最初は鍵で次は橋、そのうち鳥籠になって消えて現れて残るもの?
投稿時のタイトルは『愛の羽ばたく橋』
記念とか証とか、そういう類のモノだろう。
夕陽に染まる大運河はそれは見事な愛の色で、橋の欄干に思い思いに提げられた数千の南京錠も、錆など物ともしない濃い情熱の光を放っている。
錠前を飾れる場所は、この橋だけではない。
町には無数の水路が流れていて、表通りにも裏の路地にも、長短さまざまな橋が架けられている。なのに不思議とこのトラモント橋ばかりに、人々の慕情が寄せられるのだ。
そんな、赤の他人が残していった錠を。
「九百――…九十九……千」
リックは一つ一つ、開錠用の工具で外していた。
十八歳の働き盛りとはいえ、ペンチや鉄鋏を使うには数が多すぎる。細い二本の銀棒が、それに代わる道具だ。指で感じるままに、ただ力を抜いて探るだけでいい。
黒い鍵穴の奥、ピンの位置や数は。レバーの有無は。特殊ピックは必要だろうか?
が、思いのほか錠の中身は似通った構造ばかりで、外し始めたらチャキチャキと、同じ棒で摘み取るように開錠できた。
高く鳴く海鳥の声と共に大きく伸びをして、薄い蒼色の目に、細長い雲を映す。
もうすぐ日が暮れる。作業もきりをつけねば。潮と錆の匂いを吸いこみながら、リックは姿勢を戻した。
鍵穴へピックを一本入れれば、小さな金属の感触がすぐに指先に届く。それを確かめながら、シリンダーの回転を妨げるその粒を、一息に掻いて回す。
「コニック家の庭師さんが、橋の上で何してるのかしらー?」
胸をくすぐる愛らしい声がしたけれど、今は振り返る時間さえ惜しい。
橋に繋がる路地の前には〝設備点検中〟の看板を立てている。
いつまでも通行止めにしておくわけにはいかず、けれどもその看板を無視して入ってきた彼女は、コツンと靴音を鳴らしてリックのすぐ後ろに立った。
「ねぇ、リックってば」
「観光客が付けた錠の撤去です。庭仕事に支障がないなら、俺が外していいって、旦那様が。木造りの古い橋なので、もうすぐ改修工事があるそうで」
「もう終わる?」
「今日は、たぶん……」
端から始めてかれこれ四時間。残りの錠はざっと見百個なので、あと三十分もあれば。
「……反対側は、明日もですが」
トラモント橋は、観光客用に設けた記念碑ではない。大運河の近くで、眺めの良い場所ではあるけれど、幅は人が四人並べるかどうかのごく小さな橋だ。長さは十メートルもなく、外した錠を運ぶための荷車も入口の前に置いてきた。そして欄干は、左右両側にある。
昼過ぎまでは、リックは伯爵邸で庭仕事をしていた。
庭師のほか、設計士である父親が家業の造園を終えて屋敷に戻ってきたので、彼と入れ替わりでこの橋に来た。それからひたすら錠の撤去だ。
『改修後の、トラモント橋の設計を任されたそうだな』
父は言った。お前には身に余る栄誉だと。
『あれはこの町の顔だ。歩行用に架けられただけなのに、皆あの橋に想いを馳せる』
――至極普通だ。だが特別だ。依頼主の期待を超える仕事をしなさい。
出がけに言われた言葉が頭を巡っている。
しかし幼い頃から造園や設計に触れてきたとはいえ、リックはまだ、どちらも見習いだ。庭の図案に口を挟んだことはあれど、あくまでも提案のみ。
こんな半人前を指名するなんて、正直依頼主の気がしれない。まだ会ったことはないが、とんだ物好きだと思う。けれども身を寄せているコニック伯爵の知人だというのだから、断るわけにもいかない。
「リック? ねぇ、まだかかるの?」
「いいえ。あとは、ここに残ってる分だけです」
そしてコニック伯の厚意で錠の撤去も任せてもらえたが、この橋のどこにそんな魅力があるのかさっぱり分からなかった。
