紅蓮華の追憶 (2)
野兎は、州作がさばいてくれた。臓腑と毛皮の分け方もうまい。山菜や薬草にもくわしく、木の芽と乾した香草とで、臭い肉を極上の珍味に焼きあげた。
温もる炉ばたで、紫乃女は久しぶりに鍋を囲む。味のうすい雑炊を分けあい、炙られた肉を頬ばりながら、狩や旅の話を州作にせがんだ。
夕餉の後は、囲炉裏を灯りに、御城に納める縄をなう。
御城では十年も前から、大がかりな堀普請が続いている。縄は、国中から狩り集められた人足達が、土や石を運び出すかごに使う。人手を出せない百姓家は、縄をない、かごを編んだ。
紫乃女の縄ないを手伝いながら、州作は暗い小屋の中を見渡した。
蓑もござも一枚きり。しん張り棒を立てた戸口には、出入りの人影の気配もない。
「一人か」
「うん」
親兄弟は、と、問われる前に、
「みんな、お堀の普請に連れて行かれた。家にはあたしだけ」
声を落として打ち明ける。
「州作は」
「俺も一人だ。もうずっと……“あの冬”以来」
吹雪におびえ、凍えるような声でつぶやいた。
紫乃女は「一人」の言葉に気を取られ、州作の表情には気づかない。
炉火の照りかえしに頬を染め、火箸で炭を寄せながら問うた。
「急ぐ旅なの?」
「いや、別に」
行き先はない。草木を採り、獣を狩り、日銭を得ながら今日をつなぐ。その繰り返しだ。
「じゃあ、山のこと教えて。あたし、もっと一人で生きなきゃならない。糧が欲しいの」
「ああ、いいよ」
流れ者にとって、屋根のある暮らしはありがたい。居候の間は、薪割りでも野良仕事でも存分に使ってくれ、と、笑った。
快い返事が、かえって紫乃女の体を熱くする。引きとどめた心を羞じ、紫乃女は縄ないの手を急がせた。
と、
「俺も頼みがある」
州作は縄を腿に置き、向き直って切り出した。
「市立ての日でいい、城下を案内してくれ」
「それだけ?」
「堀普請が見たい」
「もの好きだね、気味悪い“噂”しかないのに」
堀には杭の代わりに人柱を立て、石垣には目を開けたままの生首が埋められているという。病臥の御殿様の平癒を祈願し、疫神の出入りを見張るためだ、と、町人達は肩をすぼめて噂する。
「いいよ、一緒に行ってあげる。あたしも父さん達に会いたいし」
堀普請の現場には、人足狩に引き立てられたきり、家に戻らぬ父や兄達がいる。怖い足軽が見張っているから、つきそって、と、条件をつけた。
やがて夜も更け、交わす言葉も絶えた頃。
紫乃女は炭火を灰に埋め、せまい炉端で寝床を分ける。衾と枕を譲ろうとすると、州作は「転寝でいい」と足をのばし、腕を枕にして横になった。
男と女が囲炉裏をはさみ、背中合わせに夜を越す。
州作の安らいだ寝息を聞きながら、紫乃女は眠れぬ時間をやり過ごす。
体がじんとしびれ、目が冴えて寝つけない。寝入りばなに、背中に寄りそう浅い夢を見ては、醒めるたびに夢と知り、夢の続きをと目を閉じる。
夢うつつを繰り返しているうちに、ふと甘美な風になでられ、紫乃女はようやく眠りに落ちた。
かつて村だったその場所は、“阿鼻集落”と呼ばれるようになった。
阿鼻叫喚の大殺戮が、一夜のうちに、村を血塗れた廃墟と化した。
働き盛りの男達は、ほとんど堀普請にかり立てられ、牛馬のあつかいを受けながら死んだ。
枯れた老人と女子供だけが、村に残され、痩せた田圃を耕し続けていた。
蓮華の花咲く、田起こしの頃。
人足狩りの足軽衆が、村を訪れ、稼ぎ手を出せと刀で命じた。
村の長老が、先頭に立って徴集を拒む。
――働ける男はいない
――では女を出せ
――乳飲み子を抱えている
――棄てよ
――それでは村が滅ぶ
押し問答の果て。
――ならば、死ね。せめてお堀の礎石となり、御家のために奉公せよ
その夜。
押し寄せた足軽衆に、村人は残らず首斬られ、屍骸を田圃に敷きつめた。春がめぐるたびに咲く紅蓮華は、今も村人達の血を吸う色だ。
非業の死をとげた魂は、無念に囚われて屍骸に宿り、不浄にまみれて『屍魂』と化した。
