紅蓮華の追憶 (6)
紫乃女は朝からぼんやりしている。昨夜は州作の懐に抱かれ、久しぶりに深く眠ったせいだ。
州作も気だるいらしく、日が高くなってもまだ横になっている。
おかげで紫乃女も、起きたり寝転がったり、ゆるんだ時間を過ごしていた。
「ね、今日は、このままでいようか」
添い寝し、紫乃女がつぶやいた。
州作は目を閉じたまま、含み笑いで何も返さない。
紫乃女は州作の肩に戯れ、応えを待つが、一向に返る気配がない。焦らされ、体の芯は熱くなる一方である。
と――州作の胸元に目をやり、紫乃女は顔色を変えた。
「怪我してるの?」
「え」
「血、ついてる」
襟を押し広げ、現れた胸筋に、すぐに顔を赤らめた。
「傷……ない」
癒えた傷跡だけが重なる。
「兎の血だろ」
襟を戻しながら州作は笑った。
「うん」
たくましい胸が目に焼きつき、紫乃女は熱い頬を衾に隠した。
小窓から差し込む光がまぶしい……州作は覚めたばかりの眼を細め、萎えた体をのばして寝返りをうった。
「そろそろ起きるか」
紫乃女の頬をつつく。
「嫌」
「でも腹へったし」
「じゃ、すぐ用意する」
紫乃女は衾を這い出し、夜着のまま帯をしめなおすと、囲炉裏の火を起こして土間へと下りた。
後から起き出した州作が、桶を手に、小屋の下の沢へと向かう。清水で顔を洗い、血の痕を拭って身を浄めると、桶に水を満たして戻った。
甕に水を足す州作の横で、紫乃女は竈に薪をくべながら、揺らぐ炎をぼんやりと見つめている。
こんな二人きりの朝が、いつまでも続けば。
だけど州作は、いずれここから出て行ってしまう。
「州作、いつまで居るの」
思わず聞いた。
桶を置いて答えが返る。
「あと少し、居てもいいか」
「どれくらい?」
「城下を見るまで、かな」
「ふうん……」
聞き流しながら、心は針につかれて痛む。
あと少し。その「少し」が過ぎれば、州作は行ってしまう。紫乃女はまた一人。
どうして行ってしまうの。行かなきゃだめな理由があるの? ここの暮らしよりも大切な暮らし?
「薪割りしてくれるなら、ずっと居てもいいよ」
冗談めかして願いをつぶやいた。
「いや、遠からず発つ。居心地がよくなる前に」
「変なの、気に入ったなら居ればいいのに」
紫乃女は、かいま見えた心にすがりつく。
しかし州作は、小さく首を横に振り、
「俺は、安らぎに居とどまれない」
不思議な言葉をつぶやき、凍える記憶を温めるように、陽だまりを求めて薪割りに出た。
遅い朝餉の後、州作は紫乃女を連れて、萌緑の山へと踏み入った。
明るい薮を刈り分け、落ち葉に隠れた山菜や、丸薬を作る木の皮を探す。
「黄檗を採るのは、梅雨明けがいい。皮を剥ぎやすいし、よく乾く」
紫乃女一人でも見分けられるよう、幹に目印を結びつけた。
山肌を滑るように降り、渓流のほとりで、白い結晶片岩を拾い上げる。炎症に効く薬石だ。辺りには幾つも露岩がのぞいている。石を砕き、市場で売れば、紫乃女の駄賃稼ぎにもなる。
「紫乃女」
木陰でうつむいている紫乃女を呼んだ。
「どうした」
州作の声に、紫乃女はハッとして顔を上げる。今日は何一つ、耳に入らない。紫乃女を案じ、山の恵みを伝える州作の言葉を、うつろに聞き流しているだけだった。
心は、よこしまな想いで満たされるばかり。
州作をつなぎとめたい。
永遠に、紫乃女の中に……。
「疲れたなら休んでいいぞ。もう少し、上を見てくる」
上流を指し、州作が声を投げた。
「大丈夫、あたしも行く」
紫乃女は叫び返すと、一人きりが怖くて、岩肌から急いで飛び下りる。
が――足を着いた瞬間、険しい石を踏みはずし、膝から崩れて水辺に転げた。取り乱し、打ち身も忘れて起き上がろうとするが、踏んばる足に力が入らない。
すぐさま州作が岩場を駆け下りてきた。
「動くな、そのままでいろ」
紫乃女を楽に座らせ、具合を問う。足を挫いたらしく、くるぶしが痛むという。
患部に手ぬぐいを巻きつけながら、顔をのぞきこんで語りかける。
「小屋に戻ろう」
「ん……」
目を潤ませ、小さくうなずく紫乃女の髪を、州作の指がそっと梳きあげた。
紫乃女を背負い、積み重なる岩場を踏み下る。
