紅蓮華の追憶 (8)
堀普請は人々の怨念を積み、なおも続いている。
人は神に救済を祈るが、人の世の愚行を戒め、邪を断つ神の姿はない。神は人界の営みに干渉してはならず、人は神の領域に踏み入ってはならぬ。それが、人と神とを分ける〈三界の掟〉である。
だが俺は、神ならぬ身、人ならぬ「人」だ。
人の身で風魂を心臓とし、神威を宿す『神名備』として――。
淡い紅色に煌めく風が、しきりに風逸の肩をなでる。
「……ああ、終わらせてやる」
尾根に立つ杉の梢で、向き合う夜に低く唱えた。
丑三ツ刻。
風逸は青海色の袖を打ちなびかせ、疾風とともに虚空を翔けた。
城下は静かだ。闇の吹きだまりに、悪霊や魔どものうごめく気配もない。邪精の結界壁は失せ、牙城へと誘うように夜気が道を開く。
篝火の揺れる堀を越え、城壁を渡り、天守望楼へと青い風が舞う。
高欄廻縁に降り立ち、開け放たれたままの扉の奥へと踏み入った。
蒼い妖火が行灯に揺らめき、肋骨の浮いた梁を照らす。四隅の柱の陰には、魂を喰われ、木偶と化した奥女中達が、抜け殻の肢体を転がしている。
奥女中の裾をよけ、御簾の奥の寝台に歩み寄った。
(愚かな……)
そこには、すでに屍骸と成り果て、横たわる「城主」の姿があった。
枯れつきた肉体は鎧をまとい、干からびた手には錆びた銘刀――まぎれもない、「鎧の邪妖」に映された形だ。
かつて城主は、永遠不変の現し身を得るべく、城守の邪妖と〈契〉を結び、邪妖の意思を肉体の器に受け入れた。
だが心弱き人間は、邪妖の意思に肉体を巣食われ、たちまち“闇”の属性と成り果てる。
一国の城主さえ、邪妖を飼い慣らすことができず、忌まわしき鎧の魔物と化した。
人の心は、もろく崩れやすい。邪妖はそれを見透かし、弱き心を苗床として、邪念の種を植え、“闇”を導く忠実な下僕をこしらえている。
と――なま臭い妖風が、四方の御簾を揺り動かした。
干からびた屍骸が、握る刀ごと肘から砕け、赤黒い錆の砂山と化す。
「いるんだろう、出てこい」
隠れたやからの吐息をおぼえ、風逸は不快そうに袖を払った。
灯影の揺れる肋骨の梁に、きしんだ笑いが響きわたる。
《憐れよの、風逸。神ならぬ眼に、見えぬものは見えぬままか》
姿なき声がとどろくと同時、肋骨の梁が飴のようにねじ曲がった。
すさまじい勢いで、望楼が凹み押しつぶされていく。
「……!」
天井が溶け、廻縁の柱が幻と消えるや、絨毛うごめく肉壁が現れる。
風逸は剣鉈を抜き放ち、脈打つ肉壁を裂いて、外への道をこじ開けた。
蒼い妖炎が噴き、屋根を突き破風を破り、九層の天守を吹き飛ばす。骨と鉛の櫓が焼け落ち、泥のように降る残骸の中から、城守の邪妖――赤色の大百足が空へと跳ねた。
望楼が大百足の胃袋だったとは。
(城主の屍に釣られたか)
苦々しく舌を打ち、風逸は崩落する天守の瓦礫を避け、本丸御殿の櫓へと逃れた。
巣食われていたのは、城主の肉体だけではなかった。
怨念に満ちた天守そのものが、大百足の胎内に呑まれ、大黒柱を脈根として“闇”とつなぎ合っていた。
だが根を分けた鎧の邪妖を焼かれ、大百足も痛手を免れていない。神火に焙られた二股の根は、壊死が進み石くれと化している。“闇”を吸い上げる脈根がしぼみ、大百足は不快そうに身をよじらせた。
《我が下僕を焼いてくれたな》
あと一歩。城主の屍を傀儡に、堀普請で“闇”の洞門を築き、闇主の御座所を成し得たものを。
