第二話
聞き覚えのない声に、啓太は身震いした。今の気温は特別高いわけではないのに、啓太の首筋には汗が流れていた。
震えながらも啓太は後ろを振り返ったが、そこには何もない。ただ、闇が静かに揺れているだけだった。
「だ、誰……?」
ライトで照らしてみても、見えるのは割れた鏡に反射する光のみ。
「と、とりあえず、電話か何かで……」
啓太はスマートフォンで他の三人との連絡を取ろうとするが、
「な、なんで!? さっきまでは電波もあったのに!」
啓太が眺める画面には圏外の表示が映っており、連絡を取ることが不可能になっていた。意味がないことがわかっているにも関わらず啓太はスマートフォンの画面を連打する。しかし、やはり反応はない。
「まずは、ここから出ないと……」
啓太は自分の記憶を手繰りながら出口への道を歩いて行くが、途中で生じる違和感。
「ここってこんなに広かったっけ?」
自分の記憶と、ミラーハウスの大きさがどうにも噛み合わない。始めに入って歩いたときよりも、それはずっと大きく感じた。
それでも、まずは出口を探すことが優先だ。外に出てから、助けを呼ぶなり、連絡を取り直すなりすればいい。
そう思って歩き始めた瞬間だった。
「きゃああぁぁぁあああ!!」
女性の悲鳴がミラーハウスに響き渡った。この声の主に啓太は覚えがある。
「―――ッ! 瑞希か!?」
後ろ側から声が聞こえたので、啓太はそちらへ急ぎ足で進み始めた。
「どこだ……?」
ライトが無ければ何も見えないような暗闇で、さらに声が何重にも反響するため、大まかな方向しか判断できない。
しかし、啓太はその方向へ進み続ける。そして、進んだ先でライトに照らされた人影が啓太の視界に入ってくる。
後ろ姿で誰だかはわからない。しかし、啓太が見たのは何かに跨り、腕を振り上げて下ろすことをひたすらに続ける人影。
もう一つ見えたのは、その手が振り下ろしている先に倒れている瑞希だった。
それを見た瞬間に、啓太は人影へ走り出す。
「止めろぉ!」
啓太は勢いよく人影へ体当たりをした。突然の衝撃に、瑞希に跨る人影は横に吹き飛び、鈍い音と共に、壁へとぶつかる。
後先考えず体当たりをしたので、啓太もバランスを取れず倒れる。
「うっ………」
体をぶつけた衝撃で呻き声をあげる人影に啓太はライトを当ててその姿を照らし、声を張り上げる。
「誰だ!お前はッ!」
「……」
返事はない。しかし、その人影が誰だかを判断するのに、返事など必要なかった。
「しょ、う……ご?」
目の前で蹲っていたのは、紛れもなく彰吾だった。人違いかと疑ったが、間違いなどが介入する余地があり得ないほど、それは明らかに彰吾だった。
そして、その左手には血の滴る鏡の破片が握りしめられていた。
瑞希に跨り、振り下ろしていたのはこれだったのだろう。左手は真っ赤に染まっていた。
自分が灯りで照らされていることに気づいた彰吾は、目を細めて手で光を遮る。
そして、数秒も経たないうちに彰吾は立ち上がり走り出た。
「お、おい! 待て!」
突然の逃亡に、啓太は動揺しながらも追おうとする。しかし、一歩目を踏み出そうとした瞬間、足が止まる。
隙間風のような、窮屈で高い音が啓太の耳に入ってきた。
啓太は音の出る方向へと目を向ける。そして啓太は気づいた。それが隙間風なんかではなく、人の呼吸音だということに。
「大丈夫か!? 瑞希!」
啓太は瑞希の元へと近寄り、その容態を確認する。
「ぁぁ……ぅ……ぅ」
何かを話そうとしているが、全く言葉になっていない。否、言葉を話せない。
発言をするための瑞希の喉に大きな切り口が開いていたからだ。その傷口からは血が止めどなく溢れており、首元には血の池が出来上がっていた。
「の、喉が! クソ!」
瑞希の口から血が溢れ、呼吸をしようと口を開閉しているが、血液に邪魔されて息が通っていなかった。
口に溜まった血を何とか出せないかと、啓太は瑞希の頭の後ろに手を回し、ほんの少しだけ上体を持ち上げる。
