紅蓮華の追憶 (1)
この道は嫌いだ。
廃墟に殺戮の記憶をぬりつけ、五年前から息を止めている。
敏感な馬は“阿鼻集落”の境を前に、邪妖の吐息をたてがみに覚え、歩を乱して逃げ出そうとする。
そのたびに娘は、手綱をわきに強くしめ、老いた相棒の首をなだめた。
廃墟やケガレ場には、魔どもが巣くう。
土や石に染みついた血痕が、邪精を生じる苗床となり、それを餌とするモノノ怪や悪霊が、ケガレ場を巣として棲みつくからからだ。
やがて邪精はこり固まって、人の世の邪念や怨恨を喰らい、『邪妖』と呼ばれる魔どもと化す。飢饉、厄災、殺戮、乱世――あらゆる凶禍の種が、邪妖を根として人界にまき散らされている。
村境の注連縄をくぐり、娘と老馬は、妖気のただよう廃墟を過ぎた。
陰にまぎれた邪精のやからが、足をなめるようにからみつく。恐怖で心が折れたらダメだ。邪精は人の念に憑く。人を邪念の虜にする。
廃墟まわりの荒れ野には、おぼろに春がめぐるたび、真紅の蓮華が一面に咲いた。
血色に透ける花びらは、殺され、埋められた村人達の血を吸うからだ。首なき屍骸が、紅蓮華の根元にしきつめられている。
ざわめき立つものを足元に覚え、娘は、老馬をせかして小走りに逃げた。
紅蓮華に宿る屍骸の記憶が、娘の魂をからめとり、土の中へと引きずりこもうとする。
だから、嫌いだ。この村を通り過ぎるのは。
と――。
ひん、と、老馬が高く鳴いた。
恐怖に鞭打たれ、あわを吹きひづめを蹴りあげる。
老馬は蓮華野をふみ散らし、村境をこえ、峡谷の道へと猛然と駆けた。
娘は手綱ごと、けわしい山道を引きずられていく。離すわけにはいかない。馬は宝だ。駄賃稼ぎも、貧しい野良仕事も、娘が生きるために担ってくれる。
(お願い、止まって)
峡谷の道の片側は、鋭くささくれた鮫肌の断崖。足をふみはずせば、娘は老馬共々、岩壁に肉を削がれ、骨を砕かれ、哀れな肉塊を谷底に投げ落とすことになる。
老馬のひづめが、崖のへりをふみ砕いた――時である。
飄、と、風が岩峰に鳴る。
青い風が馳せ、老馬の鼻先に吹きすさぶ。
すると老馬は、毒気をぬかれたように気を静め、転落を避けてふみとどまった。
娘は安堵のため息をつき、崖から離れた木陰へと、疲れた老馬を歩かせる。
つむじ風など、この山道では初めてだ。狐のいたずらか、それとも山の神の助け舟なのか。
春の風が、萌緑色の木もれ日を吸い、清明の気をはらんで吹きそよぐ。
(鈴……?)
琳、と、涼やかな玻璃の音が、梢のかなたに飛び去った。
アカゲラの聞き違いか、と、笑い、娘は昼下がりの山道を下っていった。
山と川との街道が、谷の出口で一つに交わり、たばねられて城下へと続く。
人も、物も、木の葉のように流れこむ辻では、茶屋と旅籠が軒をならべ、日に焼けた幡をたなびかせていた。
春の気が陽炎だつ午後。
若者が一人、茶屋の軒先で菅笠を脱いだ。
年齢は二十歳くらいか。瞳は澄んで優しく、凛として端整なおもざしには、まだ少年のあどけなさを残す。笹色の衣にカモシカの着皮、野袴に毛皮の足袋をはき、腰には刃渡り八寸の両刃の剣鉈。身の丈高く腰がひきしまり、山人か猟師のいで立ちで、柴と野兎を背中にかつぐ。
市場で日銭に替える道すがら、渇きを覚え、茶屋に立ち寄った次第である。
のれんの奥に声をかけると、昼寝から起きた女房が、薪割りの亭主に代わって顔を出した。若い客を前に、乱れた鬢をなおし、媚びを売る笑みで隠れた縁台へと案内する。
脱いだ背荷を足もとに置き、茶ときび餅を注文すると、若者はようやく腰をおろした。
日陰にそよぐ風が涼しい。
壁に背をあずけ、大きく息をついて、歩きづくめの体から力をぬいた。
と、
「よぉ、山の若いの」
昼間から酔いつぶれた先客が、のれんの奥からよろめき出す。
「一人じゃ酒がすすまねえ、何かの縁だ、呑もうぜ兄弟ぇ」
ぐにゃりと肩にのしかかり、タコのような顔でねばりつきながら、若者の鼻先に盃を突きつけた。
「いや、真ッ昼間からは……」
「かたぇこというなや、放っといても御天道様は沈むんでぇ」
「勘弁してくれ、こちとら三杯と持たないんだ」
「益荒男が、酒ごときに負けてんじゃねえ。まず呑め、呑んで“男”をきたえろ」
「……」
若者は困惑の表情をそむけ、縁台で腰をずらしながら、男の酒臭い息から逃れる。茶はまだか、と、店の奥をのぞきこむが、足音ひとつ聞こえてこない。
男は悪酔いの度を増して、「呑め、呑まねえとこうだ」とわめき、壁を殴りすだれを引きちぎる。
やむをえまいと観念し、ほんの一口を頂戴した。
若者の記憶は、そこで途切れた。
午後の陽も山の端に隠れ、夕影が、足もとに吹きだまる風を冷やす。
茶屋の亭主が揺り起こすまで、若者は壁に背もたれたまま、重苦しい眠りの底にあった。
気だるい寝覚めの中、とぎれた記憶をたぐり寄せる。と、酒一口を思い出し、ハッと我に返った。
まさか、と、懐を探る。案の定、銀子を貯めた財布がない。あわてて腰をたしかめる。剣鉈は――大丈夫、盗られていない。
