紅蓮華の追憶 (3)
二夜、三夜と日を重ねるうちに、州作はすっかり紫乃女との暮らしになじんでいた。
この日は紫乃女の駄賃稼ぎで、州作が老馬の手綱をとり、朝東風たなびく谷を越える。
木もれ日の重なる山道で、紫乃女がスミレを見つけると、州作は、風恋うる花の唄を口ずさんだ。春の遅い故郷・須田村で、陽だまりに揺れるスミレの唄だと、懐かしげに、どこか寂しげに微笑った。
谷越えの道の途中には、五年前、殺戮に血塗られた“阿鼻集落”があった。
この先は嫌いな道だ……――紫乃女は州作の背中に隠れ、顔を伏せて注連縄をくぐりぬけた。
老馬は州作に引かれ、おびえる風もなく廃虚を過ぎる。
崩れた荒屋が道なりに並び、日当たりの良い道ばたには、ハハコグサが小さな黄金の粒を散らす。路地は漏れさす光であふれ、破れた壁をつる草が飾り、なよ風に触れて若葉が揺れる。
朝霧に洗われたばかりの廃虚は、澄んだ清涼の気で満ちている。
紫乃女は、道の真ん中で足を止めた。
「何か変……」
「どうした」
歩をゆるめ、州作が振り返る。
「前と違う。うじゃうじゃいた奴、いない……どうして」
「盗賊でも隠れていたのか」
「ううん、もっと嫌な奴ら。あたしを引きずりこもうとしてた」
陰影にうごめいていた邪精のやからが、残らずかき消されている。ねっとりとからみつく邪悪な気配も感じない。
紫乃女は思い出したように路地へと踏み入る。
かたむいた軒をくぐり、紫の花咲くアケビのつるをかき分けて、裏手の荒屋の戸口にたどり着いた。
屋根の落ちた青天井から、澄みわたる陽光がふりそそぐ。黒くこびりついた血の痕は消え、なぎ倒された戸板の上を、若いつる草が柔らかく覆う。
土間に入ると、陽だまりに埃が舞い踊った。
囲炉裏に転がる、絣をまとった白骨の枝を、名も知らぬ白い花々が飾る。まるで墓標に手向ける香華のようだ――紫乃女は陽だまりを背に、炉端の前でぼんやりとたたずんだ。
静かに見守っていた州作が、紫乃女の隣に歩み寄り、膝を下ろして片合掌を捧げる。隣で紫乃女も、そっと手を合わせた。
「戻ろう」
州作の声にうながされ、紫乃女は、囲炉裏を振り返りながら荒屋を後にした。
通りに戻ると、馬がいない。
固くつないだのに、と、あわてて周りを見渡すと、裏手に広がる田圃の跡で、あぜの草を食む背中が見えた。
老馬に走り寄り、手綱をつかんで、州作はほっと胸をなでおろす。
後を追ってきた紫乃女が、田圃の手前ではたと立ち止まった。
燃えさかるような一面の花野。
「紅蓮華……」
血色を吸い、紅緋色の蓮華が波を打つ。
「ここだけは変わらないんだ」
染みついた殺戮の記憶を禊ぎ、清浄の気に満たしてもなお、廃虚まわりでは血色の蓮華野が花揺らす。
紫乃女は紅蓮華の波間に足を入れ、漕いで渡るように踏み分けた。
「血が染みついちゃったのかな」
ため息まじりに独りごつ。
「憶い――だろうな」
州作が、紫乃女の後ろで言葉を返した。
「オモイ?」
「強い憶いが宿り、この地を彩り続けている」
風が馳せ、蓮華野を燎原のように燃え上がらせた。
州作と紫乃女は、紅蓮華の炎に包まれながら、さざめく草音に耳をすます。
「大切なものがあったんだろう。遺していけないような」
「……」
「強くて優しい憶いだ」
「うん」
紫乃女の胸が熱くなる。
州作の言葉は、春の陽のように暖かく優しい。
木もれ日に抱かれるスミレのように、州作のぬくもりに埋もれたい――蓮華野を後にする背中を追い、袖をつかもうと手をのばした。
その時である。
蓮華野がいっせいに騒ぎ立てた。
妖気が地走り、空気が怖気だつ。
凶風が荒び、吹き千切られた花々の間で、泥のような蒼黒の影が牙をむいた。
紫乃女は粘りつく影に腕をつかまれ、悲鳴ごと蓮華野に引き倒される。
蒼黒の影は、前脚で捕えた紫乃女を埋めようと、後脚で蓮華野を掘り返す。
「紫乃女ッ」
州作が剣鉈を抜きざまに、紫乃女にからみつく影を薙ぐ。しろがねの閃光に触れるや、蒼黒の影は金切り声を残し、形を失い霧と散った。
(残っていたか)
低く舌打ち、州作は剣鉈を鞘に戻す。
茫然自失したままの紫乃女を、膝に抱き起こし、竹筒の水と香草を含ませた。
「怪我、ないか」
「ん……平気」
声は気丈をふるまうが、州作の腕にすがりつく手は、恐怖に侵され石のように固まっている。州作は紫乃女の肩をさすり、こわばる体を解きほぐしながら、土にまみれた裾をはらった。
紫乃女は州作の腕を支えに、おぼつかぬ膝で立ち上がる。
「見た? 今の奴……あいつらだ」
「ああ、まだ隠れているかもしれん。しばらく蓮華野には近づくな」
「大丈夫、州作がいるし」
つい口走り、頬を赤らめる。
「いいよね……ずっと、あたしを守って」
ねだる声には、このまま一緒に、との願いがこもる。
州作は何も答えず、ただ紫乃女の腰を強く抱き、思案の吐息を深くついた。
再び馬を引き、二人は足早に廃虚を後にする。
州作の背中を追いながら、紫乃女は、ふと手のひらに違和感を覚えた。
小指の付け根に、針先ほどの噛み傷があった。が、痛みも出血もない。まぁいいや、と、紫乃女は小さな傷跡を吸った。
思えば、その日の夜からであった。
浅い夢の底で、黒くよどむ何ものかが、しきりに紫乃女の意識に命じる。
《殺せ――》
誰を?
《うぬが隣に、うかつにも眠っておろうが――》
州作? どうして?
《うぬは我が下僕。ただ我に従い、そこな男を殺ればよい――》
どす黒いよどみは、日ごとに紫乃女の奥底で、悶え、うごめき、百足のごとく育ち続けた。
夢の中で紫乃女が拒むと、赤黒い百足は腹を食い破り、外に這い出して州作をしめ殺す。
うなされ、悪夢から目覚めると、紫乃女の両手が州作の首に触れている。
(もう嫌……)
今夜は眠ることすら怖く、州作の枕元に座り込み、長く不安な夜に脅えていた。
「紫乃女……」
州作はぼんやりと眠りから覚め、暗闇の中で紫乃女の輪郭を見上げる。
「眠れないのか」
「ううん……大丈夫」
涙声だけがこぼれ落ちる。
州作は紫乃女の方に寝返りをうった。
「まだ夜が寒いな」
「ん……」
寒さがほのめかす意味を悟り、ためらわず州作の懐にもぐりこんだ。
悪夢から護るように、州作の腕が紫乃女をかき寄せる。
温かい……春の陽だまりに抱かれるように。紫乃女の胸に灯る、州作へのよこしまな情、つなぎ留めようとする身勝手な想い。それすら溶かして消してしまうほど、熱く優しく、甘美な――。
気の遠くなるような至福に溺れ、紫乃女は深い眠りについた。