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【この世界は死にました】  作者: もちきなこ
第2章 はじめての街
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第14話 涙に融ける夜


「まあ、最低限それでいいんじゃないかな」

「そうだな。……ありがとう」

「君の分から差し引きするけどね」


 ユリセアは、アキの持っている黒っぽい服を見ながら言った。


「本当は魔紅力の染み込んだ服で出歩くなんて有り得ないんだ。門で服を借りる事も出来たんだけどね、検問官も御者も若かったから気が付かなかったのだろう。ちゃんとした防具は今度買うといい」


 彼女の話を聞きながら、彼は座っているユリセアに向かい合うよう、机を隔てて向こう側のイスに座り、服をしまいながら机に並べられた物を眺める。


「はい。報酬、分けておいたよ」


 アキとユリセアがいるのは、彼がジェニルから貰った宿泊券の施設のロビー。彼らを隔てる四角い木の机の上には、金や銀色をした硬貨が二つに分けて置かれていた。


「……物価とか分からんけどさ、これっていい額なんじゃないの……?」

「内容が内容だけに、結構な報酬だったんだ。君の情報のお陰でもあるからね……君のは、それの取り分だ」


 ユリセアは、アキの前に置かれた方を指差しながら言った。


「いいかい。銅貨一枚は“百レル”、これは青銅貨十枚分に相当する。そして、銅貨十枚で銀貨一枚、同じく銀貨十枚で金貨一枚分だ。一応、その上に“白金板”や“王金板”なんてのも存在しているが、普段はあまり使われない」

「それじゃあ、俺の分はこれで、三万五〇〇〇え……じゃなくて、レル……」

「ああ。報酬は全部で金貨二十枚くらいで、君の内訳は、討索の補助で銀貨三枚、下の区域の情報で金貨三枚と銀貨三枚だが、服の分の銀貨一枚引いている。……知性持ちの紅核は知り合いに渡すから、その分は明日渡すよ」


 ユリセアはそう言いながら、アキのものよりも多い自らの取り分である硬貨をポーチにしまって言い放つ。


「ああ、忘れていた。貨幣について一レル単位の小さな“塊”も存在しているが、これもほとんど使われない。大抵は百レル(銅貨一枚)単位で、小さい買い物では、偶に十レル(青銅貨一枚)単位でのやり取りが行われるね」

「へぇ……分かった」


 慣れないが、そこまで難しそうな仕組みではなくて良かったとアキは思う。

 価値がわからないので、一万レルである金貨一枚を“諭吉一枚分”と考えるのは良くないかもしれない。何せ異世界だ、魔法や魔紅力があったりと現実世界とは違うので、物の価値も物によって随分と離れているだろう。

 つまり、中世ヨーロッパ辺りの物の値段や価値を考えても、なんの参考にもならないという事だ。


「ほら、そこに時計があるだろ。明日は……そうだな、朝の十時くらいに斡旋所で待ち合わせだ」

「ん、了解……」

「それではね、異世界人」


 簡潔な彼の返事に彼女は返すと、ロビーから去っていってしまった。かくいうアキも、彼女を見送ることなく虚ろな瞳を階段先へと向ける。

 ポケットに入れておいていた鍵を取り出す。そこに書かれているのは、異世界の数字で“2-3”という文字。二階の三号室という意味だ。


「……」


 荷物を持ち、周りが思わず振り向くような、死んだ目のまま階段を上って自分の部屋へ。

 小さいがとても清楚で、木製の床とふかふかのベッド、部屋着や金庫やその他諸々が備え付けられている場所。どうやらここでは日本と同じ、玄関で靴を脱ぐ式らしく、靴を脱いで床に荷物を投げ出し、自分の体すらも投げ出す。


「…………」


 ――なにも、するきが、おきなかった。


 魂の抜けたような数分間の空白の思考のあと、ぼうっと、新鮮に、あの洞窟での出来事を思い出した。


 信じられない程に、気持ちの悪い場所の事。

 化物に追い掛けられた事。

 化物の死に様の事。

 ケイシーやアレンに助けられた事。

 アレンが、操られてしまった事。

 ケイシーを刺した時の、あの感触の事。

 死に際の苦しそうな声の事。

 二人が食べられる光景の事。

 死体を踏み潰す、ユリセアの事。


 ……それこそ文字通り、一歩間違えれば死んでいた。

 刃を避ける時、白蛇の猛攻を避ける時――もし、ほんの少しでも間違えていれば、ほんの少しでも遅かったら。例えばそれは、鉛筆を落とした・落としてない程度の僅かな差の、すぐそこにあったかもしれない未来。


