紅蓮華の追憶 (5)
夜という鏡に映された城は、昼とは違う、奇怪な姿をさらけだす。
九層の天守は骨と鉛のやぐらを築き、生白い壁には塗りこめた屍骸の影がうごめく。城壁は乱世の矢傷や弾痕をとどめ、鋭くそり返る石垣は、異界の“闇”より染み出す穢気で、邪精や魔どもの巣穴となった。
堀普請は、眠ることなく続けられている。
屍魂を焼き、蒼い炎をつらねる篝火。
深く底しれぬ闇黒の堀は、水ならぬ邪精を満たして横たわる。
篝火に照らされた足場では、土石を運ぶ人夫の列に、首のない屍骸も混じっている。殺した人柱を掘り起こし、足らぬ人手に充てたのだろう。骨皮だけの人夫の列に、鞭を振るう足軽の「影」は、人ならぬ魔物のおぞましい姿だ。
忌まわしい光景を見下ろし、青い風が城壁を越えていく。
(酷い……)
胸にたぎる憤りをおさえ、珠飾りを緊と鋭く鳴らして、風逸は曲輪の棟瓦を翔けた。
蒼い妖気をまとい、九層の天守が夜を突く。邪雲に巻かれた望楼には、凶禍の因――邪妖に憑かれた城主が伏す。
天守に張りつく邪精のやからが、蜘蛛の巣を吐いて風逸を阻む。
「還れ!」
からみつく巣網を一刀に裂き、邪精を浄めて無に帰しながら、一足飛びに天守望楼の甍へと舞った。
招かざる客の到来を拒み、地響きが城全体を震わせる。
地を裂き、壁を破り、どす黒い邪精のとぐろが噴く。太く脈打つ根をのばし、棟や高欄にのたうちながら、たちまち天守を巻きあげていく。
城に根づいた「城守の邪妖」である。血色の妖光を帯びた脈根が、盛んに波打ちうごめき回り、穢気にまみれた邪精を吸いあげる。
風逸は、忌まわしげに舌を打った。
(根が“闇”へとつないだか……)
邪妖の脈根が、人界の境を破り、異界の“闇”へともぐりこむ。為に、邪妖の根を通り道にして、人界を脅かす穢気の毒が、不浄の“闇”より湧き出している。
異界の“闇”を人界へと導く、最も忌むべき邪妖の形。
《ここを見抜いたか、風逸》
城守の邪妖は、青海色の衣を血眼に映すや、おもむろに本態を現した。
《あな憎らしき、うるさき風よ》
百足の頭に棘の背骨、腐乱した四肢に鉛の鎧をつけ、手には邪骨を磨いた九尺の巨剣。城主の華々しい記憶を喰らい、天晴れ武者ぶりをまねた姿か。
風逸は天守望楼の鬼瓦に立ち、穢気の毒を風で払いながら、向き合う邪妖に言い放つ。
「去れ。さもなくば徒と散れ」
《分をわきまえぬ下郎めが》
鎧武者の邪妖は、空を震わせて高笑った。
《神ならぬ身の、卑賤なうぬが、まことの“闇”の主にかなうか》
威嚇の巨剣をなぎ払う。うなる太刀風が瓦を砕き、青海色の衣を幾筋もかすめ、麗しい頬に紅色を引いた。
風逸は動じるふうもなく、指先で軽く頬をぬぐう。
「誰が事だ、貴様らが唱える『闇主』とは」
異界の“闇”へと根を張る邪妖が、しきりに奉じる忌まわしき名だ。
鎧武者の邪妖は、下郎の無知なるさまを嘲笑う。
《知りたくば、我が生き餌となれ。風逸よ、神ならぬ身の愚かな風よ。うぬが弱き身の神名を棄て、その身に余る『風魂』を砕いて、まことの“闇”の下僕となれ》
呪詛を吐き、邪毒のしたたる牙を寄せた。
「戯れ言はすんだか」
風逸は、冷めた声音でつき返す。
前口上は聞きあきた。
「去るか、散るかだ。“風”に答えろ」
天色の清浄な光が燃え、疾風の乱舞を巻きあげて、青海色の衣を強くたなびかせた。
《痴れ者が!》
怒号と共に、邪気の燃え盛る巨剣をないだ。
風逸は剣鉈に嵐気を巻き、火柱を裂きながら空へとひるがえる。
青海色の袖を真面にかざし、「風」の印を大きく描くと、
「縛めよ!」
珠飾りを鳴らしてうち払った。
