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ふと目が覚めると真っ暗闇が広がっていた。
右を見る。左を見る。真っ暗。
試しに腕を伸ばしてみた。何にも当たる気配がない。
布団の中かと思ったけどそうではないみたい。
はて、どうしてこんなところにいるのだろうかと私は目が覚める前の一番手前の記憶を手繰り寄せる。
そこで合点がいった。そうだ、私死んだんだ。
今日は心地いい5月の日だった。私は教科書片手に横断歩道を渡っていた。
教科書片手に、というのは何も私が模範的優等生で登校時間も惜しんで勉学に励んでいたから…では決してなくて、ただ単にその日行われる小テストに向けてのことだ。
ただの小テストならそんなことは絶対にしないけれど、なんてったって教科は化学、教師はあのハゲ…ではなくて相沢教諭なのだから仕方ない。
彼の授業内に行われるテストは、75点以上合格で前回までの授業内容が主、つまりどんどん出題範囲は広くなる。一回落ちればネチネチとした小言、続けて落ちれば人格を否定するほど化学の適性を問われ、三回連続落ちようものなら膨大な量の課題冊子を満面の笑みで手渡されるという、勉強嫌いの学生たちの頭を悩ますに十分な親切設計になっていた。
私はその日まさしくリーチ。前回73点という非常に悔しい結果を叩き出し、「お前の頭は化学を学ぶに足る理論的な回路を持ち合わせてはいないのか?」とかなんとかねっちこく聞かれたところだ。そんなの私が知りたい。
ということで、私は必死こいて大嫌いな化学の教科書と向き合いながら心地いい朝の光の中を登校していた。口から漏れるのは暗記すべき化学式と「あのハゲ、髪全部落ちろ」とが半々だ。自分の不勉強さを反省する気持ちは昨日の夜、リーチであることすら忘れていたことに気付いた時点で摩耗していた。許して欲しい。私も一介の無力な学生だ。
「げ、信号変わる」
目の前の信号機はまさしく青から赤へ変わろうとしていた。「つまりなんだ、酸性か…」などとリトマス紙と重ねて考えてしまうあたり、私の脳は化学のやりすぎで限界に達しているらしい。
私は走り出した。ここの信号は長くて、一度赤になったらなかなか前へ進ませてもらえない。別に遅刻ギリギリではないけれど、今日は早めに座って万全の状態でテストに挑みたい気分だった。もう既に万全とは言い難いけど、とにかくそういう気分だ。意地だ。
たかが小テストで、と言ってくれるな、私も課題に怯える一介の無力な(以下略)。前回だってあの、最後の計算ミスさえなければ。
でも、運が悪いときってとことん悪いものだ。
地元では地味だと評判の悪い灰色のブレザーをはためかせて私は走る。左右の確認もそこそこに、私の靴は道路に書かれた白い横線を蹴った。その途端、プワーーー!とどこか剽軽な音がその場に響き渡る。
右を見ると、青い鉄の塊が視界に飛び込んできた。
叫ぶことはもとより、「よけなきゃ」だとか「危ない」だとかそんなことを考える暇すらなかった。重力が逆さまになった状態で唯一考えたことは「ああ、もうついてない」
そこで私の意識は途切れた――――。
そして次に意識が戻ったらこの暗闇だった。
回想を終えて私は頭を抱える。最期に見たのは青い空、白い雲、飛び散る鞄の中身と化学の教科書。
「せめて…せめて英語がよかった」
別に英語が好きなわけではない。ただ、人生のラストにまでこの世で最も嫌いな化学が付き纏ったことに絶賛後悔中。こんなことになるなら昨日は徹夜せずに好きなドラマやら漫画やらに費やせばよかった。
「確実に死んだだろうなあ…、あれ」
自分の身に起きた事故を客観的に頭の中で再現してみる。おそらく、即死ってやつだろう。痛みがなかったのは救いか。
「でも、意識があるってことは、どうなんだろう」
ここは死後の世界か、それとも私は生きているのだろうか。
試しに叫んでみた。
「おーーーい!」
応答なし。
「誰かいませんかー!!」
応答なし。
「おーーーーーい!!」
応答なし。
「相沢のハゲーーーー!」
応答なし。虚しくなるぐらいなんの反応もない。反響音すらしない。私の声は暗闇に吸い込まれていった。
私は足を動かしてみた。どこかに立っているという感覚はない。動かすことに力はいらないが、まるで粘性のある水に浸っている時のようにゆったりとしか動かせない。
グっとお腹に力を入れて、私はよしと声を出した。犬かきの要領で前に進む。ここはどちらが上で、どちらが下で、自分が沈んでいるのか浮いているのかも分からないけれど、どちらが前かと問われたら私が向いているほうが前だ。死後の世界だとしてもうすぐで迎えがくるのだとしても、私はおとなしく待っているのは少し退屈だ。
しばらく犬かきで進んでいたが、途中から手だけ平泳ぎに変えてみた。こっちのほうが速く進めている気がする。生前、息継ぎが大の苦手でほとんど泳げなかったけれど、ここはその必要がないからいいな、と思った。
粘度のある暗闇をかき分けて進む。時折、声を上げてみたりしたが相変わらず反応はない。暗闇に触感があるくせに、口を大きく開けても何も入ってこないのが不思議だ。
1時間経ったのか、それとも10分程度なのか、周りに何の変化もないと時間の経過すら良くわからない。私は一旦止まってみた。ちょっと飽きた。
ため息をついてほんのちょっと体を丸める。そうして、自分は死んだのだと改めて脳で確認してみた。
涙が出なくて、そのことに悲しくなる。未練がないのは喜ばしいことだが、それは精一杯生きて結果を出せたからではなく、特に何にも精一杯にならなかったからだと自覚していた。
友達もいたけれど、特筆して別れるのが惜しい子はいない。心残りなのは今日は唐揚げを食べに行こうと兄と話していたのをすっぽかしてしまったことだろうか。化学のテストはもってのほかだ。
結局、私の17年はそこそこ楽しかったけれど、執着はできなかったってことだ。