淡いピンク色の作家・前編
ついに、あの人物登場!
「先生、起きてくださいよー。」
男がユッサユサと体を揺らし、柔らかなソファーで寝ていた少女を起こそうとしていた。が、男の甲斐甲斐しい介護も無駄かのように少女は熟睡の大海原を漕いでいた。
「.....頼むから起きてくださいよ....。」
ユッサユッサと左右に大きく揺らす。揺らされるたびに、少女の頭が右往左往と揺れ動く。
「.....、」
ぶんぶん頭を揺らすが、起きる気配はない。男ははぁ、と仕方ないようにため息をつき咳払いをし、スーッと息を吸い言葉を放った。
「イチゴタルト焼けましたよ、先生。」
「本当か!?」
刹那、少し低く可愛いアルトボイスが聞こえた。
瞬間、爆睡していた少女が立ち上がり。男に縋るかのようにそこにいた。着物の裾がはためく。
全く、見えなかった。ノーモーションで立ち上がったのかと思える程の早さで少女は男に期待を込めたキラキラした目を向けていた。男はあまりの速さに思わず片眉をあげた。
「....起きましたね?先生。さ、仕事しに行きますよ。」
男はやっとか、という視線でくるりと少女に背を向けた。
「おい、騙したな?」
不貞腐れるように、おもちゃを買ってもらえなかった子供の拗ねたように、少女は可愛らしい抗議をした。ぽこぽこと、男のがっしりとした背中をポンポン殴る、と言うか叩く。
「先生が起きないのが悪いでしょう!?後で買ってあげますから....。」
子供を宥めるように落ち着かせるようにする男。
「さっさんのがいいよー。作ってよー」
さっさんと呼ばれる男は無茶言わんでください、と涙目で抗議をしていた。ふと、叩かれながら時計を確認し、絶叫とともに少女を誘導した。
「あー、もう!とにかく、行きますよ!」
未だ抗議する少女を無理矢理家から連れ出し、今日の仕事場へ向かった。
「いーちーごーたーるーとぉぉぉ!」
懇願する叫びは、車内にコンサート会場のスタート時並の音量で響いた。
とある一室にて、頬を膨らませ、あからさまな不機嫌さを醸し出す少女。
「.....、先生。仕事してください。」
「腕疲れる。」
「わかりますけど、頑張ってくださいよ....。」
仕事やりたくない理由が子供であった。
「頑張れ!?こっちは連日利き腕を腱鞘炎寸前になるまでやってるのに終わらないってどういう事よ!?さっさんも手伝ってよー」
と、懇願するかのようにお願いをしだす少女。最初、着物の袖で分からなかったが腕をめくった際に利き腕らしい右腕に包帯が巻かれていた。「先生にしか出来ないじゃないですか!私に頼んでも無意味ですって!?」とさっさんは反論する。
ぎゃーぎゃーと論争する二人、それを傍から見ていた担当者はこめかみに青筋をぴきぴきとたてる。
「あんたら、喧嘩する暇あんならさっさとやれよ!?」
論争がとまらなくなった事についにブチ切れたのか、担当者が怒り叫んだ。
「「あ、はい。」」
その瞬間、二人の驚愕の表情と言葉が見事一致した。
「えぇ、マイクテスマイクテス。それでは、只今より臥煙宗先生によるサイン会を開始します。整理券を配布しておりますので、そちらを持って来てください。まだ貰ってない人はスタッフにお声かけを―」
東京、新宿のとある大型本屋。一階の一角に新書コーナーがある。サイン会はそこで行われていた。
会場には大々的に、表紙看板にこう書かれていた。
「臥煙先生、新書サイン会」
開始号令がアナウンスで流れたと同時、待ってましたと言わんばかりに会場周辺にいた客が一斉に集まってきた。ざっと見だけで結構いる。3、40程か。いやもっとか。
「.....湿布と髪留め持ってきて。」
やれやれと、裏の控室から出てきて会場に設置されたイスに座り、テーブルに片肘をついた少女―臥煙宗がさっさんに小声で言った、