袖に吹きそよぐ銀沙の風紋が、空に解き放たれて結界を編み、邪精のとぐろを縛りあげる――が。
《効かぬわッ》
鎧の邪妖は怒気を発し、身を震わせて結界縛を引きちぎる。暴れるとぐろが土を剥ぎ、隠れた根元が地上にむき出した。
根を砕けば致命傷となる。
風逸の狙いを察し、邪妖は憤怒をとどろかせた。
《こしゃくな風め!》
根を隠そうと身をよじり、空一面に巨剣を奮う。
風逸は邪妖のとぐろを翻弄しながら、人界と異界の気脈がよりあう、「気」の境界点を見定めた。
(そこか)
おぞましく脈打つ瘤を境に、底深い闇黒へと根が突き刺さる。
異界の“闇”へとつないだ邪妖は、しかし、脈根を砕くだけでは滅びぬ。根が一毛でも“闇”に残れば、無限に満ちる穢気を餌に、幾度でもよみがえり“闇”を導く。
ゆえに神火で根こそぎ焼き払い、穢気にまみれた大地を禊ぐ――神に等しい「力」が要る。
風逸は、気を整えて虚空に踏み立ち、剣鉈を天地に祓いたてた。
禍つやからの因果を見極め、“闇”を導く物実を断たん。
「我が神名に依り……」
唱えかけた――時だ。
背後に凶大な邪気を覚えた。
虚空をねじ切り、緋色の鉤爪が風を裂く。
「――!」
風逸は剣鉈を引いてひるがえり、風の結界を盾に、大鎌のような鉤爪を避ける。一撃はまぬがれたが、結界を編む風がちぎれ、破片が衣を細かく削いだ。
そこへ巨剣が連撃を突く。
剣鉈でしのぎ、かわしながら天守望楼の甍へと退く――と、獲物を待ちわびた鉤爪が、風逸の行く手を横殴りに裂いた。
避けきれず「風」の気脈を断たれ、肩を焼く激痛もろとも空に投げ出された。
疾風に護られ、長屋門の屋根へと逃れる。緋色の鉤爪に裂かれた肉は、邪毒に焼かれ、蒼黒い壊死の色を帯びている。風逸は剣鉈を傷に押しあて、染みこんだ邪毒を浄化しながら、天守望楼の空を仰ぎ見た。
(二体……?)
鎧の邪妖の背後に、もう一体、別の思念の影が張りついている。
邪雲に映しだされた緋色の影は、一対の巨大な鎌手と、九十九対の鉤爪を持つ大百足である。
《手ヲコマネクナ、卑シキ下僕ヨ。今コソ憎キ風ヲ葬リ、マコトノ“闇”ノ御座所ヲ築ケ――》
嚇、嚇、嚇、と、乾いた笑いを残し、大百足をかたどる思念の影は、妖火に照らされた夜を走り、邪雲の渦へと姿をくらました。
風逸はハッとして、地護神が語っていた、城守の邪妖の甘言を思い出す。
――我が忠実な下僕となり、まことの“闇”の御座所を築け。されば永遠不滅の現身を授けん――
援護に現れた大百足こそ、城守の邪妖の本態だ。鎧の邪妖は、根を分けた忠実な下僕にすぎぬ。
見極めの甘さを悔やむ間もない。
《何処を見ている、風逸》
傷ついた「風」の結界を砕き、九尺の刃が風逸の正面に押し入った。
「――ッ」
わずか八寸の刃で、邪気の燃え盛る巨剣を防ぐ。邪毒を吸って疲弊した体は、しのぎ合う力に捕われて動けない。しかし逃れようと剣鉈を引けば、鎧の邪妖の剛力が、風逸を薪のように割るだろう。
《弱い――弱いわ……!》
あざ笑い、剣にしがみつく“羽虫”を払った。
風逸は背中から石垣に叩きつけられ、砕け散る衝撃にもてあそばれる。
無防備をさらした体を、鎧の邪妖は見逃さない。
《贄となれ》
邪精の結晶を研ぎ、封殺の楔となして射放った。
血潮。
楔が腕、腿、肩を貫き、四肢を封じて磔にする。
「……ァ」
あふれ出る鮮血が、石垣を真紅に塗りあげた。
血の香りを嗅ぎ、邪精のやからが陰より沸き出す。高貴な餌ににじり寄り、美味なる血をなめ、麗しい肉にしゃぶりつく。
《逆らえまい、風逸》
惨酷な運命を嘲笑う。
《我が生き餌となり、共に闇主の御下に仕えよ》
