紅蓮華の追憶 (7)
夜が更けても、紫乃女は眠れずにいた。
浅い眠りにつかぬうちから、夢でもないのにあの“声”が響く。目が冴えても、体を起こしても、胎内に籠もる赤黒い百足が、紫乃女の意識に呼びかけてくる。
《求めよ》
何を?
《うぬが傍らに眠る男を。芯が濡れるほど、愛おしい胸を》
情を見透かされるのが怖く、紫乃女は耳をふさぐ――が。
《心はふさげぬぞ》
百足は嘲笑いながら奥へと潜り、赤裸々な情念にからみつく。
《今宵限りだ。城下を訪ねてしまえば、そこな男の用はすむ。されば明日にも、うぬを捨て、別の女性の元へと帰る》
(イヤ……)
紫乃女は百足の告げを拒む。
だが、とうに気づいていた。州作は紫乃女が眠りにつくと、夜半に小屋を出、丑三つ頃まで行方をくらます。隠れた逢瀬か、秘め事なのか。外から戻った州作は、疲れた体を横たえるや、深い眠りに落ちてしまう。
今夜も、きっと――。
猜疑と嫉妬で渦巻く情を、百足はむさぼり喰いながら、紫乃女の胎内でさらに大きく膨らんでいく。
《明日を迎えてはならぬ》
迷いを解きほぐすように、強く優しく、紫乃女の情念にささやきかけた。
《血を交え、一つとなれ。されば男は、お主の元を永遠に離れぬ》
(永遠に……州作と一つに……)
何と甘美な響きだろう。
このまま月日をやり過ごしていれば、やがて夫婦に――そんな情念を募らせていた。だが明くる朝を迎えてしまえば、紫乃女は甘美な夢から醒め、州作は見知らぬ土地へと旅立ってしまう。
紫乃女はふらりと炉端にたたずみ、州作の寝息を確かめ、四つに這いながら腿を寄せた。
よほど疲れているのか、州作は、紫乃女の両手が頬を包んでも応えない。
《恐れるな、愛おしき下僕よ。そこな男を、永遠に、うぬが女淫の虜囚にせよ――》
闇黒の指先に導かれ、紫乃女の奥底から、泥のような情念が噴き上がった。
州作の唇を強く吸い、熱い舌をおし入れる。
「……?!」
舌が苦いものに痺れ、州作は驚き目を覚ます。が―― すでに紫乃女の舌は、黒く生臭い邪毒の粘液を、喉の奥へと送りこんでいた。
邪毒を吸った体は、気脈が衰え、筋肉が萎えて動かない。もてあそばれ、喰われるだけの餌になる。
紫乃女は自らの衣をとき、白い輪郭を露わにすると、州作の衣もときほどく。
「だめだ……」
「お願い」
紫乃女の肌が、州作の胸を這う。指先で官能の芯を探り、応えを確かめ、邪淫の糸でからめ捕る。つらそうにあえぐ州作を、唇で愛撫し従えながら、快楽の門をゆっくりと押し開けた。
うつろに潤む目が見つめ合う。
「紫乃……女……」
愁いと憐れみとを吐息に混ぜ、州作はわずかに自由のきく指先で、カモシカの着皮をたぐりよせる。
「あぁ、州作……――」
愛しい名を唱えながら、しかし、紫乃女の手は、見る間に邪妖の爪をむき出した。
「お願い……死んで……! あたしと暮らして……!」
涙を流し、叫んだ。
張り裂けると同時、黒くよどんだ邪精のとぐろが、宿主の紫乃女を食い破る。根を一面に張り巡らせ、紫乃女と溶け合い、醜悪な邪妖が産声をあげた。
激情に身悶えながら、紫乃女が邪妖の爪を振りかざす。
「……ッ」
州作はかきむしる様に、着皮に隠した剣鉈をつかんだ。
天色の光が指先に走り、肉体を冒す邪毒をすすぐ。
心臓をえぐらんと襲う鉤爪を、清白の光輝がはじき飛ばし、目をくらませた紫乃女の喉笛を、銀色に閃く剣鉈が裂いた。