阿鼻叫喚の夜から五年――。
屍骸が朽ち、つる草が荒屋をのみこんだ後も、屍魂は殺戮の記憶に宿り、夜ごと慟哭をあげさまよい続けていた。
谷間に満ちる慟哭は、屍魂を餌とする邪妖を集める。
『邪妖』とは、人世の邪念を喰らった邪精が、こり固まって形態を得たもの。ゆえに強い怨念をはらんだ屍魂は、邪妖を肥らす極上の餌となる。
餌を争う邪妖の怒声と、喰われる屍魂の悲鳴とが、闇夜のるつぼに響きあう。餌が尽きれば互いを喰らう。さらに物怪や悪霊のたぐいが、重くよどんだ妖気に誘われ、異界の裂け目よりにじみ出す。
廃墟は夜ごと、不浄のやからの溜まり場となり、狂騒の宴をくり広げていた。
と――。
飄、と、梢に風が鳴る。
何処より現われいでたのか。
天色にたなびく清らかな光が、闇黒によどむ廃墟に舞い降りた。
「人」である。
豊かな黒髪を風にからませ、素足で瓦礫を踏み歩く。風貌は香りたつ青葉のごとく、四肢は鍛えられし玉鋼のごとく、若く凛々しく、麗しい。
身にまとう装束は、さらに人界のものにあらず――青海色の狩衣は瑠璃の光彩を織り、広い袖や身ごろには、銀沙の風紋を千変万化に吹き流す。白練りの単衣に、白八ツ藤の紫苑の指貫袴。肩には青紗の風衣を重ね、胸と袖露の珠飾りには、五大気輪「風」の印を象る。
青海色の衣の主は、足や裾がすれるのもかまわず、尖った瓦礫のはざまに分け入る。袖が大きくなびくたび、琳、と、珠飾りが玻璃の音を奏で、群がる魔どもの咆哮をしずめた。
招かざる者を噛みちぎろうと、邪妖が威嚇の牙をむく。しかし天色にたなびく光に触れるや、邪妖は清浄の気を浴びて、邪精を失い微塵に砕けてかき消えた。
強い神気に畏れをなして、邪妖や魔どもは陰に尻ごみ、歯ぎしり、うなり、地べたにうごめく。
天色にたなびく光に護られ、青海色の衣の主は、殺戮の記憶を塗りつけたままの、崩れた荒屋へと踏み入った。
壊れた戸板に、黒く腐蝕した血の痕が、かきむしる指先を写している。
かたわらには絣の切れはしをまとい、朽ちて砕けた白骨の残余。
青海色の衣の主は、屍骸の前に膝を下ろし、両の手のひらをさしのべる。
「いいんだ、お休み……」
蒼く震える屍魂に語らい、あふれる天色の光をうつした。
するや――。
安寧の光が屍骸を包み、闇をおしのけて花ひらく。屍魂は清浄の光の波間に洗われ、不浄の業から解き放たれて、煌めくひとそよぎの「風」と化す。
柔らかな光彩の風がそよぎ、荒屋は春色のあかりに満ちた。
青海色の衣の主は、路地の荒屋を渡りながら、さまよえる屍魂を「風」へと浄化する。生まれたばかりの風達は、懐かしい日々の彩りに輝き、嬉しそうにくるくると舞った。
と――その時である。
おぞましいうめきと怒号とが鳴り、夜気を震わせ、木々の葉を散らす。
《我が宴を邪魔するは誰ぞ》
泡立つ邪精のよどみに沸き、廃虚に粘りつく巨大な陰影。
穢れ場に根づいた「巣守の邪妖」である。意思を宿して凶大化し、下郎の邪妖や魔どもを使わしめ、人心を惑わし凶禍をもたらす。
《去れ、卑小な蛆神め。それとも我が肥やしとなるか》
邪精のとぐろを路地に波打たせ、羽虫を焼き払うごとく、黒く爛れる火息でないだ。
青海色の衣の主は、しかし裾を焦がすこともなく、袖をひるがえして猛火を散らす。
巣守の邪妖は憎々しげに身をよじり、
《そのしたり顔、気に食わぬ》
どす黒い邪精のしたたる爪を、青海色の衣の主の、みずみずしい頬に突きつけた。
青海色の衣の主は、冴えた黒曜石のような眼で、身じろぎもせず言いはなつ。
「還れ、貴様の棲むべき闇に」
《笑止。我は、人の邪念に応じたまで》
邪妖は屍魂をしゃぶりながら、人の世が生んだ闇を嘲笑う。
が、
「それは貴様の声、巣穴にこもるこだまにすぎない」
澄んだ声音が、邪妖の高揚に水をさした。
《うぬれ、我を愚弄するか》