丸ごと胎内に飲みこもうと、腹まで口開き、餓えた絨毛を剥きだした。
風逸は四肢を楔に封じられたまま、力弱き指先で「風」の印を描く。
「……奇しきむすびの……神魂に依り……て……」
あえぐ息の中で唱えた。
「出座せ、“風”よ……――!」
召喚に応じ、五大気輪「風」の神威が、風逸に依坐し解き放たれる。
まばゆい銀鱗の光輝をはらみ、神気の嵐が四方を天翔ける。浄めの大風に煽られ、しろがねの神火が地上をなめた。
《ぐ……ぬぅッ》
鎧の邪妖は、とぐろを溶かされ、脈根を焼かれ、青くただれて崩れ落ちる。
封殺の楔が砕け、風逸は石垣を転げ落ちていく。青い風達が駆けつけ、力なき体を受け止めると、中庭の磐座へと投げ渡した。
鎧の邪妖は焼かれた根を修復しようと、堀に隠れ、邪精をむさぼり喰っている。ちぎれた根元には、新しい肉芽が生え、醜くおぞましくうごめいている。
根がよみがえれば、邪妖は息を吹き返す。
(させる……か……)
気の遠くなるような激痛に突かれ、幾筋もの鮮血を引きずりながら、風逸は磐座の頂きへと這った。
紅色に浸る指先で、岩面に五大気輪「地」の印を描く。
「汝の力……我が血に贖わしめよ……――」
貴い血を磐座に捧げ、あまねく大地に加護を請うた。
百億の夜を刻む磐座が、犠牲に応じ、大地に眠る記憶を呼び覚ます。
地脈に咲く「地」の結晶華が、剣峰を突き立ててうねり、岩を砕き邪精を引きちぎる。鎧の邪妖は、かけらも残さずすりつぶされ、幾つもの断末魔を夜天へととどろかせた。
力尽き、風逸は自らの血海にうずくまる。五大気輪の召喚は、依坐す肉体を激しく損ない、貴い血の代償を強いる。
《風……逸……ァッ》
鎧の邪妖が、溶け落ちる牙で食らいつく。
今度こそ、あと一かきで、苦悶にあえぐ喉を噛みちぎる――邪妖の狂喜を、しかし、吹きすさぶ風が打ち砕いた。
青い風達が馳せ、風逸を包んで彼方へと連れ去る。
歯ぎしり、呪詛を唱える間もない。鎧の邪妖は、怒る疾風に塵と砕かれ、虚無の闇へと吹き消されていった。
はるか奥山の聖泉のほとりに、投げ出だされるようにたどりついた。
深い傷口から流れる血を、水辺に転げ洗い落とす。邪毒が潜りこんだ傷は、餌となるため血が止まらない。清水で禊ぎ、早く血肉を浄化しなければ。
だが流れる血が多すぎた。
寒さを覚え、力を奪われ、意識が底知れぬ闇へと沈んでいく。
死ねない……俺は、どうあっても生きねばならない。『風魂』を宿した体で、宿業転生の理が尽きるまで……――。
風達が不安そうに風逸をなで、救いを求めて風笛を奏で、水面にさざ波をたてて舞った。
と――。
「風逸殿」
聖泉を護る女神が、山葡萄とよもぎをたずさえ、血塗れた水辺に歩み寄る。
「すまない……貴女の〈庭〉を汚した……」
血色に身を浸し、うつろに見上げながら詫びた。
「いいえ、力弱き地護神の代わりに、また貴方様に血を贖わせた。人ならぬ地護神にできることは、〈庭〉に貴方様をかくまうことのみ」
聖泉の女神は、山葡萄とよもぎで血止めを施すと、水辺に指先をひたして唱えた。
「わらわが眷属よ、母なる水宮となり、貴き御方の神魂を癒やせ」
水柱が踊り、聖水を編み、繭のごとき水宮を作して、傷つきうずくまる風逸を包む。
聖水が、血肉にもぐりこんだ邪毒を浄化し、傷つき疲弊した気脈を癒やす。風逸は水宮に身をゆだね、つかの間の安らぎに埋もれて眠った。
「わらわの〈庭〉は霊峰の裾ゆえ、いかな魔どもも踏み入れぬ。気が癒えるまで、わらわが揺り籠で休まれよ」
聖泉の女神は水宮にささやくと、乳霧の結界で〈庭〉を閉ざした。