ある侯爵令嬢の帰路
馬車に揺られ、流れていく景色を眺めながら、赤毛の少女が歌を口ずさむ。王都で流行った恋歌だが、歌っている本人はまるで遊び歌を歌っているような雰囲気だった。
けだるげな雰囲気に、三白眼ぎみの緑の眼。燃えるような赤毛に健康的に焼けた小麦色の肌。身にまとうのは、街娘たちが纏う、質素な生地のワンピース。その手は野良仕事や家事仕事で荒れ、腕にもいくつもの傷があった。彼女がこの辺りから遠く離れた場所に領地を持つ侯爵家の娘だと、だれが思うだろうか。
目の下にうっすらとくまを浮かべていても、その頬は血色がよく、機嫌がいいのか歌を口ずさみ続ける。彼女はバスケットからライ麦パンのサンドイッチを取り出すと楽しげにかぶりついた。
「どうだい、味は」
傍らにいた老婆が問いかければ、少女は満面の笑みで肯く。
「すっごく美味しいわ、おばあちゃん!」
「そうかい? お嬢様に食べさせるには粗末なものだけどねぇ」
「そんな事ないわ。私、おばあちゃんの作るパン、大好きよ」
そんな会話をしながら、2人はのんびりと草原を行く。少女は嬉しそうにサンドイッチを頬張りながら景色を楽しんでいた。
この少女、シェレンは小柄だがそろそろ15歳になる。本来ならば学院へ行く準備をしなくてはならないのだが、シェレンはそれを少し前まで嫌がっていた。
そもそも、この少女はとある理由で学院へ行きたがらなかった。それは苦手なものが一杯あるからだ。まず、彼女は貴族独特の空気が苦手だった。次に、貴族たちの豪奢な衣服や豪華なご馳走もあまりすきではなかった。そして……自分の婚約者となった筈の、公爵の息子。
『お前、どうせ家柄目当てなんだろ?』
『お前みたいな女、だれが嫁にもらってやるもんか』
会う度に酷い言葉を浴びせる彼が、何よりも嫌いだった。元々大人しい性格だったシェレンは、彼に萎縮し、何も言えないまま悔しさを募らせるだけだった。
シェレンは10歳の頃、勇気を振り絞って父親に貴族籍をはずしてもらい、街の人間として暮らしたい、と言い出した。勿論父親がそれを許すはずが無かった。理由を聞いた父親は泣きそうになりながら震えるシェレンを優しく抱きしめた。
「それだけ苦しい思いをしたのか。だが、シェレン。今のまま街へ下っても一人では何も出来ない。その街での暮らしを、知らないからだ」
シェレンは言った。
「私は、街の人の暮らしが知りたいです。いろんな人々の暮らしを、知りたいのです。そうすれば、私は街でくらせますか?」
父親は、可愛い娘を手放す事を悲しく思ったが、思い切って街の人の暮らしを体験させる事にした。
まずは使用人の仕事を体験させるべく、彼らに家事のやり方を教えてもらった。そして使用人体験を父親の知人の家で行い、それを経て町での暮らしを体験させる事に。
父親は元はここで働いていた使用人を頼り、あちこち回らせる事にしたのだ。もちろん、信用できるところへと預け先は決めて、ではあるが。
シェレンは、街で、菓子問屋の丁稚奉公を体験し、農家での暮らしを体験し、猟師の家や旅一座の暮らしも体験した。けれどもその先で、彼女は人々と貴族の様々な苦労をしり、勉強した。
最初は引っ込み思案だったシェレンだが、使用人体験で知り合った執事や厳しくも優しい菓子問屋の主人などのお陰で凛々しくも明るい性格になる。
読み書きと計算、礼儀作法は出来たため、丁稚奉公先では貧民育ちの子どもたちに読み書きを教えたり、礼儀作法を教えたりした。農村では大人相手に読み書きを教えたりして苦労したものの、シェレンは楽しく過ごした。
だが、その暮らしもそろそろ終わりだ。父親との約束は5年間。そう、学院には気乗りしなくても行かなくてはならない。それが約束だった。
(学院、か)
旅の間に、学院の噂は色々と聞いている。
ここ数年は風紀が乱れがちになっているらしく、先日もさる公爵令嬢が、婚約者を男爵令嬢に奪われたとか何とかでもめたらしい。
(嫌だなぁ……)
陰鬱とした気持ちになりながら外を見る。澄み切った青い空をみながら、シェレンは何処と無く悲しい瞳で流れる景色を見つめていた。
「学院には、行かなくてはならないんだったねぇ」
「はい」
「途中の町までしか、私は送れないけれど……」
「大丈夫よ、おばあちゃん。多分、父上が使いを出していると思います」
そこまで言い、シェレンの表情はさらに曇る。ただの『シェレン』から『アーシェウルム侯爵令嬢』へ変わっていくようで、息が詰まりそうになる。
「学院でも、がんばるんだよ」
「おばあちゃん……」
優しい老婆の声に、シェレンは泣きたくなるのを堪える。本当は、このまま老婆のところで暮らしたかった。先ほどまでいた村で、麦を育て、パンを作り、のんびり暮らしたかった。でも、それは許されない。
旅の中で、彼女は貴族の役割を知った。税を取り立て、灌漑など公共的な事業を計画し、人々を纏め、国と領地を繋ぎ、繁栄させると同時に国を支える。いかに人を動かし、繋ぐか。それが力の見せ所だろうか。
女性は、婚姻によって家と家の間を取り持ち、栄えさせるために家庭を守り子を育て、時に領地の人々とも力をあわせて領地を支える。その必要性をありありと感じていた。
(場合によっては女性でも家を継ぐことが出来た。それに、とてもよい統治を行なっている女性の領主にもあった事があるけど)
王都では貴族の力よりも市民の力を感じていた。彼らはうまく貴族と付き合いながら暮らしを立て、よりよい明日を目指している。また、農村では所によるとはいえ領主とともによりよい領地を目指して手を組んでいる。
まぁ、搾取しか考えていない領地の人々は死んだ目をして苦しそうに生きている。連携も何もあったものではない。道の状態も悪く、何処となく寂れた場所も出てくる。
(この国は、比較的裕福。飢饉に見舞われることもここ30年ないと言われているほど。それは多くの領主がよい政を行なっているから……だと思いたい)
シェレンは、悲しくても覚悟を決めた。自分の役割を果たすために学園に行こうと。たとえ愛のない結婚だろうと、相手を守り立てていこうと。
「おばあちゃん、私、がんばるからね」
「……遠くにいても、あんたの幸せ、ねがってるからね」
笑うシェアンに、老婆は少し泣きそうな顔でそう言った。
馬車は行く、素朴で平和な道を。
けれどもシェアンの歩く道は、果たしてどんな道だろうか……。
彼女は知らない。
数年後、婚約者に『婚約破棄』を言い渡される事を。
それを機に領内を回って実情を学び、後にその名を知らない者がいないとまで言われるほどの名領主となる事を。
(終)
読んでいただきありがとうございました。
なお、婚約破棄した相手は見る目が無かったという事で。