同じ型の橋なら町中にいくつもある。期待を超えるもなにも、この橋で皆が満足しているのなら、形を変えずに補強をするだけが良いと思う。
悩みながら座る背中に、グッと細い体がのしかかった。
大した重みはなく、柔らかで、頭に乗せられた肘も花の茎のように頼りない。
「手伝ってあげる」
「いりません」
「はーい、もう一個とーれた」
けれども得意げに錠を差し出され、リックはあからさまに眉をしかめた。
「……腹立つ」
「なにが?」
「遊び半分で、仕事を取らないで頂けますか」
「あはっ、ごめんね。だからリックも、ふつうにお話して下さいますか?」
敬語はイヤと、彼女は小鳥のような声で甘えてくる。振り向くと、悪戯っぽく笑うエメラルド色の瞳と目が合った。
腰まで伸びた白色金の髪は、今は運河と同じ夕陽の色に染まっている。それでも頬は、林檎の花びらのようにふうわりと白い。
パズル遊びの延長で教えた簡易的な鍵の開け方を、このお嬢様は勝手に極めて、すっかり自分の物にしてしまった。
開錠に使った道具は、髪に挿していた赤薔薇のピンだ。昔の自分にそれは教えるなと言いたい気持ちになりながら、無邪気な笑みに力を抜かれて、リックは小さくため息をついた。
「まぁ……キミらしいと言えばらしいけど」
「リックも相変わらずというか、こんなに沢山よく一人でやるわね。鉄鋏で切った方が早いんじゃない?」
「こんな何百個も切ってたら、手がバカになるって」
「ごくろうさま。この橋、壊しちゃうの?」
「補強するだけだよ。市当局の監査で、材木の古さが群を抜いてたって」
「わたし好きなんだけどなぁ、ここ」
「メリアは、何しに来たの」
尋ねると、彼女は腕を触れ合わせるようにリックのすぐ横に座った。
足首丈のオリーブ色のワンピースは、名門と名高い女学院の制服。しかし学院帰りというには時間が遅い。迎えの馬車が表通りに控えているとしても、護衛も侍女も見当たらないのはおかしい。
汚れも構わず地面に座ったり、立ち入り禁止の区域に入ったり、令嬢らしくないのはいつもの事だけれど、それでも普段とは何かが違う。
「学院から帰ったら、お父さまが家にいたの」
メリアの父親のコニック伯爵。彼は朝も晩もメリアメリアと、蜂蜜よりも甘い声で娘の名ばかり口ずさんでいる。昼間は庁舎での仕事が忙しいらしく、メリアの帰宅時間に邸にいることはめったにない。
特に昨今は、領土の再開発もあって朝も早い日が続いていた。
「お父さまね、今日の十月会議にはグランシア公爵がいらっしゃるからって、朝からすっごい緊張してたのよ。だからそんな時間に家にいるなんて、本当に体を壊して帰ってきたのかしらって、わたしとても心配になって」
「うん」
リックは工具を鞄にしまった。座り直して、じっとメリアの言葉に耳をかたむける。
「大丈夫? って聞いたら、いきなり抱きついてきたの。まぁーそれはいつものことなんだけどそうじゃなくて、『具合はいい、幸先もいい、運命の女神はきみの味方だメリア』『メリアセーイ、イルミオ、アンジェロー!』って」
「よかったね、お元気で」
「それは、ええ。ただその、わたしの婚約が決まったって」
……あぁ。あぁ、と納得した。
正面の大運河では、夕陽が水平線の向こうに沈んだ。
そろそろ錠をまとめて、帰り支度をしなければ。
「グランシア公爵のご子息と?」
「そう」
「おめでとう」
このお嬢様も、早くつれて帰らなければ。
婚約が嫌だとつい飛びだしてきてしまったのなら、二人きりでのんびりしているわけにはいかない。
幼馴染でも、親同士の仲が良くても、彼女とは住む世界が違うのだから。