体が小刻みに震えていた。寒気か、もしく絶命寸前の兆候なのか。
瑞希の視線は、遠くを見ていた。啓太が視線を胴体へと移すと、喉元以外にも深々とした刺し傷、切り傷が確認でき、その傷口は余すことなく瑞希の血液を外に出し続けていた。
「どうすればいい……どうすれば」
助けてあげたい。しかし、血を流した人間を救う術を、啓太は何も知らない。医療に関する知識など何も持ち合わせていないのだ。
瑞希は苦痛に表情を歪め、酸素を求める金魚のように口を開閉させる。
その口からも絶えず血が流れており、その血が啓太の手を赤く染めていく。
命が、溢れていく。確かに瑞希を抱き抱えているのに、それでもこの腕から漏れていく。
命というものは、一人の人間の手で拾い切るにはどうにも大きすぎた。
そして、上から吊るした紐が切れたかのように、啓太の腕にかかる重量が跳ね上がった。
「……ぇ?」
魂の重さは二十一グラム、と聞いたことがある。しかし、今の啓太にはそんな言葉は信じられなかった。
重い。重すぎる。たった二十一グラムの魂が、こんなにも人間というものを支えていたのかと、啓太は身を持って経験した。
命に重みがあるのではなく、『死』にこそ重みがあることを、啓太はこの時初めて体験した。
それを認識してからようやく、自分の腕に抱き抱える瑞希に『死』が覆いかぶさったことに、啓太は気がついた。
手に付いた血液。苦痛に歪み固まった表情。切り口から見える生々しい体の内側。力無く開いた双眸。
「う……うぇぇ」
死体の横で、啓太は吐きだした。
それは生々しさに吐き気を促されたことも確かに理由の一つではある。
さらに啓太を襲ったものは『死』というものが目の前にあるという感覚。自分の生の延長のその先に『死』を啓太は感じた。
自分の中にある生と目の前に抱きかかえている死が、互いに少しづつ溶け合う。そして、その命の波によって脳が揺さぶられたことによる酔いが、啓太を嘔吐へと導いた。
「はぁ……はぁ……」
胃の内容物が全て出切ってもなお、脳が啓太の体に嘔吐を強要してくる。
そして、ようやく嘔吐が止まる。
ゆっくり、息を吸う。ゆっくり、息を吐く。何度も、何度も繰り返す。
ようやく、脳が落ち着いてくる。啓太は開ききった瑞希の瞼をそっと下ろし、羽織っていた上着を被せる。
膝に手をつき、精一杯の力で立ち上がるが、まだ体から抜けていた。
壁に寄りかかり、啓太は歩き始める。
人が、恋しい。助けが、欲しい。
「誰か……。誰か……」
この胸の中で蠢き続ける虫を、吐き出せる相手が欲しい。この異常を、共有したい。
そう考えて、思考を巡らせ始めてから啓太はようやく思い出す。
「そうだ。彰吾……。なんで。なんで彰吾が」
この状況は、瑞希の死は、彰吾が起こしたものだ。それは、変わることのない真実だ。この目で明瞭に彰吾の顔が見えたのだから。
だが、わからない。
「ついさっきまでは仲良く話してたのに……。なんでこんなことに……」
恐怖に駆られて誤って殺したのか。それならば、なぜ何度も瑞希を刺し続けたのか。
歩いている途中で、啓太の視界が白く染まる。
「……光?」
今までライトの存在を忘れていた啓太は、急な視覚への衝撃に目を閉じる。
光に慣れてから、啓太はゆっくりと正面を見る。
「しょう……ご?」
そこにいたのは、彰吾だった。
「……啓太、なのか?」
心の底で、何かが煮え立つような、沸騰するような感覚に啓太は襲われた。
身体中に力が入る。拳を握る。魂が憤る。
「お前……なんで――」
なんで瑞希を、と言おうとした啓太の言葉に、彰吾が上からさらに言葉を被せてきた。
「まず、俺から質問させろ。啓太」
その目は、まるで友人の仇を見るかのように険しく、その声は、目の前の悪魔を刺し殺ろそうとするかのように鋭かった。
「―――なんで、瑞希を殺したんだ」
友達と会話をするにしては、いささか中途半端な距離が二人の間には空いていた。