血潮を噴き、崩れ落ちながら、邪妖の声が最後に笑った。
《愚かなり……》
柔らかい、木もれ日のような光が満ちている。
ふと目をさますと、紫乃女は、春色の光の波間にあった。
誰かが紫乃女を見下ろしている。見慣れた顔……でも、様子が違う。紫乃女の瞳に映る姿は、天色の風に髪をからめ、青海色の衣を身にまとう――。
「ごめん、州作……」
うまく声が出ない。
紫乃女は、喉を裂かれたことを思い出す。
当然の報いだ。邪妖に従い、州作を欲情の餌食とし、殺そうとした。
きっと、邪妖に噛まれた傷のせいだ。紫乃女に巣食った邪妖が、よこしまな情を餌に育ち、州作を殺せと命じていたのだ。
「あたし、死ぬの……?」
「――」
州作は頭を横に振ると、まなざしを光の波間にうつした。
「紫乃女……もう、気づけ」
ここは廃墟、紅蓮華の野。
「お前は、ずっと蓮華野にいた」
「ずっと……」
「ああ、五年前から」
州作の哀しげな顔に、紫乃女は、はっと気づいて見つめ返した。
そうか、あたしはとっくに、あの夜の殺戮で死んでいたんだ。
あたしが見ていた風景は、生きていた日々への追憶。
「州作も、あたしの“夢”なの……?」
哀しげに問う。
「いや、俺は紫乃女と暮らしていた。一緒に兎を食っただろ」
州作は、限りなく優しい微笑をこぼした。
強い憶いは、時に「魂」の記憶を現し世にもたらし、死者と生者との境界をかき消す。
数え切れぬほどの「魂」に州作は出会い、請われれば共に暮らした。憶いの主が、魂の在処に気づくまで。
「州作……何なの? どうしてあたしを見つけたの」
「みんな、紫乃女を心配していたんだ」
春の色に染まる風達が、青海色の袖口で舞う。堀普請で死んだ父と兄弟、殺戮で埋められた祖父と母、眠れぬ魂の叫びが、風をつたい、州作に届いた。
「紫乃女一人だけ、馬が心配で、ここを離れられずにいたから」
大殺戮の夜――紫乃女は、足軽に斬られながら、馬を逃がそうと蓮華野で息絶えた。
廃墟を浄化しても、変わることのなかった紅蓮華は、紫乃女の追憶を宿すからだ。
五年もの間、「魂」の在処を知る由もなく、紫乃女は遺された老馬に寄りそい、紅蓮華の追憶に暮らし続けた。
だが、
「もう一人きり、居ることはない」
心細さを覚えたならば、待ちわびた風達が迎えてくれる。
「行こう、一緒に」
紫乃女の髪をなで、濡れる目元を指先でぬぐい、静かに背中を抱き起こした。
耳元にそよぐ風音が、炉端を囲んだ懐かしい声となり、紫乃女の周りで誘うように舞う。
喜びに煌めく風達になでられ、紫乃女はまぶしそうに目を細めた。
「そうなの……? 州作が、そうだったの?」
紅蓮華が咲く頃になると、いつも木霊達がささやいた噂。
――麗し風のみことさまは、たくさんの風を連れて歩きなさっている……。
――風逸様の風になれば、どんな空へも連れて行ってくださる……。
州作は、はにかんだ微笑だけを返した。
「お願い、州作……抱いて……抱きしめて、一緒に連れていって」
「ああ」
紫乃女は青海色の袖に包まれ、恋い焦がれた胸に抱き寄せられた。州作のぬくもりに溺れ、一つに溶け合いながら、紫乃女の意識は、永遠にめぐる甘美な夢へと吸われていった。
光がはじけ、淡い紅色の新しい風が、空虚となった胸元に巻く。
紫乃女の風を抱きあげ、州作――風逸は蓮華野を見渡した。
天色の風に吹かれ、清白の蓮華が一面に揺れた。