十二月の織姫
いつも通り始業三十分前に職場に出社し、美紀はメールや回覧物のチェックを一通り行っていた。二つ上の前島先輩は美紀よりも十分遅れて、直属の小川係長は十五分遅れて出社し、いつもと何の変わりもない平日の朝が過ぎていった。
朝礼の終わった八時四十五分、私物である美紀の携帯電話が鳴った。こんなに朝早く電話が鳴ることは珍しい。
―もしもし。
―美紀、おばあちゃんが、今朝亡くなったの。
母の声は、どこかとてつもなく遠いところから届いてくる気がした。
仕事を早退し、美紀は実家への電車に揺られていた。喪服はクリーニングに出していなかったので背中の部分にしわが寄っていて、急いでアイロンをかけた。昨日、祖母と最後に会った時、祖母は眠っていたので一度も言葉を交わせなかったことを美紀は思い出していた。そして祖母の部屋にあった短冊と、昨夜自分が流れ星に願ったことを、美紀はかみしめるように考えていた。
「今朝、ホーム長から電話があって、おばあちゃんの意識がないって」
実家の最寄り駅で母の車に乗り込み、助手席に乗った途端に母が言う。地元の国立大学に通っている弟は父と先に向かっているということだった。
「ホームについた時には往診の先生が来ていて、もう……」
「おばあちゃん、苦しんだの?」
母は車の進行方向を見つめたまましばらく言葉を出さなかったが、おもむろに答えた。
「ううん。静かに眠っているようだったわ。朝七時前だったかな? 呼吸が止まったのは」
七時前……美紀は今朝、部屋で見た二人の人影を思い出した。あれはちょうど七時前だった。白い服を着た男の人と、髪の長い女の人。
「おかあさん。今朝、ちょうど七時前に、部屋で白い服の男の人と長い髪の女の人を見た」
母は進行方向に顔を向けたまま、視線だけを美紀に向けた。
「一瞬で、すぐに消えちゃったけど、夢じゃなかった」
「白い服って、どんな服?」
「分からない……でも、制服みたいな、きっちりした服」
「そう……」
母はそれきり黙ってしまった。美紀も適切な言葉が見つからず、二人きりのドライブは異様に長く感じた。母がオートマ車のアクセルを加減する度に変化するエンジン音を、美紀は抑揚がない冬の空気の中にじっと聞いていた。
遺体が安置されている葬儀社に着いて、美紀は祖母の遺体と対面した。細く、しわが目立つ死に顔であったが、不思議と悲壮感は抱かなかった。
「ほんとだね。おばあちゃん、眠ってるみたい」
「そうでしょう?」
母は、棺を覗く美紀の背後から答えた。
「美紀。これ、見てみて」
「え?」
振り返ると、母が何やら小さな写真を持って立っている。
「なに、これ? 写真?」
白黒の随分古い写真だった。起立しているような男性と、椅子に座って微笑む和服の女性が写っていた。何となく、二人に見覚えがある気がした。
「若い頃のおじいちゃんと、おばあちゃんよ」
「え」
そう言われてみると、白黒写真であっても男性が着ている服は純白に見える。女性は髪が長く、二人は今朝部屋で見た幻に違いないとしか思えない。
「今朝、あたしの部屋で見たの、この二人だよ」
美紀は写真を両手の親指と人差し指でしっかりとつかみ、写真に顔を近づけた。じっと見つめていると色がないとは思えない力強さで、被写体の若い二人は美紀に対して笑いかけてきた。
「おじいちゃん、格好いい……おばあちゃんも綺麗だね」
美紀は思わずそうつぶやいた。
「おじいちゃんは、海軍兵学校を出た優秀な将校だったのよ」
「へいがっこう?」
「今の防衛大学みたいなところかな」
直立し、顎を引いてレンズを見据える祖父は目をそらしたくなるほど迫力があった。今、目の前に写真のままの祖父が現れたら、きっとどきどきしてしまうほど祖父は凛々しかった。
「おじいちゃんは、どこで亡くなったの?」
「タラワっていう島。太平洋の南の方の、小さい島よ」
タラワなんて聞いたことがない。どこにあるのか見当もつかない。けれど、無性にその島について知りたいと思った。あわよくば、祖父が眠っている島に、行ってみたいとさえ思った。
祖母は待ち続けていた。六十五年以上祖父の帰りを待ち続けていた。けれど祖父は還って来なかった。還っては来なかったが、祖母は再び祖父に会えたのだろうか。二人は再び結ばれたのだろうか。
美紀は思う。祖母が生きている間、今ほど祖母について思いを馳せたことが一度でもあっただろうか。祖母ともっと話せば良かった。祖母に色々、昔の話を聞いておけば良かった。
死亡診断書を持って、美紀は母と市役所に向かった。死亡届を提出し、火葬許可証の交付を受ける。火葬が終わると、埋葬許可証が公布され、遺骨の埋葬が可能となる。人の死は数種類の紙切れだけで処理されてしまう。余りに事務的過ぎて、美紀は心臓を締め付けられるような苦しみを覚えた。
市民課の窓口前で美紀と母は順番を待った。一階の入り口付近にある市民課周辺は、エレベーターが開いて人の出入りがある度に寒気が入り込んでくる。一階から二階まで吹き抜けになっているやたらと高い天井も、廊下を人が歩く際の硬質な響きも、順番が来たことを告げる電光掲示板の機械音も、全てが感情を伴っていないように思えてやるせなかった。
「ありがとう、ありがとうございます……」
美紀たちのすぐ前で手続きをしていた壮年の女性が、涙ながらに何度も頭を下げながら窓口を離れていった。美紀はその光景を怪訝に見つめていたが、自分の順番が来たので窓口に向かった。
「大変お待たせして申し訳ありません」
窓口の担当者は開口一番そう言った。美紀は伏し目がちのまま軽く会釈して死亡届を提出した。担当者はしばらく目を通しているように見える。必要事項が記入されているかどうか確かめているのだろうか。視線を落としたままの美紀には彼の手元しか見えない。
「この度は、ご愁傷様でした。大正七年生まれ、九十三歳の大往生ですね」
予想もしなかった言葉をかけられ、美紀はうろたえたが、何となく、祖母のことをもっと知ってもらいたい気がして、書類だけで処理されてしまうのが嫌で、美紀は言葉を絞り出した。
「祖母は、夫を戦争で亡くしました。認知症になったんですけど、ずっと祖父の還りを待っていたようです」
「そうですか……季節外れの織姫ですね。おばあさまは」
肩に入っていた変な力が、すっと抜けていくのを感じた。美紀は視線を少し上げた。担当者の胸に付けられた職員証の、佐藤崇という名前を呼んだ。“税金泥棒”自分がかつて放った言葉が蘇ってきた。室温は全く上がっていないのに、胸の内側から外側に向けてぐっと熱が伝わっていくように思えた。
視線をもっと上げて彼の顔を見る前に、美紀はまぶたを閉じた。目の前に広がった暗闇の中に、流れ星が一つ落ちた気がした。




