第10話 感情の慟哭 ★
体中に紅色の稲妻が走る。
全身の細胞から体を構成する分子まで全てを駆ける。頭蓋に太い杭で抉られたかのような頭痛――誰かのキオク、忘れてはいけないナニカ――中にナニカを見出す。
『自分――……も知、……――――と生きて――……が分か、……? 記憶、い……――――苦し……俺達の――……が……る?! た――…………クセ……、――――のマ……気、んだ――……、……モ、キ……――――れ野、……!』
『俺の、――の……い……――、んな死……――。――……が、俺……――、殺――――だ』
『そうだ……、お前――――間……んか――……! 俺と、……たち――同、――内――……模――……ん……』
ノイズのかかった言葉と情景が断片的に映り込む。
――化物……死体……自分の顔…………
ノイズの奥底のその声は、雑音が強すぎて全く聞き取れないのに、それは酷く、惨く、残酷なまでに感情を増幅させ、揺さぶった。
「――ッッア゛ア゛あぁ嗚呼ぁ゛ア゛嗚アア゛アアぁああ!!」
突如アキを中心にして、ぶわり――と、ナニカのエネルギーが暴発し、大気を捩じ伏せる。
地面の紅色の液体が不自然に揺れる。 ……そう、不思議とやり方は分かっていた。
――グにゃり。
どこかで見た事のあるような光景だった。
豚を中心として、重量に悖る動きで紅い液体を分離させると、次々と歪な刃物を形成させる。
それは、呼吸や言葉を発したりするのと同じように。まるで、ずっとずっと以前から体の機能として備わっていたモノを、やっと思い出したかのような感覚で。
「――ッあアア゛!!」
特に意味の持たない叫喚。同時に、刃が豚へ吸い込まれていくよう、残光を残しながら発射される。
【プぎっ――?!】
ぶつかった先から粉々に砕け、埃が舞う。……当たった箇所に少し怪我を負わせただけで、ダメージを与えられた様子はない。
だが、かなりの混乱は与えられたようで、混乱から憤怒へ表情を急変させた豚は、ガッシリと鉤爪を構え直した触手をアキに突進させる。
「――ッわァ゛ァアアア!!」
それも、魔紅力で壁を形成させて守る。すぐに触手と壁は衝突し、壁は割れてしまうが、攻撃は避けられた。
再び、刃物を形成させて豚に飛ばすアキ。ソレによってブチブチと繊維は分断されてゆき、本来の岩壁の姿が覗き始める。
【……ブ、ぎ……ッ】
千切られた繊維の奥の一部の壁が雪崩を起こすようにガラガラと崩れ落ちる。
唯でさえ脆い洞窟――恐らく豚が隠していたのであろう、地上へ続く通路が顕になる。
がむしゃらに残光が飛び交い、空間が揺さぶられるが、もはやアキの意識など存在しない。
体を奥底から突き上げる動悸。流れる涙、狂った叫び、ただ激情のままに紅色を放つ。
【ギ、ぎぇッ……】
しかし、アキのソレはかなり脆かった。
豚にダメージを与えても、致命傷を与えるまでには至らない。苦しそうに唸った豚は、空中からのアキの猛攻を弾き返すと、数少ない、未だ千切れていない触手を全て束ねてアキに振り上げる。
「ゥ、あぁア゛ア!!」
迫る。せまる。
応戦を続けるも、一切通じない。
無駄。そう、全ての攻撃が無駄だと悟った……瞬間。ふと、感情の渦から恐怖が呼び起こされる。
そう、絶対に避けられない。避けられない。
死んでしまう。
「――――ぁ」
今までの叫喚が嘘かのように、声が出なかった。
紅色の猛攻が止む。
怖い
怖い、恐い
それだけが脳内を占める。
触手はもうすぐ眼前。
再び紅色を操って防ごうとするが……出来なかった。――やり方が分からなくなっていた。
鉤爪が狂気的に光る。顔を写し込む。目が合う。
――もう、ダメだ。
そう考える暇もなく、ただ瞬発的に、目を瞑ろうとした……
「オプスクーリタース・クリュスタッルス」
時だった。
淡々とした口調。来ない衝撃。疑問に目を開ける――それは、黒い六角柱の結晶と銀色だった。
銀色――具体的には、銀色の燐光を放つ黒色の魔法陣は、まるで線角構造式で書かれた化学式のような、多角形の立体構造で、それがさらに何重にも重なっていた。
そしてその中心を貫通する黒い六角柱は、まるで見惚れる程に整然とした形であり、豚のうなじ辺りから足まで全てを貫いていた。