「『おめでとう』じゃないでしょー。それより、どうやって断ればいいと思う?」
「いや、旦那様が喜んでるなら良縁なんだろ。知らないけど議会の偉い人なんだってのはわかるし、断るって発想のほうがおかしいよ」
「でも! わたしが好きなのは……っ」
言われる前に、手で口をふさぐ。細い肩を引き寄せながら。
けれどもすぐに放して、リックは立ち上がった。
落としたままの錠を一つずつ、持ってきた木箱に投げて入れて、蓋をして。
「……帰りましょうか」
「わかってるんじゃない。両想いなのよ。だから逃げましょうよ、いっしょに」
「やめましょうね、非現実的なお話は。俺はお嬢さんの家の庭番で、鍵番で、すごーく普通の庶民なんです」
「昔は閉じこめてくれたじゃない。ねぇ、ああいうのがいいの。わたしはリックどドキドキできれば、それで幸せなのよ」
木箱を持ち上げるこちらを見て、彼女は横から手を伸ばしかけた。だから咄嗟に、リックは体をそらす。
「俺がよくないんです」
「ふぅん。でもわたしはもう、お父さまに言っちゃったから」
「え、は? なにを!」
普通に聞き返してしまい、しまったと唇を噛む。素で話したら駄目だ、調子に呑まれる。
一方、メリアは嬉しそうにひと笑みすると、くるりと身をひるがえして橋の前の荷車に駆け寄った。が、彼女にそんなものを運ばせるわけにはいかない。
ずっしりと重い木箱を抱えたまま、結局リックも追いかけて、その取っ手を奪った。
「お嬢さんっ」
「『わたしが好きなのはリックよ』って言ったわ。結婚したいのも彼で、お父さまが許してくれないならわたしは帰らないから、って出てきたの」
その言葉に(帰りたくない……!)とリックはうなだれた。
どんな顔を見せれば良いのだ。世話になっているコニック伯に、彼のもとで働く両親に。
たしかに昔の自分たちは子どもで、感情のままに好き合った。広い庭や、時には屋敷の外で、のびのびと自由に遊んだ。彼女がこんな風にお転婆になってしまったのも、大半は自分のせいだとリックは思っている。
「お嬢さん、それでもやっぱり帰りますよ。俺もちゃんと、旦那様と話すから」
「話して解決することじゃないもの。最後にはわたしが押しきられて……グランシア公爵夫人に、なるんでしょう?」
ここで拗ねないのがずるいと思う。寂しそうな顔で、諦めたように聞かないでほしい。
メリアは愛されている。コニック伯にも使用人にも、友人にも市民にも、とりまく全ての者たちに。長くそばにいたのがリックというだけで、もっと大きな幸せを得られる選択肢が彼女にはいくつもある。
「大丈夫ですよ。旦那様は、いつもお嬢さんのことを考えてるじゃないですか」
「それなら、婚約なんてなかったことにしてくれるかしら」
「それはわかりませんが、とりあえず帰りましょう。よければ台車に乗りますか?」
「えっ」
「思いきり引いてあげますよ。馬車よりも」
早く、と言い終える前に、オリーブ色のスカートが翻った。勧めたのは自分だが、落ちつけと叱りたい。 資材か食材か、商人たちが物を運ぶための二輪車だ。十五歳になる伯爵令嬢が、腰の高さにあるその荷台に跳び乗るなんて。
彼女は汚れた木の縁に手をかけ、粗末な台の上から子猫のような目を向けてくる。
「転ばないでね、馬丁さん。あと気持ち悪いから、いい加減ふつうの話し方に戻ってね」
「……本当に走りますからね。馬車より揺れますよ」
「だーいじょうぶ! 鍵の箱も落ちないように抱えていてあげるわ」
さぁ出発と構える彼女に、リックは再度ため息をついた。
やはりそう、いつもこうなのだ。
メリアの心はとても忙しなく、興味も好意もくるくると変わる。
