アイツとは違って、自分の感情を騙すのは得意だろう?


 あんな夢を見るだなんて随分と調子が可笑しいが、たかが夢だ。今すぐ無価値な体の震えを止めろ。巡る感傷を断ち切れ。私はこんな無意味な行動を取るやつじゃないし……取る権利もない。家族の悲惨な結末は、全部自分のせいなのだから。


 私の人生の全ては家族のために。私のせいで死んだ家族の為に。

 私は、

 わたしは――――


《コンコン》


 その時。彼女の部屋の扉を叩く音が響いた。


 誰か、来た……?

 今は人に会いたくない。居留守を使ってしまおうか……と考えたが、おかしい。ただドアをノックするだけでなく、変な音楽に合わせてリズム良くノックしているのだ。うるさいというよりは、さほど良くないリズム感も相まって、かなり喧しい。


 彼女は扉へ向かい、ドアスコープを覗く。そこに見えた人物を確認して、時計を見……そして、出る事にした。


「うわ! 出たぁ!!」

「なんだ異世界人。朝から随分と煩わしいな」

「朝から随分と、じゃねえ! 今何時だと思ってやがる。もうかなり待ってたんだけど」


 出てきたのはアキ・タケウチだった。昨日、依頼を受ける約束をしたのだが、一向にユリセアが待ち合わせ場所に来ないので呼びに来たのだ。

 とはいえ、ノックしておきながら本人が出るとは思わなかったのか、驚いた声を上げる。出ると思わなかったから巫山戯たノックをしていたのだ。


「何時……? 何も約束した覚えなんてないが」

「約束しただろ。依頼受けに行くって」

「知ってるかい? 一方的な取り決めは約束とは言わないんだよ」


 いつもの変わらぬ平然とした様子でユリセアは話す。そこには、先程までの様子の残り香すらなかった。


「何度か訪ねたのに、返事くらいしてくれても良かったのに」


 そんな事を言いながら、ふいにアキはユリセアの目が充血している事に気が付いた。まるで泣いた後みたいな……そんな感じである。

 アキは若干怪訝そうに顔を顰め、それに気が付いたユリセアはこう答えた。


「……昨晩、アイツの所に行ってたからひどい寝不足でね。今起きたばかりなんだよ」


 はあ、と目を細めながら溜息をついて、壁に凭れ掛かる。


「なるほど……ていうか、もふもふの元に?」

「ああ。……随分と待たせたようだがね、そもそも一方的な取り決めは約束とは言えないし、せめて明日にしてくれないかな? 疲れているんだよ」


 ……嘘、ではない。


 彼女がレディアの元へ行っていたのは本当だ。彼女がアキに話すという内容を聞きたかったのだ。

 しかし、レディアは言うのだ『お主には教えられない』と。ただ異世界人なのは本当だとしか言われなかった。


 奴とは互いに裏切れない状況にある。相手を裏切れば自分の身も滅ぶ……そんな情報を持っているし、何よりも片方が欠けてしまえば、互いに自分の目的を果たす事が困難になる。

 だから、心情的な信頼は置けないが、彼女の言う事は信用出来る。異世界人という事について、嘘は付いていないのだろう。


「じゃあ俺一人で行く」

「君は立場を分かっているのか? 命が惜しくないなら、好きにすれば良い」


 むむむ、とアキは唸りながらも、考えていた。

 ……ユリセアは、自分が離れても良いように対策は確実に取ってある筈だ。実際に殺されるような事はないだろうが、何かしらの対応はしてくる。そうでなくとも、あのもふもふとの関係上、あまり勝手な行動は取るのは宜しくない。


 …………あ、そうだ。


「だったらついでに魔法教え――」

「よし、交渉成立だ」


 こいつ、意外とちょろいのでは?


 そう思ったが、これは依頼を受けたいが為の誘導ではなく、本当に教えて貰いたいと思っていた。

 アキにとっても、ユリセアにとっても、ちょうど良かったのだ。彼女にとっては魔法は、現在の気を紛らわしてくれる唯一の趣味だ。


「……で、装備は? マトモな装備など持っていやしないのだろう」

「うん。だから、装備買ってから依頼受ける」

「面倒な……まあいいや。準備するから待ってろ」


 彼女はそう言い残して部屋に戻り、荷物の準備を始める。

 いつもの装備(ローブ)、暇な時に読む本、革製の水筒や薬草、……そして、常に肌身離さず持っている、あのロケットペンダント。


「……」


 金色のロケットを左手の中で撫でてから優しく握り、伸びる細い鎖を首に掛ける。

 いつもならば無くしてしまわないようにしまっておくのだが、今日は普通に装備したかった。どうせ過酷な依頼は受けないだろうし、大丈夫だろう。


「よし、それでは行くとしよう、異世界人」


 ロケットを肘あたりまでのローブの下に隠してから彼女は言う。

 こうして、二人は外へと足を踏み出した。


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