豚の後ろ側、術者は少しだけ俯いたまま、伸ばした左手のひらを閉じる。すると六角柱が突然、全ての側面から無数の針を外側へ突き出したような形に変形し、豚を内側から串刺しにしてぐるりと回転。
【ぷギ……ッ】
血肉が飛び散り、一部がアキの顔にも飛散した。
飛散した肉片から流れるように目を動かし、バラバラになったその死体をアキはやがて理解し、先程とは別の感情に震える。
「君は……」
ギュルりと黒い魔法が収縮するかのように消え去り、やっと静寂がもたらされた空間にユリセアの呟きが反響する。
……ユリセアが逃げた先の通路にも、アキの叫び声や戦闘音は響いていた。
彼女の動機は単なる好奇心。それ程までの戦闘音を聞いて心当たりがあるとすれば、あからさまにおかしいレベルの耐性を持つアキについてだった。もしも予想が当たっているのならば……と戻って来た結果、大正解である。
彼を助けた事は、猫耳の最大の功績だっただろう。頭の眩みも思考も元に戻った。複雑な魔法も使える。
彼に自覚があるのか分からないが、これはお釣りが出る程の収穫かもしれない。彼のような人間には滅多に出会えない。ここで死なせてなるものか。――彼には利用価値がある。
「……」
豚の死骸を躊躇いもせず踏み越える。目を髪の影に隠したまま、片方の口端を釣り上げ不吉な笑みを浮かべるが、アキはそれには気が付かない。
何かがプッツリと切れてしまった。
アレンが死んだ、ケイシーが死んだ。殺したアイツは――あんなにぐっちゃぐちゃのバラバラだ。
「……なあ、記憶喪失」
話を振ったユリセア。俯いた顔をゆっくりと上げる。その瞳は、元のピンク色ではない――銀色の瞳をしていた。
それも、普通の銀じゃない。虹彩の奥に散る魔力光、宝石のように美しいがどこか不気味で、僅かに光を放つ銀色だった。
「ガ――――ァッ!」
その銀色の色彩が、網膜に届いた瞬間。幾度も感じた頭痛が彼を襲う。
思考が鋭利に研ぎ澄まされ、彼女の銀色の瞳に吸い込まれてゆく。
銀色、銀色、銀色
歪む平衡感覚、捻じ曲がる意識。
ノイズのかかる意識。奥に流れる、酷く捉えづらい映像。
――それは、赤い液体に浸された肌、血で染められた乱れた髪、見開かれ宝石の如く硬直した銀色の瞳。
「――――ァッ?!」
その光景を切欠に、どっとノイズの映像の嵐が彼に襲い掛かる。
血肉よりも深い紅色に支配されてしまった世界。まるで、死んでしまった世界。
『知らない――いや、知っているハズだ、俺は。見ていたハズだ、この光景を』
感じるのは、全身が引き裂かれ掻き混ぜられたかのような痛み。
見えるのは、自身を中心に広がる赤黒い池と、すぐ先すらも見えない、大気を呑み込む紅色の霧。
……そして、その先に揺れる“誰か”の影。
『違う、知っているなんてものじゃない。これは呪いだ。俺の、人生の全てだ』
頭痛の奥底、再び見出したナニカ。
それは自分の記憶、忘れてはいけない物。最初にも見た夢……言葉……記憶の波が、出来事が、世界から消されたあの現実が、あの日々が、堰を切ったように雪崩込む。
どうして俺は、此処にいるのか。
どうして俺は、魔紅力を操れたのか。
どうして俺は、異世界の言葉を話せるのか。
そう、答えは全て一つ。
思い出した。思い出してしまった。
……思い出したくなかった、あの真実を思い出した。思い出さなければならなかった。
伝えないと。目の前のユリセアに伝えないと。
アイツらに出会うのはまだまだ先だ。アイツらに出会ってはいけない。行動を共にしてはいけない。出会う前に伝えなければならない。
「ユリセア! 俺は――――」
《キィ――――――ン》
耳鳴り。
あまりの酷さに、頭を抱えて蹲る。
「――ア゛ぁ、……ァ、イア゛ア゛ぁあア嗚呼ァ゛あ゛あ゛おぁああぉ嗚呼嗚呼!!!!」
痛い、痛い、耳が、頭が、思考が記憶がガンガンと耳鳴りに侵食され、体中を蹂躙する。
呼吸なんて出来ない。痛くて痛くて、あまりの頭痛に、叫んで叫んで泣き喚く。
ギシギシと意識が軋みを上げ、そして、折れる。耳鳴りにノイズが走る――
《思い出して! 忘れないでっ!!》
――――ぁ。
ノイズの奥底、『思い出して!!』確かに聞こえた。……聞こえた、気がした。
……いや、そんなわけない。聞こえていない。聞こえて……ん? なんの事だ?