近しい相手を好きだというのも、きっと恋愛感情じゃない。もっと現実的に考えてほしい――……そんなことを考えながら、リックは荷車を持ち上げた。
引くのではなく押せるように、ゆっくりと向きを変える。
市内の地図は頭に入っている。
人目は気になるけれど、綺麗に整備された道を通ろう。
暗いでこぼこの道より、きっと、ずっといい。
■■■
水路と田園が青々と広がる、のどかなメデルバーク半島。
十一年ほど前だろうか。領主の娘が遊びに出たきり帰らなかった出来事は、平和な島の大事件として記者たちに取り沙汰された。
当時四歳だったメリア・コニック伯爵家令嬢は、崖下にあいた小さな水路の穴に閉じ込められていたという。仔牛大の入口は岩で塞がれ、洞窟のように起伏に富んだ穴の奥は、水に落ちれば溺死の可能性もある危険な場所だった。コニック嬢は丸二日間、角灯とバケツの魚を慰みに、その中で過ごしたのだ。
しかしそんな場所から令嬢が助け出された直後、閉じ込めていた張本人は、臆することなくにこやかに答えた。
「『好きだから閉じこめました。岩は鍵のかわりです』」
「――ッ、はい!?」
「おぉ、反応した。リカルド・ルイスだね? コニック伯に聞いて来たよ!」
夕暮れの、トラモント橋の上で。前日に続き、リックはもう一方の欄干の錠をごっそりと外していた。この橋の魅力を探りながら、新しい橋の構想にふけりながら。
それなのに、思いだしたくもない若気の至りを突然言われてしまい、工具を持ったまま慌てて声の主を探す。橋の上ではなく、真下の用水路の際を見下ろせば。
「こんにちは、リック。私はエディアス・エゼランヤードレッド・ディア・グランシア。メリアさんに夢中の、彼女の婚約者だ!」
ライトグレーの背広を纏う、自分と同い年くらいの青年が立っていた。銀のステッキを砂利に突いて、片手を腰に、飾り気のない笑顔で。
うわ、というのが正直な気持ちだ。
公爵子息が一人で来た?
(や……橋の下の影は公子の従者か? にしても、婚約が決まったのが昨日なんだよな。来るの早すぎだろ)
人の婚約者に近づくなという忠告か、はたまた厭味でも言われるのだろうか。しかしメリアの将来については、昨晩もコニック伯と話し合ったばかりだ。その時リックははっきりと、〝分不相応な望みは抱かない〟〝メリアの幸せの邪魔はしない〟と告げている。
メリア以外の親族間で、どこまで話が進んでいるのかは知らない。ただ一つ思うのは、これがコニック伯の考えた最良の選択ということだ。メリアとリックの仲の良さは、屋敷の誰もが知っている。それを承知で、親バカの伯爵が、娘に反発されることも覚悟の上でまとめた縁談なのだから。
「なぁリック、そちらへ行ってよいかな。立ち入り禁止とあったんだが」
「どうぞ。俺は作業を続けていていいですか」
「あぁ、もちろん! 仕事中に悪いな」
謝った!? と呆気に取られる。己の偏見ながら、少なくともリックは、初対面の貴公子に謝罪されるような立場ではない。
従者とともに橋の下へ消える金の髪が、小さな閃光のように瞼の裏に残った。
■■■
「えぇーっと、まずは仕事の邪魔をしてすまない。話すくらいの時間はあるか?」
――また謝った、しかも気を遣われた。
妙なムズ痒さを胸に抱いたまま、リックは「はい」と一言を返す。
橋の上にやって来たエディアスは、一見するとにこやかな好青年だ。色濃い金髪に明るいグリーンの目。笑っているので、背の高さに反して少しだけ幼くも見える。しかし笑顔だからこそ、内心がつかめない。
リックは軽く頭を下げた後、すぐに視線を手元の錠へ戻した。が、ガチッと鈍い音を感じて小さく顔を歪める。