 もしかしたら自分は、


 もしかしたら、じぶんは――


「……ㇷ、ふぅわ゛ぁぁぁぁあぁぁああぁぁあぁ」


 突然、酷く不安定で奇妙な鳴き声を発し、荷物に顔を埋める。

 あんな、あんなに怖い場所だったのに、この世界には普通にある場所だという。見えないだけで、魔紅力は日常的に潜んでいるという。


 怖い。

 こわかった。


 これからも怖い。


 でも、安らげる場所なんてない。誰も知らない、どこも知らない、異世界だから、吐き出せる人もいない。明日死んでしまうかもしれないのに、誰もいない。


「嫌だぁ、いやだぁ! 怖い、こわぃよぉ、もういやだぁぁあ」


 ぐりぐりと顔を押し付けながら放った情けない声が、鞄にくぐもり、部屋に揺れる。

 ずっと心に閉じ込め溜めていた分。あの三体目の化物に対峙した時に一旦閉じ込めた感情が、増幅されて蘇る。


 だって、ずっと、無理をしていた。

 他人と会話するのが精一杯で、体を動かすのが精一杯で、そこに立つので精一杯で。本当は会話なんかしたくなかったし、感情の整理がしたかったけれど、気持ちを閉じ込め、心を張り詰め、マトモに見せる為に無理やり体を動かしていた。


「ぅあぁ゛ぁ゛あああ」


 震える震える右手を握りしめた鞄から離して上に掲げる。


 覚えている。

 刃が肌を突き破って、柔らかい肉を穿つ、あの感触を。さっきまで生きていた二人が、豚に食べられ、原型を失ってゆくあの光景を。


「――ッッ!!」


 彼は突然、神からの啓示を受けたように立ち上がると、洗面所へ向かい、タンク式の水を全開に出して、あまり良い匂いのしない石鹸でひたすらに右手を洗う洗う洗う洗う。


「うあ! うあ゛!! うぁ゛あああ!!」


 全開の水は滝の如く、霧のかかった床面に反射して涙と鼻水で汚れた彼の顔に降り掛かる。


 感触を消したい。記憶を消したい。


 右手を底面にバンバンと叩き付ける。消えない、消えない、消えない。

 水から出して、行き場を失った罪悪感の右手が、震え、震え、震えるから、ガクガクを抑えるために握って、締めると、手のひらからじわじわと血が滲んだ。


 再び、血の滲んだ手を水の滝に付ける。血が水に溶けて一瞬赤色に染まるが、すぐに透明色になる。

 次に、水が手の怪我に滲みる。

 痛い、痛い。痛みで、あの感触を紛らわそうとする。


 ……なのに、痛みよりも先に、感触がやって来てしまう。


「ぁああ」


 血に染まった右手を水から出す。


 まるで、あの肉壁を伝う魔紅力みたいだ。

 地面に溜まっていた、魔紅力の気持ち悪い液体みたいだ。


 そう、


 まるで、


 ケイシーが最期に吐いた血と、食べられていた二人の内蔵から飛び散った血を、思い出す――


「――っㇶ!」


 襲い掛かる吐き気。気持ち悪い――恐ろしい自らの右手で口を覆い、顔貌に走るぬめりとした覚えのある感覚に、ゾッと寒気が走った。

 再び、右手を水に潜らせる。が……その内体の力が抜けゆき、水を出したまま、ずるずるとしゃがみ込む。


 ――たてない。


 とめどない涙が頬を伝う。飛び散った水が雨の如く降り注いで、床を濡らす。


「何やってんだろ、俺……」


 死ぬほど馬鹿らしい。


 勢いよく流れる水の音に声が半分掻き消され、狂った思考も流れ出し――ふいに、ゆっくりと立ち上がると、蛇口を締めた。


 ――狂ったところで、気持ちが楽になる訳でもない。

 なったとしても、それはただの思考停止……錯覚だ。苦しみを紛らわす為、意図せず自分をわざと狂わせてみても、現状が変わる訳では無い。

 ふと、視界の端に、自分の顔が映る。目を上げて、顔も上げる。

 そこには鏡があった。よくある洗面器の鏡と、そこに映る自分の顔だ。


「ひっでぇ顔だな」


 どこかでぼやいた台詞。

 自分の顔は全体的に酷いが、特に目が酷い。まるでスーパーに並んでいる、値引きシールの貼られた目の濁った冷凍の魚みたいだ。


「……」


 黙ったまま、右手を鏡に添える。鏡の中の自分もピッタリ動きを合わせて、鏡越しに触れ合った手の間から、少量の血が一緒に流れて線を描く。


 鏡の先の自分。

 飛び出しては――こなかった。

 当たり前である。当たり前の事なのに、当たり前だと思えなくて、ゆっくり自分の顔と距離を取る。

 ……もう、何が当たり前なのか、分からない。


 風呂を済ませ、部屋着に着替え、向かった先はベッドの前。ボスリと仰向けに倒れると少しだけ衝撃を返し、まるで水上で浮かぶかのような揺れと同時に、背中が重力に従って沈んでゆく。

 少しだけ、気持ちが良い。


「…………はぁ…………」 


 弱々しいため息を吐く。

 ずっと食事を取っていないのに、これっぽっちも食欲が湧かない。……特に肉なんて、食べられたものでは無い。


 顔だけ動かし、既に殆ど回復した左手を見る。強力な薬草だとは言っていたがそんなに早いのか……脳の端で違和感を感じるが、思考することは無かった。したくなかった。思い出したくなかった。


