秋色の回録【一】さよなら・下
走る。ただただ走る。
悔しかった。折角プレゼントを買ったのに誤解されてしまった事が悔しかった。
悲しかった。たった一言でも「頑張ったね」と言われなかったのが悲しかった。
感情に任せて家を飛び出し、歩道を、交差点を駆け抜け、意味もなく走り続けたその少年は……しかし、不意に足を止めた。
「……何やってんだろ、俺……」
ほんの少しでも感情が冷めてしまうと、そこから一気に理性が雪崩込む。
……本当に、何をやっているんだ。
根本的に悪いのは自分なのだ。自分ですら酷い親不孝者だと思ったじゃないか。どうして遊んでいたことすら謝れない。どうしてあんなに酷い事を言ってしまった。
理性を失って、感情的に喧嘩をしてしまうだなんて、我ながら『らしくもない』。今からでも戻って謝ればいい。謝るべきだ。だけれども、
(……いや、だな)
両親にぶつけた不満も本物だったからだ。
自分を追い詰めないで欲しかった。自分に寄り添って欲しかった。彼らがどういう風に考えて自分を想ってくれているのかは分からなくはなかったが、納得出来なかった。
だから、帰りたくない。かえりたくない。
もうちょっと、気持ちが落ち着いてから考えたい。
「……」
重いバックの中身を覗く。
模試ノートに、いくらかの教科の参考書とルーズリーフ。筆箱、お財布(八千円強)、折り畳み傘に生徒手帳、学校の定期(タッチ式カード)、そして黒色の最新型スマートフォンに、ソーラー充電式のモバイルバッテリー。
沢山入っていてよかった。
どことない罪悪感から、勉強しようと学校か塾の自習室へ向かおうとするが……やめた。先生に電話された直後、学校には行きたくなかったし、最近の出来事から塾も何となく気まずい。
図書館も歩いていけたものではない距離だ。どこで勉強するべきか……
……いや、
「やっぱ、いいや」
投げ捨てるように呟く。
こんな気分では勉強なんか頭に入ってくる訳が無い。普段があんな状態であるのに、尚更だ。
……気持ちが不安定で落ち着かない。謝らなきゃという自分の感情と、あっちだって悪いというプライドの、相反する感情が自身の中でせめぎ合って、気持ち悪くて、もう考えたくなくて、もはや考えない為に別の何かで気を紛らわそうと、ポケットに手を突っ込んでフラフラと歩く。
カーネーションを買う時の自分に似ていると思ったが、気分はまるで真反対だ。
……何だか、とても気持ちが悪かった。
まるで、世界と自分が切り離されてしまったかのような気分だ。足音と談笑の人混みの中に自分が浮いている。
様々な店の密集地帯。ゲームセンターの雑音が嫌でも耳に届く。……そうだ、いつも通り気分転換をすれば良い。普段ならそう思うものの、やる気すら起きなくて通り過ぎる。
様々な商品が売っている激安の殿堂の特有の音楽が鼓膜を打つ。とても暇つぶしには最適だが、見る気も起きなくて通り過ぎる。
アニメグッズなどが販売されている、よく友人に連れられて行く店。小説や漫画も売られており、好きな作品のグッズは見ているだけでも楽しいが、気分ではなくて通り過ぎる。
本屋、服屋、スーパー、レストラン。行こうとすれば何でもあったが、そのどれにも行く気がしない。何をするにもやる気が起きない。
建物と建物の間、短い自分の影が地面に落とされる。うっすら雲のかかった晴天、肌を撫でる冷たい空気。ふと、道の端っこの、見やすいように高い位置に掲げられた時計を仰ぎ見る。――もうすぐ二時半だ。
ギュルり、お腹が間抜けな音を鳴らした。そこで彼は初めて自らのお腹が空いていることに気が付く。当然だ、家に帰って昼食など食べていなかったのだから。
近くのコンビニに駆け込む。自動ドアが開くと共に、そのコンビニ特有の軽快な効果音が鳴り響く。
軽く食べられるもの――大豆をスティック状に固めてドライフルーツを混ぜ込んだ栄養食品「ソイスティック」を数本手に取って買い物カゴに入れ、夜ご飯も食べることになるかもしれないと、小さめのサイズのカップラーメンを一つと、好きなペットボトルの緑茶も一本入れて、レジへ向かう。
「ありゃっしたー」
お会計を終え、気だるいバイトの見送りを聞きながら、レジ袋を片手に外へ。
目的もなく、ソイスティックを食べながらただ呆然と歩き続ける。……やがて店の密集地帯から抜け、離れの少し静かな場所へ出た。
落ち着く気持ち。座った理性。だんだんと傾く日を眺め、ふと思い返す。
『なあ、お父さん。いつも家にいないクセに、見てもないクセに説教垂れんなよ!! なあ、お母さん。挫折なんてした事もないクセに、勝手に分かった気になんなよ!!』