「なぁ、いま失敗しただろ。やはり邪魔だったか」
「お気遣いなく」
「やー、実は先刻までコニック伯爵とお会いしていてねえ。話を聞いたら、居ても立ってもいられなくなってしまった」
「お嬢さんのこと、ですよね」
「あぁ。もともと私がメリアさんに一目惚れをして、ずっと気になっていたんだ。島の再開発も進んでいるし、顔を合わせる機会も増えたから、少し前にせまってみた」
「お嬢さんは、今頃はピアノの練習をされていますよ。お会いできましたか」
返事はなく、会話が途切れた。
その間にも手を動かす。錠を外す。外した錠は、隅の木箱へ投げ入れる。
「……君は庭番だとコニック伯に聞いているが。どうして鍵開けなんてできるんだ?」
「庭の設計や管理全般を任されているんです。後援はコニック伯ですが、市内にもお得意様がいて。防犯の面でも、たまに依頼がきます」
「なら、家の鍵を開けたりもできるのか」
手を止めて振り返ると、エディアスはただもの珍しそうな顔をしていた。欄干にもたれて首をかしげながら、リックの返事を待っている。
「……そうですね。門や倉庫までなら、うちでも視れますから。鍵を失くされたとか、錆びて開かなくなったとか」
「なぁ、私でもできるかな?」
――わたしもやりたい。おしえてよリック。
遊びの延長で教えてしまった開錠の方法。
彼女の人生には必要のないものだった。それはきっと、この人にも。
「貴方のようなかたが、なさる事ではありません」
「私がしたいと言っても?」
「すみません、仕事中ですので」
「んー。ならまた、ヒマな時に教えてくれ。ところでメリアさんは、きみのどのへんに夢中なんだろうね」
近付いて、じっと横から見つめられる。不快だけれど、引くに引けない。
「やはり顔かなぁ……しかし私は、男の美醜はわからない」
「顔はちがうと思いますよ」
「自信家だな。中身が肝心ってことか」
「そうわけでも、なくて」
エディアスは、何をしにここへ来たのだろう。第一声が十一年前のあの台詞だったので、そこからズバズバと、非難や厭味を言われるものとばかり思っていたのに。
「お嬢さんが好きなのは、俺ではありませんから」
「彼女を疑うのかい」
「いえ。お嬢さんは、ただ楽しいことがお好きなんです。ハラハラ、ドキドキすることが大好きなんだとか」
「たとえば?」
「海の向こうの国とか、前人未到の島とか。そういう自分の知らない物に心を惹かれているだけです。だから俺とも、恋とか……関係とか、そういうものはまったく無いんです。子どもの頃はよく一緒に遊びましたが、今は手を繋ぐこともありません」
リックは手を止め、ぼんやりと欄干の先を眺めた。
ずらりと並ぶ、色とりどりの錠前たち。掛けた人々は、それが永遠に残るものだと思ってそうしたのだろうか。
こんなに簡単に外れてしまうのに。
「良く言えば純粋なんです。きっといい奥方になられますよ」
「身分違いの恋のロマンスも、私は美しいと思うな。君はその気にはならないんだ」
「……生きもの全部が死滅して、世界にたった二人だけってなったら、少しはあるかも。だけど、それでもお嬢さんは、ロマンスより新種の生物探しを優先されると思います」
クッと笑われた。そうかもしれないねと。「見目も愛らしいが、私は彼女のはつらつとした姿が好きなのだ」「あんなご令嬢は初めて見た」と。
だからリックは思う。エディアスは、どれだけメリアのことを知っているのだろう。
「……貴方様は、お嬢さんとお出かけをされることもあるのですか」
「いいよエディアスで。まぁー、夜会で踊ったことはあるが、二人で出かけたことはないなあ。ただ島を視察していると、なぜだかあちこちで彼女を目にするんだ」
