紅蓮華の追憶 (4)
外は、月もない。
黒くよどんだ低い雲が、厚く地上を塞いでいる。
凍える夜気に裂かれながら、青海色の衣の袖と、青紗を重ねる風衣とが、はりつめた風に大きくたなびく。
吹きすさぶ妖気が行く手を阻み、風逸の神気をむしりとり、夜のるつぼへと投げこもうとする。足下の森には邪妖がうごめき、粘りつく手で争いながら、美味なる生餌を待ちわびている。
風逸は、天色に閃く疾風を放ち、妖気をおし破って山裾を翔けた。
杉の梢に灯る霊気を、もらい受けながら先を急ぐ。
《風逸様――》
《麗し風のみことさま――》
《城は危険――どうか思いとどまられて――》
珠飾りの音が、琳、と通り過ぎるたび、杉の梢の木霊達が、憂いの歌を森に響かせた。
やがて尾根が屏風を開き、盆地の底に、夜に沈んだ城下が現れた。
城下は墨色の濃い霧にのまれ、湖に沈んだ廃虚のごとく、よどんだ静寂に閉ざされている。空はおびただしい魔性の気に満ち、邪雲は渦巻き、蒼い妖光が雲間を走る。
雲の下、威容を誇る城の周りには、邪精を編み上げた結界壁。
(あれか)
この地に凶禍をもたらす“闇”が、結界壁の奥で城を築いている。
風逸は天色に輝く風を強くし、夜の城下に大きく舞った。
(忌気が濃い……)
人のいとなみが集う城下は、俗塵の穢れや不浄の気――「塵界の忌気」にまみれて久しい。人の世の欲望、嫉妬、猜疑、怨恨、あらゆる邪念が吹きだまり、濃い忌気となって、邪精のやからや魑魅魍魎のたぐいを誘う。
風逸は、神気を損なう忌気を避け、清浄の残る聖域をたどる。
と――鬼門封じの鎮守森で、重いうめき声に呼び止められた。
青海色の袖をひるがえし、神木の梢に舞い降りる。
「おぉ……風逸殿……」
地護りの神が、〈庭〉の奥から声をかけた。
「やはり貴殿か、どうりで風が違うておったわ」
〈庭〉とは地護神の御座所、人界との端境にある禁足地である。
「異界の“闇”が漏れ出ぬよう、我が結界にて封じておったが……」
杖を引きずり、破れた御簾の奥から現れる。強い邪気にむしばまれ、霊威は枯れて痩せ衰え、神殿も腐り荒れ果てていた。
〈庭〉先でよろめいた地護神を、風逸の手と風達が支える。
「待ちわびておったぞ、風逸殿」
地護神の細い手が、風逸の腕を握りかえした。
「見たか、当地の酷き有り様を」
長年に渡る堀普請は、酷使された民衆の屍骸を重ね、冷酷非情な人足狩りは、幾つもの集落を廃虚と化した。領内に満ちる怨嗟の声は、天地に巡る「気」をゆがめ、あらゆる災禍を城下にもたらした。
「因は、一体……?」
「愚かなる城主の執心ぞ」
地護神は力およばぬ身を恥じながら、口惜しげに語りはじめた。
十年も昔――病臥の城主が、「生」への執着から邪念に憑かれた。
城主は現世の栄華にすがりつき、醜き屍骸と成り果てるを拒んだ。明日ある命を羨み、健やかな肉体の主を妬み、生きながらえる者を呪った。
天守望楼の寝台に伏し、腐臭にまみれ、孤独に沈みながら――城主は、異界の闇より響く声を聴いた。
《我が忠実な下僕となり、まことの“闇”の御座所を築け。されば永遠不滅の現身を授けん》
ささやいた声は、城に根付いた「城守の邪妖」である。人の虚栄が築いた造物は、邪妖の牙城となりやすい。
城主は邪妖と〈契〉を結び、命ながらえる代償として、邪妖の意思を肉体の器に受け入れた。
すなわち、城主の意思は、邪妖の意思。
民衆の怨嗟を埋める堀普請も、あまたの屍魂を生みし大殺戮も、人の世に“闇”をもたらそうとする邪妖の思惑に他ならかった。
「人の邪念が肥らせた邪妖は、人ならぬ神の手には負えぬ」
地護神は、人の心の愚かさと、神ゆえの無力を嘆く。
神は、人の営みに干渉してはならず、人は、神の領域に及んではならぬ――人界と神界とを分ける〈三界の掟〉により、人自らが招きし災禍に、神はただ傍観する外なかった。
「風逸殿」
その若く頼もしい肩に、枯れた両手ですがりついた。
「人界にもたらされし“闇”を、神威もて断ち切れるは、神ならぬ『神名備』の貴殿のみ」
地護神の切なる願いに、風逸は凛としてうなずき返す。
人の世の邪念が生みし禍事は、人の世が責めを負うさだめ。
「古き地脈を御存知ないか」
風逸が問う。
地護神はしぼんだ眉目を開くと、杖で〈庭〉を一振りなでた。
「我が記憶の一葉を取れ」
幾星霜の記憶をはらみ、降り積もった落ち葉が〈庭〉に舞い踊る。
朱金色に輝くクヌギの一葉を、風逸は指先にはさみ取った。
「かたじけない」
礼を告げ、風衣で〈庭〉を浄めると、再び重苦しい空へと翔けた。
正面には邪精うごめく結界壁。ゆがんだ壁の向こう側には、蒼い篝火に照らされた石垣と、人影のつらなる堀普請が見えた。
風逸は、邪気をおし分けて梢を渡り、城を一望する五重塔へと降り立った。
朱金色のクヌギの葉をくわえ、大地に刻まれし記憶を読む。
(やはりそうか)
古き地脈に外堀を重ね、“闇”の印契を描き出している。印契が現れれば、異界の“闇”への邪門が開き、抗う術なき人の世は、たちまち災禍で埋め尽くされよう。
(断たねば)
“闇”をもたらす邪妖の意思、人の世にめぐる禍ごとの連鎖を。
神気を恐れる結界壁が、邪精を打ちつけて威嚇する。風逸は天色の清浄な光を強くし、触れる邪精をことごとく浄めるが、削られる苦しさで咳きこんだ。
《風逸様……》
水煙に隠れた小さな花精が、弱々しく舞い、風逸の袖にたどり着く。
《極微なれど、御身の滋養となれば》
幽境の花に結んだ甘露を、両手に包んでそっと差し出した。
「ありがとう」
ひとしずくの甘露を指先に受け、唇を潤すと、華の霊気が気脈にみなぎり、気を分ける風達の輝きが増した。
地護りの神々の憂いを受け、風逸は容赦なく、結界壁へと我が身を投じた。
邪精が沸き上がって邪妖と化し、邪毒の忌気を吐き、爪を立てて喰らいつく。
「集え我が袖に」
風逸に応じて風が馳せ、疾風を巻いて邪妖を砕く。
邪精の破片をかいくぐり、風逸は腰に帯びた、白柄の剣鉈を抜き放った。
しろがねの刃に嵐気を巻き、虚空を一文字になぎ払う。結界を編む邪精がちぎれ、天色の光輝に焼かれた壁が、脂肉のように溶け落ちた。
風逸は風をまとい、石榴色にただれた壁穴を翔けぬける。
壁の修復を急ぐ邪精が、憎々しげによじれながら、吹き去る風を見送った。