呑んだ酒に、眠り薬が盛られていたのだろう。
こうべを垂れてため息をつき、後の祭りのおのれを恨んだ。
そこへ、
「お客さん、お勘定」
非情の声。
若者はきょとんとして、亭主の手のひらを見つめ返す。たしかに茶と餅を注文したが、運ばれてきたことも、口にした覚えもなく、日が落ちるまで眠りこんでいた。
酔っぱらいを装った客に、薬を盛られ、財布を盗られたと訴える――が。
「無一文、だと」
亭主は態度を一変、
「食い逃げの言い訳たぁ、たいした度胸じゃねえかよ、おい」
乱暴に吐きつけ、若者の胸ぐらをつかみよせた。
「客を泥棒呼ばわりして、しらを切る魂胆か。さてはてめえ、街道荒らしの盗賊か」
言いがかりをまくし立てられ、若者はあっさり押し切られてしまう。
「分かった、金は払う。この柴を売れば……」
「うちの茶は、御用達と同じモノなんでぇ。四百文だ、四百文。てめえの棒きれとは違うんじゃい」
ここぞとばかり法外な値段をふっかけた。
「さあ払え、払えねえなら、今すぐ御同心様に突き出してやる」
亭主の声を合図に、奥から出てきたごろつきが、とまどう若者をはがいじめにする。
と、そこへ。
「あ、兄さん、久しぶり」
通りがかりの駄賃稼ぎが、若者を指して声をかけた。
娘は老馬を店先に待たせ、こぜりあいに割って入るや、若者をごろつきから引きはがす。
事の次第を聞き出すと、
「もーう、また盗られたの。本っ当、だまされやすいんだから」
若者の懐をからかいながら、じろり、と、亭主とごろつきをにらみつけた。
「じゃ、兄さんのお茶代、払えばすむわけ?」
「お、おう、だったら、二百文でかまわねえ」
「あー……残念、手持ちがないから、これで」
娘は、珊瑚のかんざしを髻から取り、渋る亭主に押しつけて、むりやり勘定にあててしまう。
輪の外で、
「あ、あの……」
若者は呆然と娘を見下ろした。
赤の他人である。
娘は若者の肩に、聞こえよがしにささやいた。
「この店は常習。客を眠らせて金品を巻き上げる」
さらに食い逃げでしばりあげれば、懇意の御同心様の手柄が増える。
亭主とごろつきは、獲物を逃す忌々しさで、唾を吐きつけ奥へと引き下がった。
娘は嫌悪の舌を出すと、
「行くよ、顔を覚えられないうちに」
若者の腕と手綱とを引き、夕映えの残る通りに連れだす。
人波にまぎれながら、
「ありがとう、助かった」
若者が娘の後姿に声をかけた。
娘は歩みをゆるめ、影法師を並べると、つかんだ腕から手をはなす。
「あの店、前からしゃくだったんだ。気にしないで」
「だが珊瑚のかんざし……いいのか」
安い品ではあるまい。
娘は黙って笑いかわす。
「すまない」
柴を売ったら、必ず代わりの品を、と、若者は真顔で申し出た。
「いいよ、使い古しだったし。困った時はお互い様、次はあんたが、あたしを助けて」
「しかし……」
安い茶代と釣り合わない。せめてこれを、と、束ねた野兎を差し出した。
娘は憮然と若者を見上げ、
「あんた、人がよすぎるでしょ。だまされやすいでしょ」
そのまま押し返す。
「すまないな、本当に」
若者は野兎に苦笑し、再び背荷にくくりつけた。
その目がふと老馬にうつる。
「この馬……」
「どうかした?」
「いや、珍しい毛色だなって」
「爺さんが、若い頃にもらったんだ。よく働いてくれたよ、父さんの田んぼでも」
手綱を寄せると、老馬が若者に鼻を押しつける。
「あんたを気に入ったみたい、他人にはなつかないのに」
娘は、頬を赤くして馬をなでた。
茶屋の幡が見えなくなるまで、二人は親しげなふうに連れ立つ。
聞けば、若者は土地の者ではなく、日銭を稼ぎながら渡り歩いているという。
「宿はどこ」
若者の横顔に問う。
「八瀬の河原に」
「野宿? まだ夜は冷えるよ」
「もう慣れた」
と、笑う若者に、
「うち……来る? もっ、もちろん、気が向いたらだけど……そうだ、あんたの兎、宿代ってことで、どう」
浮きたつ声をおさえながら、娘は今宵の宿を申し出る。
「いいのか、こんな得体の知れない――」
「馬がなついた」
ためらう返事を手のひらで封じ、馬の首を寄せてはにかんだ。
「ありがとう、じゃ、遠慮なく」
若者は、照れくさそうに嬉しそうに笑みをこぼす。
その初夏の風のような笑顔に見とれ、はたと我に返るや、娘は熱い頬を隠すように、手綱を強く引いて先を急いだ。
街道から間道、小道へとたどり、山ひだに隠れた小屋をめざす。
「あたし、紫乃女。あんたは」
二人きりになると、ようやく娘から切り出した。
「須田村の州作」
「聞かない村だね」
「ずっと北、奥州のはずれにある」
「むちゃくちゃ遠いじゃん」
奥州は、国境を幾つも超えた最北の地だ。紫乃女が暮らす西の国では、古来、奥州は鬼の末裔が棲む地と語られ、蔑まれ、恐れられてきた。
「奥州ってどんな所? 黄金の館に鬼が住むの? ね、もしかして州作も鬼の仲間?」
じゃれ、なついた声で肩を寄せた。