「ごめんね」
州作の温かい背中に、紫乃女は胸をあずけてつぶやく。
「鹿より軽い」
優しい声が耳にそよいだ。
深い渓谷の底では、日差しが早くも翳りをみせる。稜線に湧き立つ雲も、縁に茜色を帯びてきた。
州作は、水飛沫に洗われる急峻な岩場を、カモシカのように踏み下りていく。まるで風の道を知っているかの様だ。背中に乗る紫乃女は、空を翔けるような感覚にとらわれる。
風を切る心地よさに、背中でうとうとしかけた時だ。
州作が、思い出したように紫乃女に告げた。
「明日、城下に行ってくる」
「明日?」
紫乃女は、夢見心地から一気に冷めた。
「ああ、六斎市が立つ。人の噂話も集まるしな」
「……」
「紫乃女も、父御や兄者に会いたいだろ」
「うん」
堀普請が見たいという州作を、城下に案内する約束だった。つらい作業場には、長く顔を見ぬ父や兄達もいる。だが城下を訪ねてしまえば、州作は紫乃女と居るべき理由がなくなる。
「じゃ、明日……」
心乱れるまま、紫乃女はうつろにつぶやいた。
その時である。
「……ッ」
紫乃女の奥で、得体のしれぬ“蟲”がうごめいた。
赤黒い百脚の蟲が、悶え、のたうち回る。不協和音の耳鳴りにまぎれ、《やめろ、やめろ》と、悪夢と同じ声がわめく。
「紫乃女?」
背中から強くしめつけられ、州作はいぶかしげに足を止めた。
「痛むのか」
「……大丈夫」
息が浅く荒い。
「水がある、少し休もう」
岩棚のはざまを縫い、川砂を集める水辺へと下りた。
平らな石に紫乃女を座らせ、清流に浸けた手ぬぐいで、熱をおびた足首を冷やす。
「腫れちまったな」
二、三日は動かせまい。
「明日は俺一人で行く、紫乃女は小屋で休んでいろ」
「大丈夫、あたしも行く」
「無理だ、この足じゃ」
真顔でとがめる州作に、紫乃女は逆に問いかけた。
「ね、次の市日じゃダメなの」
六斎市は月に六度立つ。少し待てば、紫乃女の足も治る。
が、
「明日しかない」
州作はかたくなに返した。
「二十三夜の月を逃せば、また次の月を待たねばならない」
「?」
「明日は月待の夜だ。浄めの祈りに満ち、魑魅魍魎の気が衰える」
不思議な咒文のようにつぶやき、
「人柱の噂が本当なら、疫神の逃げ出す明日がいいだろ」
などと涼風のように笑いかわした。
揺るがぬ州作の心に、紫乃女は少し黙りこくった後、
「膝が痛い……」
かすかに苦しげにつぶやいた。
裾を腿までまくり、膝をさすって心配を誘う。
「ひねったか」
「わかんない。こっちも変、攣ってる感じ……」
紫乃女の指す膝の内側に、州作は手をあて、熱や痛みの具合を確かめる。何処だ、そこじゃない、と、交わし合ううち、いつしか言葉も絶えて、火照る場所だけを繰り返しなぞった。
「いいよ……州作」
その手をつかみ、腿へと導く。
想いを探りあうように、瞳の色を見つめ合う。
指先が、付け根をくすぐり、奥へとすべりこんだような気がした。
が――。
「……やめよう」
目をそらし、立ち上がる。
「どうして」
「お前のあだになる」
「どこかに行っちゃうから?」
州作は答えない。
「急ぐぞ、日が暮れる」
断ち切るように告げ、
「乗れ」
と、屈んで背中を向けた。
「いい……もう、一人で歩ける」
「無茶いうな」
つかみ寄せようとした手を、紫乃女が払いのける。
「ほっといて、歩きたいんだから」
「意地はるんじゃない」
州作は力づくで背負いあげた。
無言で歩き出した背中に、紫乃女は回した両腕で強くすがりつく。今が最後なら、精一杯、永遠に忘れないよう、州作のぬくもりを抱きしめていよう。せめて一人きりの夜を越せるだけの、甘美な記憶を刻みつけるために。
「州作」
すがりついた手に力をこめ、肩につぶやいた。
「あたしも城下に行く」
「紫乃女」
「一緒にいきたい……」
心をつぶし、しぼり出すような願いであった。
「分かった、行こう」
足取りがゆるみ、優しい声が返った。
重なり合い、帰路を急ぐ二つの陰影を、赤銅色の夕暮れが追いかける。
紫乃女は温かい背中に揺られながら、州作に告げた強い願いを、幾度も胸にめぐらせていた。
一緒にいきたい。
一緒に生きたい……――。