「…………」


 このままじゃダメだ。異世界から帰る方法云々の前に、まず自分自身の気持ちをどうにかしなければならない。これでは拾った命も無駄になる。


 『今度は自分を殺しちゃうよ?』ジェニルは言った。確かにその通り、まさに今の自分だ。きっと、彼もそうだったのだろう。

 『人が死ぬのなんて当たり前の事だ』ユリセアは言った。彼女個人の価値観は置いておいて、この世界ではそうなんだろう。自分も慣れなければならない。


「……ぅ」


 もぞもぞとひっくり返り、掛け布団を腕に抱く。


 しっかりしろ。そう、理解はしていても、感情が付いて来ない。気が付けば見知らぬ残酷な地で、死にかけ、まともでいられる訳が無い。ついさっきまで笑顔で話していた人があんなにも変わり果てた姿を見て、正気でいられる訳が無い。


「ひ……ひッ――ぐ」


 涙が出て来る。布団をギュッと抱きしめる。

 ――もし自分が異世界転移の主人公だったらどれだけ良かっただろうか。これがフィクションならば、どれだけ良かっただろうか。


 楽になりたい。救われたい。安定した現状が欲しい。自分を励ましてくれる言葉が欲しい。支えてくれる仲間が欲しい。誰か、自分を助けて欲しい。

 なのに、出会った仲間は死んでしまった。一瞬関わった人物も、オートラルはよく分からないし、ジェニルは多分もう会えない。唯一頼れるユリセアは、支えてくれるとか、そういう奴じゃない。

 自分は、ひとりぼっちだ。


「ひっ……ぅ……っ、ぅああ……」


 鳴き声の間から嗚咽が漏れる。

 怖い。怖くて、寂しくて、孤独感が心を塗り替え締め上げ蹂躙し、膨張した恐怖が心を組み敷き陵轢する。ぐるぐるぐるぐると繰り返す寂しさと恐怖のポジティブ・フィードバックは留まることを知らず、彼の心を蝕み破壊してゆく。


 ごそごそと布団に潜り込んで布団を抱き締め、不安で凍てついた心と体を温もりに包んで、少しでも安心感を得ようとする。


 帰りたい。帰りたい。

 そう、自分は……帰らなきゃいけない。


 ずっと一緒にいたのに。仲が良かったのに、喧嘩したまま別れた家族。あのまま一生会えないだなんて絶対に嫌だ、有り得ない。

 友達もそうだ。別れも言わず、ある日突然自分が行方不明になって、一体どう思うだろうか。


「あぅ……かぇ……がえㇼたぃ……帰りだいぃぃ。……ぅぁあ……ひっぐ……もういやだぁ……もういや゛だぁぁあああ゛あ゛」


 布団に顔を押し付ける。大粒の涙が布団を濡らし、絞り出された彼の声が、部屋に響く。

 今まで我慢してきた分、辛かった分、全てが嗚咽と涙になって融けてゆく。


 明日から、また、明日が始まる。

 来ないで欲しい。辛い日々が始まらないで欲しい。でも、時の流れは止められないし、逃げ場だってない。


 もう、やめたい。

 やめてしまいたい。

 泣いたって明日はやってくるし、やめれる訳でもない。……それなのに、涙は止まらない。


「う゛ぁぁ゛ああああ、いゃだぁ……っヒッぐ……っ、こわぃよ……たす、け、て……ぅぁ……おか、さ……っぁあぁぁ……」


 逃げられないから、頑張らなければならなから……だから、味わった恐怖を克服しなければならない。二人の死を、克服しなければならない。

 孤独感の為に、ここにはいない人間に甘えていてはいけない。


「ッヒ……ぐ……ぁあぁああっ……いやだっ……わあぁぁあああぁあああ゛……」


 でも……克服する分、明日からしっかりする分、今はたっぷり泣いてしまおう。


 現実世界に対する愛しさも。

 魔紅力の区画の事も。

 二人の死の事も。


 今の今まで味わった全ての感情を、記憶と想いを涙に乗せて、全て感情と共に流してしまおう。


 これで、区切りを付けられるように。とりあえずの終止符を打つ為に。

 なにもかも吐き出してしまおう。


「う、ぁあぁあああぁああ゛あ゛!…………ッ、ぁああ゛ぁっ――ぅわぁぁあああ゛あ゛!!」



 ――既に日は落ちかけ、伸び切った影が風景と同化して消えかかる頃。


 ぽつぽつと付き始めた広い街の灯りの中。少し大きめの一つの宿の、一つの部屋で、たった一人の人間が泣いていた。

 まるで年に似合わない、小さな子供のように、わんわんと、泣いていた。


 それは、全ての感情を吐き出すように、全ての想いを吐き出すように。しゃくりあげながら声が枯れるくらい、ずっとずっと泣いていた。


 ――やがて、街は夜の暗闇に飲み込まれる。

 暗い、暗い、孤独の差し迫る夜の常闇。


 ひとりぼっちの彼の涙は、そんな夜すらも融かしてしまうかの如く、とめどなく零れ落ち、

 そんな彼の泣き声は、暗闇の中へ。……暗い、くらい、誰すらも見えない場所へ、



 吸い込まれ、


 そして




 ――きえていった。


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