《何ゆえに、我らに抗う。愚かなる風の主、風逸よ、神々の憐れなる生贄よ。うぬが酷き宿命に従い、幾たび孤剣を奮おうと、人の心の闇は尽きぬ》
九十九対の鉤爪をうねらせ、一対の鎌手を打ち鳴らして、皮肉と邪毒の息を吐いた。
《我が生き餌となれ、風逸よ。蛆神どもの気まぐれに従い、虚しき血を流すより、うぬが心臓の風魂をえぐり、尊き闇主の御下に仕えよ》
同じ呪詛を繰り返す。呪詛は浴び続けると呪縛となり、真実となる。
風逸は剣鉈で、悪しき言霊を切り祓う。
「戯れ言はあきた」
《ならば潰えよ》
大百足は嚇ッと身を奮い、“闇”より吸い上げし穢気を吐く。おびただしい邪精が空に湧き、下郎の邪妖や魑魅魍魎らの魔どもを生じ、爪牙の壁で風逸を取り囲んだ。
《下郎ども、極上の餌をくれてやろう。血肉をしゃぶり、骨を噛み砕き、うぬらが種の肥やしとせよ》
魔どもの爪牙が食らいつく。
風逸は神気の炎を剣鉈に巻き、爪牙の壁を裂き、邪精を焼いて虚無の塵と帰す。幾段も押し寄せる魔どもの群れに、疾風を放ち、天色の鋭い光輝で弾き、一刀に薙いでは四方に散らした。
しかし魔どもの爪牙は尽きず、孤絶した櫓上へと追いつめられる。
《我が懐まで届くか、風逸》
大百足は邪雲の褥に憩いながら、疲れた風逸を嘲笑った。
死闘を重ね、弱き「人」の身は満身創痍である。
だが、
「届くさ」
かすかに笑みすら浮かべ、風逸は東の山稜を指した。
峰の間に、二十三夜の月が昇る。
今宵、人々は月待塔に集い、身を浄めて月の出を待ち、善き心で月を拝む。地上にあふれる祈りの声は、悪霊を祓う浄めの気となり、人々の心を安息で満たす。されば人の世をむしばむ邪気は衰え、邪精のやからも萎え尽きる。
日暮れ前――紫乃女の風に連れられ、城下の月待塔を訪ねて、地護神と語らい加護を請うた。一緒にいきたいと強く願った、紫乃女の最後の想いを胸に、風逸は剣鉈を四方にないだ。
「天降る月よ、我が〈契〉に応えよ」
祓い立てた刃が月輝を帯びる。召喚に応じ、四方に坐す月待塔が、月の神威を解き放つ。人々の善き祈りを横糸につむぎ、月輝を縦糸に編み上げた結界が、あまねく城下を覆い尽くした。
魔どもは結界に囚われ、金色の輝炎に溶かされ、形を保てない。逃れようと身悶えながら、二十三夜月の神気に浄められ、煌めく塵とはじけて消えた。
神ならぬ「人」の弱き身で、神すら忌避する“闇”と闘う。〈三界の掟〉に縛られぬとはいえ、あまりにも過酷な『神名備』の宿命――それゆえに、人の世を憂う地護神や精霊は、神ならぬ「人」の風逸を加護し、頼みに応じて神威を授けている。
「あとは貴様だけだ」
風逸は容赦ない瞳で大百足を見上げた。
《こしゃくな風めが》
邪雲を蹴散らし、大百足は歯ぎしりとともに憤怒を吐く。
《かくなる上は、うぬごと風魂を噛みつぶし、神どもに一泡吹かせてくれる》
天に吼え、巨大な鎌手を振りかざし、地に降りざまに喰らいつく。
風逸は一撃をかわして袖をひるがえし、剣鉈を天地に祓い立てた。
「我が神名に依りて、いでよ、禍つやからの物実を浄めよ」
しろがねの神火を巻き、剣鉈に封じた神籬の形――直毘之剣が現れる。
直毘神は禍ごとを直す浄めの神。その神威が依坐す剣は、風逸が見極めた因果にしたがい、“闇”を導く物種を滅ぼす。
炎たつ神剣を両の手に握り、風逸は大百足の懐へと斬りこんだ。