「もう用意してありますよ。」
そっと、物陰から手渡す。臥煙はノーマークで頼んだものを受け取り右手を机の下にやり見えないようにして、巻いていた包帯を外し、湿布を痛い場所にめがけ貼り、再度グルグルと包帯を巻き直す。直し終わり、グイグイと手を回したり動かす。どうにか痛みは軽減されたか。もう一つ、頼んでおいた髪留めは結構長くなった後ろ髪を留めるためのものであった。ボブカットである程度切りそろえているから束ねるのは容易ではない。横に流れていた髪と後ろ髪を全てまとめて結ぶ。横が若干無理がありそうになるとピン留めで留める。そこまでするか、先生よ。
「さて、始めますか。」
着物の懐から、一本のペンを出す。それは臥煙愛用品の万年筆であった。買ってヘタしたら数十年。もはや右腕というか相棒と化していた。
「いやぁ、朝からお疲れ様ですね。」
と整理券を持った客が新刊を出し、臥煙はその裏表紙にさらさらとサインを書く。
「先生こそお疲れ様です。ずっと応援してますよ。」
ありがとうございます、と礼儀正しくその客は去り次の客が舞い降りる。それの繰り返し。繰り返し。
サインを書いて、書いて、書く。ずっと書き、ファンと一言交わす。時々水を煽る。
「もう、結構捌いてるよね?」
開始から数時間。どれだけの整理券を配ったのか、客の列は途切れることが無かった。ごめん、途切れてくれね?と本気で臥煙は思った。
—本当、どれだけ座ったままでサインを書いたのだろうか。一旦ではあるが、長々とした客の列が途切れた。連続使用した万年筆にも疲労が溜まってたのか、掠れてきていたから丁度よかった。いや、これは単なるインク切れか。用意していたインク瓶を取り出し、柄からニブとコンバーターを引っ張り出しコンバーターのネジを下まで下げニブをインクに浸す。ゆっくりとコンバーターを回し、インクを抽出した。コンバーター内に並々と注がれた事を確認しインクだらけのニブを布で優しく拭き取り、柄に戻しキャップをしめる。
「....ふぅ。」
一作業を終え、緊張が解けた。息を吐き、一息つく。
「お疲れ様です、先生。」
さっさんが、いつの間に買ってきたのか手にあった缶コーヒーを片方手渡してきた。
「ありがと、さっさん。」
軽く礼を言い臥煙は渡された方を受け取り、開栓。中身を煽る。ちなみに、買ってきたのはブラックと微糖。臥煙に渡ったのは微糖の方であった。
ほんのり甘く感じるコーヒーに心地よさを覚えながら再度息を吐く。
「一旦お昼休憩にしましょう。」
余韻に浸ってた時、イベント担当者がお疲れ様です、と一礼して話しかけていた。
「およ、一旦ってことは午後からもあるのかにゃ?」
少し高いヒール靴を履いたままを足をぶらりぶらりとさせていた臥煙が疑問を投げかける。
「えぇ、その予定です。ですが先生、今度はそんな来ないと思うので大丈夫ですよ。」
さっさんが何かの資料を見つつ言う。
「.....なんか、凹むなぁ。」
物言いに不満だったのか、臥煙はむすっとした顔になる。
「まあまあ、とにかく。お昼食べましょ?......どこか出かけてもいいです?ここら周辺なので....」
と、さっさんが下手に出て担当者に確認と了承を取る。
「あぁ、構いませんよ。時間までに戻ってきてもらえば。」
と担当者は快く了承した。
「苺タルト〜♪」
それを聞いた途端、臥煙の機嫌が直ったのかむすっとした顔から華やかな笑みを浮かべはしゃいでいた。
「もう先生ったら......。じゃあ、しばらくいないんで。」
「わかりました。行ってらっしゃい。」
と担当者に見送られ、両者は会場を一旦離れた。先生、待ってくださいよ。とはしゃぐ臥煙を追いかけさっさんが走る。なんとなく、自由気ままな子供を追う親みたいな奇妙な光景であった。
後編、明日です。