本当に酷いことを言ってしまった。
深く溜息をつく。言って良い事と悪い事がある……分かっていた筈だ。なのに、言ってしまった。自分と同じ状況になった事がないクセに言われるのが悔しくて、言ってしまった。
それはどうしようもない事なのに。
『本当は、これっぽっちも心配なんがしてないクセに!! 自分の期待を押し付けたいだけのクセにッ!!』
そんな訳ないじゃないか。少し考えれば分かる、心配してくれてるって、心配をかけてるって。だからこそ口出しされるんだ、あそこまで怒られるんだ。
……ただ、少し下手なだけで、自分の望んでいる物と噛み合っていないだけで。
……自分は一人っ子だから、自分の前も次もいなくって。本当に大切に育てられて、勉強が幾ら出来なくても応援してくれたし、見捨てないでいてくれた。塾だって高いのに、参考書にもお金が掛かるのに、望んでいる程伸びなくても払っていてくれたのだ。……本当に、恵まれていたんだと思う。
――それを、蔑ろにしたんだ俺は。
勉強しなくなって、遊ぶようになって、あれ程に酷い点数の模試を全て隠し、また遊ぶ。怒って当然だ。怒らない訳が無い。
全て、すべて、自分が悪い。
『そっちから言う事があるんじゃないの? 秋……』
たった一言ごめんって。本当は一言じゃ足りないけど、自分にはその一言すら出てこなかった。
子供じみたクソみたいなプライドだった。ただ、今までを認めてもらえなかったのが悔しくて、たったそれだけの理由で言えなかった。謝るよりも先に認めて欲しかった。
先に謝るべきなのは自分だと分かっていたハズなのに。
「…………」
世界に自分が置いていかれる。
だんだんと哀愁を帯びたカラスの鳴き声が増えてゆき、空にうっすらと赤みがかかってゆく。
信号機の前、一様に並んだ人々、同じ角度で伸びる影。ふと信号機が青に変り、一斉に動き出す。
(ぁ…………、これは……)
耳に流れ着いたのは、信号機の『通りゃんせ』のメロディー。まるで切り取られた時代をそこだけ貼り付けたように、人々の足音とカラスの鳴き声の向こう側で孤独に流れる。
懐かしい。無機質の筈なのにどこか憂いを孕んだ音とメロディー。それに影響されて、頬を撫でる風と日の温もりにすら懐かしさを錯覚する。
昔はこの信号機ばかりだった気がするが、いつからか無くなってしまった。――ああ、あの頃は、とてもラクだった。こんなに悩む事もなく、時間もたっぷりあって、あの頃の感情が同じ自分だとは思えない。あの頃の自分が、羨ましい。
そんな事を思いながら、信号機を渡り切る。ふらふらと、近くの公園に足を踏み入れ、ベンチに座る。
僅かに響く信号機の音楽。遊具で遊ぶ子供たちは、「そろそろ帰ろうね」と親に言われて帰っていった。
レジ袋からペットボトルを取り出して蓋を開け、公園の時計を見ながら一口飲む。
(五時か……)
コンビニから二時間半も経っていたのか。
やる事もなくて、ペットボトルを横に置くとノートを取り出して眺めてみる――が、内容が全く入ってこない。
ノートに空の赤色が照らされる。ふと、あの勉強していた頃のページと、今のページを見比べて、懐かしげに指で文字をなぞる。……やれば出来ていたんだ。周りと比べないで見てみれば、しっかりと伸びていた。
――今とはまるで違う。
ぱたん、とノートを閉じて、再びペットボトルのお茶を飲む。深い溜息をついてから、腿の上にペットボトルを置いて、蓋の上に手をかけ、頭を乗せる。
勉強を、これ以上頑張る事への重圧。
「帰り、たくない……」
それらがまた始まってしまう。頑張る事から逃げたかった。不安の根源、受験そのものから逃げたかった。
逃げたくて、それで遊んでしまうようになった。……けれど結果はどうだ。逃げて距離を放すどころか、余計に詰められているのではないだろうか。不安を掻き立てているだけではないだろうか。
「…………そう、か」
逃げ場が、欲しかったんだ。
勉強からの逃げ場が、不安と重圧からの逃げ場が、心の逃げ場が欲しかった。
でも、自分の周りに逃げ場はなかった。自分を追い立てる周りは、むしろ逃げ道を塞いでいた。
“心配”してくれているのは分かっていたけれど、これ以上追い詰めないで欲しかったんだ。伸びない自分自身を、そのまま受け止めて欲しかったんだ。
……ああ、もっと正直に自分の気持ちを話すべきだったのだろう。遅かった、話をしたその時には、もう既に信用を失っていた。
「……っ」
瞳に涙が溜まり、流れる前に、隠すようにソレを拭う。