「あちこち……」
「心当たりはあるかな? 特によく見るのが、中央の市場、東の牧草地。しかも大抵彼女は目立っている。ご令嬢が猫を追いかけたり、牛の乳しぼりを手伝ったりするか?」
「猫?」
「屋台の魚を盗ったらしい。凄かったぞ、手すりを三か所ほど跳び越えて、あっという間に捕まえてしまった。猫よりも従者のほうが慌てていたな」
それは見たことがない。が、ありありと目に浮かんだ。長く一緒にいるのだ、見ていなくても大体の様子はわかる。
「十一年前」
きた、とリックは身構えた。伯爵が話したのか、当時の記事でも読んだのか。
「君は彼女にイタズラをしたらしいな」
「か……かくれんぼでの、悪ふざけ、でした。穴に入ったお嬢さんが、その場所を気に入って、出てこなくなったんです。そのうち俺が感情的になって、お嬢さんをそこに残して、そのまま」
入口を塞いだ。泣き声も聞こえた。
「……あの洞穴の反対側には、田園に水を流す細い管が通っているんです。そこから声をかけると、お嬢さんはまた上機嫌になって、ずっとここにいたいと」
そしてリック自身も、満足してしまった。これで良いと。
まっ暗な管から聞こえるメリアの声が無性に心地よくて、全身を縛り付けて。
「……すみませんでした」
「いいなぁ……あんな美少女を独り占めできたら、たしかに全てがどうでもよくなるね」
「犯罪ですよ。自分でも未だに理解できないんです。どうして許してもらえたのか」
「メリアさんがそう望んだからだろ。コニック伯も君たちの――君やお父上の作る庭を気に入っていたんじゃないかな。まぁ、改心したのなら深く考えることはないだろ」
と言われても、忘れられるわけがない。
悪いのはリックなのに、懸命に庇ってくれたメリア。一家心中覚悟の両親に、記者を治めようと奔走する弁護士。コニック伯の怒りについては、もはや言葉にするのも憚られる。本当ならすぐにでも領地から追い出したかったはずだ。それでも彼はリックの家族が心中することも、家業を畳むことも許さなかった。
「エディアス様は、今日はどのようなご用件で、こちらに」
「岩はどこから運んだんだ」
「岩?」
わけがわからずに振り返る。エディアスも座っていた。金の髪は眩く、グリーンの目は澄んでいて、知らず詰めていた呼吸がふっと楽になる。
「穴をふさいだ岩だ。結構な大きさだったと思うが、記事に詳細はなかった」
「あぁ……〝軽石〟です」
リックは説明した。水に浮かぶ岩石があることを。マグマが凝り固まってできたその石は、中身が珊瑚のように隙間だらけのため気泡を多く含んでいる。
大きな岩でも簡単に水に浮き、保水性が高いことから園芸でも多く使われていた。
「水路にいれて岩を流して、穴を塞いだ後に排水用のレバーを下ろせば、水も大運河に押し出されます。レバーは鍵の付いた鉄箱で管理されていますが、俺には無意味ですから」
「……それをやったのか。子ども時代のきみが、ひとりで?」
「はい」
「は…………。あッ、ハ、アッハハハハハ! は、フフフフッ」
耳が痛い。こういう笑い声には聞き覚えがあった。あの時のコニック伯だ。メリアを助けて介抱した後、彼は怒り、叱り、リックを睨みながら事件のあらましを問い詰めた。だから軽石や水路の構造、当時の水位を含めてリックが途切れ途切れに説明を始めると、彼は――突然笑い始めたのだ。狂ったように。
自分のせいでおかしくなったと、リックは恐ろしさから、全速力で伯爵邸を飛び出したのを覚えている。
走って、走って、無我夢中で引かれるようにたどり着いたのが……。
(あれ?)