わしづかんだ屍魂を喰らい、慟哭もろとも呑みこむと、胎内に邪精をみなぎらせた。するや黒光る鱗は九重の鎧となり、九対の脚は鉤爪をうねらす。蜘蛛とも百足ともつかぬ、巣守の邪妖の本態である。
《我が生餌となれ》
大あごを裂き、牙を剥いて喰らいついた。
ひるがえる袖を爪が裂き、白練りの単衣をかすかな血色に染める。
青海色の衣の主は、風を巻いて虚空へと馳せ、木々を渡り岩峰を翔けた。
千年杉が尾根にそびえ、十六夜の月をかかげている。
月明かりを吸い、杉の葉に結んだ夜露を、手のひらにすくって一握り集めた。
「請う、汝らの力を」
夜露に「風」の気を吹きこみ、足下に追いすがる邪妖へとまいた。
月の神気と千年の霊気を含んだ雫が、青海色の衣の主の、清浄な「風」の気に感応する。するや萌芽の歓喜がみなぎり、はじけ、白銀色に輝く杉の針葉を生い茂らせた。
針葉の鋭い光輝が、虚空にあふれる邪精を射貫き、邪妖の鎧を砕き割る。
《こしゃくな真似を……ッ》
邪体を削られ、どす黒い憤怒を傷口に噴きながら、邪妖は漆黒の谷間へと退いた。
巣穴にひそみ、闇にうごめく邪精を喰らい、崩れた体の修復を急ぐ。その周りに、太く脈打つ「根」が見えた。
地に張りめぐらせた邪妖の根は、不浄の気を吸い、邪妖を肥らす。ゆえに気脈の根を断てば、邪妖は気が涸れてたやすく滅びる。
青海色の衣の主は、木々の梢を馳せ渡り、邪妖が隠れた谷へと舞う。
虚空に「風」の印を描き、両の手に天地を包みこむと、
「我が神名に依りて――浄めよ、禍つやからを還らしめよ」
神咒を唱え、手のひらで風門を開け放った。
清浄の嵐気が地上へと降り、天色に輝く波がしらを立てて、谷間を根こそぎなでさらう。
すさまじい浄化の気を浴びて、邪精は煌めく塵と浄められ、魔どもは本性を焼かれて灰と散る。地にこびりついた穢れは祓われ、屍魂は悲業から解き放たれて、あまたの新しい風を巻き上げた。
巣守の邪妖は、地にめぐらせた脈根を砕かれ、根元から石化し崩れ落ちていく。
《この風……この……神ならぬ、人ならぬ力……》
亀裂の中で身悶え、うめいた。
《うぬか、『風魂』の宿主――》
憎悪と共にその名を吐く。
《おのれッ……風逸ァっ》
残る邪精を奮い、身をよじりながら喰らいついた。
するや天色の光がほむら立ち、青海色の衣の主を護るべく、疾風の矢となり邪精を射ぬいて雲と散らす。
邪妖はなおも負け惜しみを灯し、細く揺らぎながらつぶやいた。
《浅はかよの……風逸。うぬが弱き身で、人界の守護に耐えられるか……》
あざ笑う声が崩れ落ちる。
《神ならぬ身の苦業を負え……愚かなる風の主よ――風逸よ……――》
最後のつぶやきも虚空に溶けた。
根こそぎ浄化を受けた邪妖は、虚無の塵へと砕け散り、吹きそよぐ風に吸われて消えた。
青海色の衣の主――風逸は、乾いたため息を小さくつき、見すえた“闇”に言い渡す。
「人のなりわいは、人が導く。神でも、まして貴様らでもない」
衣を颯っとひるがえし、不浄を祓った廃墟に舞い降りた。
梁の崩れた荒屋では、途方に暮れた風達が、寂しそうに塵を巻いている。破れた屋根の下には、炭を焚く炉端も、懐かしい生業の跡もない。
風逸は、しょげて吹きだまる風達に、かぎりなく優しい微笑みを向けた。
「おいで。ここは寒すぎる」
手をさしのべて袖に抱き寄せた。
「行こう、一緒に」
ささやくと、風達は喜びに舞い踊り、風逸の肩を愛おしげになでた。
風逸は袖に風達を遊ばせながら、肩に重ねた青紗の風衣を、指先にからめて空へと放つ。
風衣はほどけて「風」に還り、薫りたつ清明の気で谷間を満たす。二十四節気が歳月をめぐらせ、廃墟は止めていた息を吹き返し、久しい春の萌芽に煌めいた。
――飄、と、梢に風が鳴る。
青海色の衣をたなびかせ、一陣の青い風が、森を揺らして尾根へと翔けた。
木々のさざめきが遠ざかると、谷は静寂を敷いて眠りにつく。
銀の夜露をちりばめた草野に、杉の梢の十六夜月が、乳色の灯影を降りそそいでいた。