――いけない、ぼうっとしていた。早く伝えなきゃ。伝えなきゃ。ユリセアに伝えなきゃ。
あの事を、つたえ……
…………
……うん?
…………なにを? …………あれっ……
……なにかんがえてたんだっけ
「…………」
それはまるで、電源のコードが切れてしまったコンピュータの如く、叫び声も、頭痛も、突き刺す耳鳴りも、何もかもがプツリと無くなった。
――覚えて、いないのだ。
ついさっきまでの頭痛の事。その中身の事。――何かを思い出したという、事実さえも。
全て、全て忘れてしまった。
もう、彼は、夢の中身を思い出す事はないだろう。
――電源の抜かれたコンピュータに、ふと明かりが灯る。ソレは、ふらリとゾンビの如く不安定に立ち上がり、ただ呆然と景色を眺める。
彼にあるのは、暴れた時の激情の残滓のみ。
コロコロと豹変するアキの様子に、半眼に閉じた瞳で見ていたユリセアの横を通り過ぎ、ただ一点――地上へ続く急斜面の通路へ歩みを進める。
――帰らなきゃ。
ただ、それだけの想いだった。
記憶が混濁しているのも、ユリセアの事も、今だけはどうでも良いとさえ思えた。
――帰りらなきゃ。
――――かえらなきや。
留まることの無い涙が頬を伝う。
帰り、たい。
「ㇸ……あ…………」
これ以上傷つかない為の、最後の防衛本能でもあったのかもしれない。最初に壊れ、塗り重ねても壊れ、最後に自分で壊した絶望の器は、彼の妄想と現実を混濁させる。
そう――ここを出れば、そこはにっぽん。
建ち並ぶ四角い住宅。ビルから望む赤い夕焼け。
自動車の騒音に紛れて聞こえるのは、最近はほとんど見かけない『通りゃんせ』の音楽。
いい加減俺も、腰を上げないといけない。あの夕焼けに足を進めなければならない。
こんな夢なんか見てないで、こんなクソみたいな世界の幻想なんかみてないで、早く家に帰らなきゃいけない。
家に帰る為、両親に会う為。
地面の急斜面をもろともせずに歩く。
「……あ」
ふと大気に感じる心地良さ。
――あたたかい。
ふわりと迷い込んだ風の温もりを感じる。妄想ではない、現実だ。
もう出口が近い。また数歩踏み出すと岩陰から光が差し込んだ。不安定な希望。光の筋を追うように、駆けて、駆けて、
溢れ出る光。広がる景色。そこは――
夕焼け、だった。
「ぁ…………」
透き通るような蒼色の空と深い憂愁を秘めた緋色のグラデーションに金色を織り交ぜた空。朱色から濃い赤色までを綿に染み込ませてキャンパスに叩きつけたかのように散らばる雲と、隙間から溢れて漏れ出す金色の暖かい光。
まるで、世界が終わってしまうと思える程に、美しかった。
「ヘ、ㇵは…………」
だけど、望んでいたモノはここにはなかった。
分かってたはずだ、ここは異世界だ。
そう、俺は、――――帰れない。
「ふ、ふㇵ、ハハ……」
夕焼けがあまりにも綺麗で、ジーンと心に染み込み、様々な感情を揺さぶられる。
――ふいに、あの日の夕焼けと重ねる。
吸い込まれそうなまでに、美しい。
今までの苦労、押さえ込んでいた恐怖、莫大な疲労。溢れ出して垂れ流しの感情の濁流が夕焼けに吸い込まれる。
「うは、ははっ、ㇶ、はㇸ――ッ、はははは!!」
――だけど、自分が見たかった風景はこれじゃないんだ。
無機質なビル群と、車の走る騒音。人工物で囲まれた生活空間を歩く人々の幻想。
理性では分かっているのに。分かっているのに、狂った脳みそはあの世界を望む。
日本に帰りたかった。
自分の家にかえりたかった。
――そう、俺が、
――――俺が、見たかったのは……
ドサり。