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パンっと頬を叩いて私は数瞬前の考えを吹き飛ばした。音が響かないのでそんなに強く叩いたようには見えないが、自分でやったくせに私はちょっと涙目だ。
腕と背中ををぐんと伸ばす。すると、今まで皆無だった「反応」があった。
「ふぐっ!」
低くくぐもった声と、拳に硬いものが当たった感触。私の拳は伸びの勢いそのまま、何かを殴っていた。
私はここは良くわからない死後の世界であるということも忘れて、急いで振り返った。
「わ、す、すいません!」
謝罪は早ければ早いほど誠意を表しているように見える。というのは17年間で小心者が確実に身につける技能だ。私は警戒だとか不審だとか、そんなものは一切頭から放り出して「わざとではありません」アピール。
振り向くと、黒髪の男性が顎を押さえていた。
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?すいません、人がいるなんて思わなくて…っていうか、あれ?人ですか?うわ!人がいた!」
…っていうか~、の部分は心の中にとどめて置くはずが、勢い余ってそのまま口から飛び出ていた。
人だ!!
「つつ、いや、俺こそ急に後ろから、ごめん」
顎を押さえることで丸まっていた背がピンと伸びた。
着物を着流したスラリとした男性だった。笑うと優しそうな雰囲気が漂う。しかし、私の目を惹きつけたのは、そこではなかった。
目が、赤だったのだ。充血しているわけではない。瞳が真っ赤なのだ。
まさかこの格好で、雰囲気で、カラーコンタクト。普通なら苦笑しそうなものを、何故か私は笑うことが出来なかった。
どこか懐かしさと安心を覚えてしまったのは、瞳の色よりも何よりも人の存在が嬉しかったからだろうか。
「まさか俺以外に誰かいるなんてね」
赤い目が細くなる。笑うと垂れるその瞳は、その人の人柄を表していた。
「随分と不思議な格好をしているけど、君は人?」
「え、あ、まあ、人です」
生まれてこのかた人以外だったことはないし、それ以外だと疑いをかけられたこともなかったので、私はあわてて自分の姿を見た。人とは思えないような変な格好をしているのかと思えば、なんてことのないいつもどおりの普通の制服姿だ。トラックに撥ねられたはずが土埃すらついていない。
「どうしてこんなところに?」
男の人は柔らかな雰囲気のまま聞く。
「私にもよく分からないんですけど、」
彼に今まで起きたことを説明する。男の人はふんふんと相槌を打ちながら聞いていた。時折単語の意味が分からないとでもいうように首を傾げていた。
「貴方も、亡くなったんですか?」
「いや、俺は…どうなんだろう。死んだのとはまた違うけれど、死んだみたいなものかなあ」
歯切れの悪い台詞。でも、普通の人は自分の死に対してこんな反応をするものなのかもしれない。
「じゃあここは死後の世界ってやつですか?」
「ああ、それなら断言できる。違うよ。ここは死んだ者がくるところじゃない」
「本当ですか!?」
私は嬉しくなって飛び跳ねた…つもりが、足元は例の暗闇だったのでスカッと靴が空振りしただけだった。
「じゃあ、私は死んでないってことですか?」
「うーん。どうだろう。それはよくわからないなあ。そもそもここは生身で来れる場所じゃあないから。多分、君は死んで魂だけっていうのが一番ありえるんじゃないかな」
上げて、落とされる。高低差日本一のジェットコースターに突っ込まれた気分で私は彼の話を聞いていた。やっぱり死んでるのか…。
「でも、そうだね、死んでいようが生きていようが、人がこの中に長くいられるハズはないんだけど…」
彼はふっと右上を見ながら何やら思案している。私はというと、彼の口から出る言葉の大半が良くわからないということを理解して、ぼけっとそれを聞いている。
「あ、そうか、なるほどなるほど」
すると突然男の人は嬉しそうにこちらを見た。ぽんと拳で手のひらを叩く、昔ながらのひらめいた!ポーズ付きだ。
「なんで君を見た瞬間に思いつかなかったんだろう。君はツキシロってことだね」
「はい?」
何を言い出すんだ、この人は。
「いや、私、ツキシロって名前じゃないんですけど…」
私の声も無視して彼は私の手を取る。あまりに冷たくてびっくりした。
赤い目といい、低すぎる体温といい、なんだかまるで人間じゃないみたいだ。あ、でも死人なら手ぐらい冷たいのかもしれない。
「じゃあ、君はここから出れるよ」
「本当ですか?」
声に不信の色が篭ったのは、彼の今までの言動がどれも理解の範疇を微妙に外れていたからだ。
「出れるよ。そもそも、君がここに来てしまったのは多分、半分俺のせいだから。うん、だから俺が出してあげられるよ」
なんと。ニコニコととんでもないことを言い出す黒髪の男性。
どこか憎めないのは見た目のせいだろうか。美形ってずるい。
「ああ、でも、助けてあげる代わりに、一つお願いごとを聞いてくれるかい?」
完全に話についていけない私の顔を覗き込む。
「はい、私にできることなら…」
「ありがとう。実は、俺の子供たちの面倒を見て欲しいんだ」
子供!?この人この若い見た目で子持ちだったのか!
「君はここから出られるけれど、俺は出られない。頼まれてくれないかな」
「え?貴方は出られないんですか?」
「うん。俺と君はちょっと事情が違うから。ああ、でも、そんな顔しないで。別にそれはいいんだ。唯一心残りだったのが子供達のことだったんだけど、君が面倒を見てくれるならその心配もないからさ」
よっぽどみすぼらしい顔をしていたのだろうか。男の人は慈しむような顔で私の頭をポンポンと撫でた。
その仕草はどこか兄に似ていて、私は少し涙が出そうになった。
「どうしても、出られないんですか?」
『心残り』を残してまで、彼は死ななくてはいけなかったのに、そんなものがない私が助かっていいのだろうか。
「出られない」
「どうしても?」
「どうしても」
「…分かりました。お子さんのことは任せてください」
「うん、ありがとう。感謝するよ」
彼はこの数分で一番の顔で笑った。
「すこーーーし気難しいというか、厄介な子達なんだけど、根は優しいから」
「いくつなんですか?」
「一番下が150ちょっとかな」
年を聞いたのに、身長が返ってくるあたり、このお父さんのおとぼけっぷりが伺える。私は思わず笑ってしまって、その様子をみて彼もふふっと笑った。
「じゃあ、君はもう行かないと。こんなところに長く居てはいけないよ」
「はい」
彼が手を出したから、私もそれに倣うように右手を出してそれに乗せる。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったね」
「若葉です。設楽若葉」
「若葉か。いい名前だ」
彼はぎゅっと私の手を掴んだ。
「目を覚ましたら、多分リンドウに会うと思う。俺の子供一号だよ」
「はい」
「俺の名前は桐儀。俺の名前を出せば、リンも状況をわかってくれると思うから」
「はい」
ぱっと、視界が白くなった。今まで闇に包まれていたので、目がくらむかと思ったけど、そんなことはない。優しい光だった。
「桐儀さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。君に会えてよかったよ」
視界に光が溢れて見えなかったけれど、桐儀さんが笑ったのが分かった。最初から最後まで、優しげな笑みをする人だ。
「じゃあね、若葉。元気で」
「はい」
私も『元気で』と返そうと思ったけれど、寸でのところで止めた。
意識が遠ざかる寸前に、桐儀さんが何か呟いた。
それは「ごめんね」という四文字に聞こえた。