赤く染まる大運河。この橋だ。黄昏の橋。
なぜこんな凡庸な橋に、あの頃の自分は縋ってしまったのだろう。
「あー……ハハっ、楽しかった! 話せてよかったよ、リック!」
言葉が出ない。エディアスは確かにすっきりとした表情をしているけれど、リックにはモヤモヤとした痛みしか残らなかった。話したというか一方的に懺悔をして、また一方的に笑われただけだ。
「まだわからないが、君に頼んでよかったと思う。さすがは伯爵のお気に入りだな」
「は?」
わからないのはこちらだと、リックは眉根を寄せた。西日に向かう海鳥の声さえ、今は不愉快に感じる。
「最初は嫌がらせのつもりだったよ。だって悔しいだろう、自分の想い人に好きな相手がいるなんて。難しい仕事を押し付けて、適当に苦しんでくれればと思ったんだが」
いやらしく嗤い、彼は続けた。
完成を楽しみにしていると。
「君のイデアで、この橋を生まれ変わらせてやってくれ」
カチン、とようやく合点がいった。エディアスは婚約者として、また依頼主としてここへ来たのだ。半人前のリックに橋の図案を注文した、コニック伯爵の知人。
「……知りませんよ、どうなっても」
「君にも矜持はあるだろ。前衛的なのがいいな。歴史を踏み台にするんだから、安易な図案は却下だ。メリアさんが大喜びで私の手を引いてくれるような、愛の高まる橋を頼む」
ねえよそんな橋。思わず心で毒吐いてしまうが、一応、悔しさはやる気に変わった。もう早々に錠を取り除いて、作図に取り掛かるしかない。
リックは考え、描き続けた。
――トラモント橋は残す。ただし全体像は一新する。まっすぐ一本にする必要はない。
いっそ橋である必要もない。水路を渡れて、大運河を望めれば良いのだ。ここに来る人は夕焼けが好きだから、ぐるりと見渡せるようにしよう。透明な屋根も付けよう。
いつでも自由に、人の心に届いてほしいと思う。
気掛かりなのは、予算内に収められるかどうかだ。
■■■
出来上がった四通りの図案は、コニック伯を通じて依頼主のもとへ届けられた。十二月の半ば、リックはその返答を受け取る。
――〝素晴らしいが、予算超過〟
あぁやっぱりと、書面を睨みながら使用人室の机に肘をつく。不意に、窓の向こうで怒ったような声がした。メリアだ。眺めると、正門に立つエディアスが、満面の笑みでスケート靴を彼女に掲げている。
メリアはスケートよりも、雪玉投げが好きだったと思う。しかしちょうど良かったと、リックは書類を手に立ちあがった。
エディアスにはぜひこれからも、彼女を想って通い続けてほしい。兄妹のような友人でもなく、恋人でもない。もっと特別な関係に、二人ならきっとなれる。そんな彼らのようにゆっくりと月日を重ね、完成した橋は――。
「――二千……七百、八! はー……」
カチ、と最後の鉄音が響く。錠を入れていた木箱は確かに空で、何とか間に合ったらしい。しかし一度外した錠を他人が付け直して、それでもとの持ち主は満足なのだろうか。
円い橋板を抜ける潮風を感じながら、リックは足もとの角灯を消した。
深い藍色と、赤色と、白色と。朝焼けをのせた大運河が、時を流すように穏やかに揺らめいている。
「終わり。メリア、いい加減……エディアス様が睨んでるよ。そこの水路のとこ」
「いいのよ気にしないで。それよりリック、ぜったい来てよ。ブーケはあなたに投げつけるって決めてるの」
「行くから。ちゃんと支度をしておいで」
その橋を見た観光客は、円棟のようだと言った。もしくは鳥籠だと。
ふいに本能で求めてしまうーー……羽を休めるための、ただの愛の拠り所なのだと。