紅蓮華の追憶 (9)
「いやぁ、おったまげた話だ」
茶屋の亭主が、旅人の噂を女房に告げる。
「お城の天守が、すとん、と、崩れ落ちたっ、てよ」
一夜のうちに変わり果てた姿に、城下はすわ戦か物怪のしわざかと、大八で逃げ出す騒動となった。
「人柱どもの祟りなんだか、御殿様はお隠れに、お堀の普請も取りやめ。めでたいやら気味悪いやら、分けがわからねえ」
朝もやを分け、首をかしげながら幡を立てた。
と、そこへ。
「おい、亭主」
聞き覚えのある声に振り向くと、先日、だましそこねた山人の若者が、身軽な旅装束でたたずんでいる。茶屋の亭主は、ばつが悪そうに横目でうかがったきり、忙しいそぶりで桶の水をまいた。
州作は縁台を寄せて腰を下ろし、手招きで亭主をつかまえる。
「珊瑚のかんざしは、まだあるか」
「あんな小汚ぇシロモノ、一文にもなりゃしねえから、女房の耳かきになっちまったよ」
「持ってこい」
ぶっきらぼうに言葉を投げ、
「買い戻す」
柴を売って手にした銀子を、縁台の毛氈に手のひらで置いた。
朝日に輝く銀色を前に、亭主の態度が一変する。
「へい、こりゃ、恐れ入りやす」
腰を低くし、銀子を拾い集めると、売り物を取りに寝屋へと戻った。
「贈り物だからな、洗ってよこせよ」
亭主の背中に念を押し、夫婦のかけあいを奥に聞きながら、州作は朝の陽だまりに体をあずけた。
朝露に濡れる蓮華野で、老馬が草を食んでいる。
三十年前――紫乃女の祖父に助けられ、お礼に譲り渡した馬だ。
あの馬だと気づいた時、州作は、紫乃女の「魂」の在処を知った。風が届けた魂の嘆きは、大殺戮で死んだ祖父の、孫娘の魂を案じる声であった。
州作は老馬の首をなで、引く者のない手綱を取り外す。老馬は蓮華野を離れない。紫乃女の追憶を弔いながら、命尽きるまでとどまるのだろう。
懐に温めていた珊瑚のかんざしを、取り出し、軽く唇をあてて蓮華野に置いた。
(すまん……)
あのまま契れば、強い神気が紫乃女を浄化し、虚無の塵へと焼き滅ぼしただろう。されば紫乃女を案じる風達が悲しむ。想いを確かめ合いながら、応えてやれぬ身上を詫びた。
淡い紅色の風が、愛おしげに州作をなで、恥ずかしそうに春風と踊る。
「もう、いいか」
頬をまさぐる風にささやいた。
淡い紅色の風は、名残り惜しげに老馬をなで、村の跡を駆けめぐると、待ちわびていた風達と一つになった。
至福の夢から覚めたように、州作もまた、風そよぐ蓮華野にたたずんでいる。
紫乃女と過ごしたわずかな日々は、紅蓮華の追憶がみた夢――ではない。
木もれ日の下で穏やかに暮らした光景は、州作自身のかなわぬ願い。“幾百年”を経てもなお、忘れがたき故郷への追憶でもあった。
だが俺に、安寧の日々は許されぬ。
父を殺し、その肉を喰ろうて生きのびた――この穢れた血、穢れた体で生きながらえる限り。
須田村ただ一人の生き残りとして、村の血と、“あの冬”の記憶とを背負いながら。
贖罪の旅に、たどり着くべき場所など無かった。
「……風が呼んでいる」
ふと我に返り、風達のささやきに耳を寄せた。
遠い北奥の空から、さまよえる魂の嘆きが届く。野辺に埋もれるあまたの憶いが、州作の風を待ちわびている。
「奇しきむすびの、神魂に依りて……――」
清けき朝の光をまとい、己が備えし神名を唱えた。
「出座せ、風逸奥津久瓊神」
神名に宿る言霊が、風魂に響き神威を解き放つ。
天色にたなびく清浄の光が、俗塵に塗れた衣を剥ぎ、人界の穢れにまみれた身を禊ぐ。浄められた肉体を青海色の衣が包み、霊気を結んだ玻璃の神珠が、清涼の音色で風達を呼ぶ。
風馳せる奥羽の美しき故郷――神名に刻まれた追憶を抱き、青海色の袖を吹きなびかせて、一陣の風が、再び孤独の旅路へと翔けた。
琳、と、澄みわたる珠飾りの音が、梢の彼方へと遠ざかる。
南風が名残りを惜しみ、萌えいづる若葉の木もれ日を揺らす。
朝露にかがやく蓮華野では、娘の遺した大切な老馬が、ゆるやかに草を食み続けていた。
『紅蓮華の追憶』 ――了―― 2015.1.17(9/3修正)