《神どもの玩具かッ》
左右の大鎌が、直毘之剣を噛んで阻む。
「……ッ」
硬い衝撃に突かれ、まだ乾かぬ傷痕が疼く。神ならぬ不便な身を、大百足の牙が嘲笑う。
《捕えたぞ、風逸》
大鎌で直毘之剣を封じ、九十九対の鉤爪うごめく胴を巻く。風逸は結界を強くし、かきむしる鉤爪に耐えた。一寸でも邪毒の爪に触れたら最期、九十九爪に肉を裂かれ、骨の髄まで食い尽くされる。
大百足が勝どきを上げようとした――時だ。
《う……ぬぅ!?》
神剣と交差する大鎌に、しろがねの神火がほとばしる。鉤爪で払いのけようとするが、触れた先から炎が移り、勢いを増して燃え広がっていく。
《取れぬ……取れぬう……ゥッ》
油紙を舐めるがごとく、ひとたび邪精に点いた神火は、呑みつくすまで燃えたぎる。邪精がこり固まって生じた邪妖に、燎原の神火を逃れる術はない。
甲殻を焦がしながら、大百足はなおも怒気を荒げた。
《我は滅びぬ……これしきの火では滅びぬぞ……ッ》
無尽蔵の邪精を吸い上げ、神火を吹き消そうと、地に潜る脈根をふくらませた。
これぞ“闇”へとつなぐ道。
「剣よ、今ぞ断て」
風逸は疾風を盾に牙をかわし、狂乱する鉤爪をかいくぐり、地に伏せ、脈うつ根元へと転がりこんだ。
人界と異界の「気」の境界点――脈根の瘤へと踏み登る。
「禍つものどもを直らしめよ!」
逆手にかかげた神剣を、体を預けながら芯へと突いた。
脈根の瘤が亀裂を描く。境界が裂け、こじ開けられた異界の“闇”へと、直毘之剣が神火をそそぐ。“闇”にからみつく脈根を、一毛も残さず焼き尽くす。
《おのれ……おのれぇ……ぇッ……風逸……ァ!》
炎は大百足の断末魔を呑み、殻を割り肉を溶かし、火片と砕いて巻き上げる。
と――。
大百足の無念を聞き届け、はるか深淵より思念がとどろいた。
《…… 禁 ヲ 破 リ シ 曲 者 ハ 誰 ゾ ……》
神火をねじこまれ、異界の「気」が憤怒をたぎらせる。
禍たる“闇”を断つ為とはいえ、境界を破り、異端の力をもたらす業は、〈三界の掟〉を超える禁忌。
三界の軋みは本意ではない。風逸は直毘之剣を抜き去り、道反しの封印を打ち、亀裂をふさいで境界を閉じた。
大百足は燃え落ち、形もない。
焼き浄められた大地に、暗い残り火が点々と揺れる。
《神ならぬ身の、愚かな風め……人界に異端の力をもたらし、許されると思うな……》
邪骨のかけらにからみつく意思が、震え立ちながらなおも毒づいた。
「人ならぬ貴様を滅ぼしたとて、神ならぬ俺は咎めを受けない」
言い放つ。
人を人ならぬ運命へと追いやる“闇”を、風逸は――州作は何よりも憎む。
「人の道は、人が決める。俺は『人』として、余計な根を刈り払うだけだ」
凛として向き合う瞳に、大百足は、嚇ッとひとしきり笑った。
《うぬを待つは、人もろともに滅びゆく道。我が闇主に血肉を刻まれ、はらわたを喰われ、その憎き心臓をえぐられよ……――》
呪詛を浴びせ、狂気の笑いのうちに崩れ落ちた。
最後の破片も塵と砕け、吹きさらう風に溶けて消える。
「……なればこそ、人もろともに生きていく」
つぶやき、直毘之剣を天地に祓うと、「剣鉈」に封じて鞘におさめた。
堀に埋もれた慟哭が、地響きとなり城を震わせる。屍魂を浄化された人柱達が、堀の杭を抜き、石垣を支える根石を砕く。
城主がしがみついた虚栄の城は、邪念が築いた“闇”もろとも、空虚な堀へと崩れ落ちていった。