話を、聞いて欲しかった。ただただ聞いて欲しかった。少しでいいから、全ての内のほんの一滴分で良いから、辛さを、苦しさを分かって欲しかった。
そしたらきっと、受け止めてくれたんだろう。いつもは厳しいけど、そういう時はいつだって受け止めてくれた。話も聞いてくれた。
今までのあの努力だって、きっと認めてくれた。
「…………」
帰るべきだ。
帰って、謝らなければいけない。遊んでいた事、酷いことを言ってしまった事。陳腐なプライドなんか捨てて、きちんと伝えて、それなら明日の母の日のプレゼントだって気持ちよく渡せるんじゃないか。今日の誤解だって解ける……ハズだ。
(…………でも……)
――けれど、それで勉強出来るのか? 出来る訳が無いことは、自分自身が一番よく知っていた。
もはや取り返しがつかなかった。
ただ不安と重圧に追い掛けられるだけで、しかし正攻法の「勉強をする事」すら道は無くなってしまった。今更勉強した所でもう満足する大学にはいけない。最後に自分自身で道を閉ざしてしまったのだ。
「…………どうすりゃいいんだよ……」
もうわからない。どうすればいいのかわからない。どうしようもない。
誰かたすけて。俺をたすけて。
現状を打開する策よりも前に、自分の心を助けてほしかった。
感情を吐き出したかった。聞いて欲しかった。寄り添って、慰めて、いつも頑張ってるねって言って欲しかった。
たった一言でいい。ほんの少しでいいから、頑張った自分を認めてくれて、そしたらもう少しだけ頑張れたと思うんだ。
「……っ」
沈みゆく太陽の横で、ひとり、泣いていた。
今にも死んでしまいそうなほど弱々しく、けれど外から見ても分からないように、片手で顔を覆い隠しながら。そんな彼を、まるで可哀想に思った神様の仕業なんじゃないかと思えてしまう程にやわらかく、太陽がそうっと照らし、慰めるように暖かな光が優しく包み込んでくれた。
しばらく泣いて、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
ほんのりと赤く染まったくしゃくしゃの瞳を擦り、ゆっくりと目の前の景色を眺める。
「ぁ……」
それは、ビルとビルに遮られた狭い隙間、溢れるように広がる、秋愁漂う淡い緋色の空。長く横に走らせた鈍色の雲の下方は金箔を織り交ぜたような朱色に輝いており、沈みかけた太陽の光は、まるで街ゆく人々を送り出しているかのようだった。
逆光で暗くなった建物と相反するように塗り込められた緋色の空は、しかしよくある普通の都会の夕焼けで、特別取り立てて美しい訳でもなかったが、何だか今は酷く秋の心を揺さぶった。
吸い込まれそうなまでに、美しい。
今までの努力、抱え込んでいた重圧、沢山の後悔。心に溜めて溜めて溜めてきた感情が夕焼けに吸い込まれ、染み込んで、ただ、このままずっと眺めていたかった。
心が夕焼けに囚われる。眺め、入り込み、しかし不意に、チープで荒い音源の曲が公園のスピーカーから流れ始めた事に気が付いて、ほんのちょっとだけ現実に戻る。
気が付いてみればもう六時。『夕焼け小焼け』の音楽は、街ゆく子供たちが帰る時間。昼と夜の境目を知らせる音楽。……まるで、あの夏の日みたいだ。
スーパーの袋を持ちながら小さな子供と手を繋ぐあの親子は、これから家に帰るのだろうか。
あの交差点を渡るサラリーマンは、家に大切な人が待っていてくれているのだろうか。
――ふらり、とベンチから腰を上げる。
建ち並ぶ四角い住宅や、走り連ねる車の騒音。たちまち響くカラスの鳴き声と夕焼け小焼けの音楽が重なり合い、何だか懐かしいような、哀しいような、遙か昔を思い出すかのような憂愁を感じさせ、彼の心に沁み渡った。
「……っ」
ふと、眩しさに手を顔の前に持っていって影を作り、温もりを当てられた手の奥側から先を望む。
落ちてゆく太陽。黄金に輝くその光がビルの間にチラついて、とても眩しい。
太陽が、落ちてゆく。
落ちてゆく。
おちる。
――もうすぐ、街が眠る。
そろそろ終局を迎える夕焼け小焼け。落ちきる太陽と共に、終わりを告げ、ふと、彼は呟いた。
「かえらなきゃ」
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その日の夜、彼の両親は、秋の部屋に隠されていた綺麗な包装の施された母の日のプレゼントを見付けて、酷く後悔する事になる。
帰ってきたら、謝らなければならない。謝って、ちゃんとお礼をしなければならない。
――けれど、その時が訪れる事は無かった。
後日、竹内 秋は行方不明になった。