星に願いを
「あたし、五時には帰るよ? 明日仕事だし」
美紀はそっけなくそう答えた。年末の繁忙期で業務は多忙だ。
「分かってるわよ。でもおばあちゃんには会っておきなさい」
母は一旦言葉を切って、ゆっくりと続けた。
「寒くなると、年寄りは体調を崩すから。おばあちゃんは九十を過ぎてるのよ? もう何回会えるか……」
正直に言って、美紀はうんざりしていた。祖母のことが嫌いなわけではない。けれど、実家に帰る度に祖母の入居するグループホームに行かされるのは、義務以外の何物でもなく嫌気がさしていた。
「今会っておかないと……」
「分かってるって。言わなくても分かってるよ」
母の言葉を遮り、美紀は語気を強く言葉を放ったが、苛立ちをそのまま出してしまったことを後悔した。内孫の美紀は十八まで祖母と一緒に暮らして可愛がってもらった。恩も十分感じている。そんなことは分かっている。分かっているからこそ、母にあれこれ言われたくない気持ちがある。
美紀は実家から電車で一時間のアパートで一人暮らしをしている。そう遠くはないので、実家には月に一回は帰省している。アパートに帰る道すがら、美紀は母の運転する自動車の助手席に乗り、生まれ育った埼玉県北部の田舎町をぼおっと眺めていた。美紀が一人暮らしをしている都内に比べれば、別の国のように空が暗く星が多い。美紀は信号で停車する度に窓から覗く星の数を無言で数えた。
「美紀、あの人とはどうなったの? お付き合いしていた人」
「別れた」
「そう」
積極的には話したくないことなので、美紀は適当に短く答えた。母が言及したあの人とは、以前交際していた佐藤崇のことだとすぐに分かった。別れてもう一年半になる。
「仲良かったじゃない。お似合いだったと思うけど」
「やめてよ。その話は」
無言になると、コンパクトカーの狭い車内は余計に窮屈に思えて仕方ない。崇は高校と大学の同級生で、中学は違うが実家同士もそう離れていない。二人は大学の三年半と社会人になってから三年半、合計七年間交際していた。お互い二十六歳になっていたし、友人からはいつ結婚式の招待状をくれるのかとちゃかされていた。けれど、別れは突然やってきた。きっかけはつまらないことだったが、小さなひびが大きな亀裂となり、再び修復されることはとうとうなかった。美紀は別れる直前のやり取りを思い出す。
「まだ諦めないの? 公務員。もう五回も落ちてるのに」
「うん。やりたいことがあるから」
公務員になってやりたいこと? 口実でしょう? 結局安定とか、仕事が民間ほどシビアじゃないとこに惹かれているんでしょう? もうちょっとでそう問いかけるところだったが、美紀はぐっと堪えた。
「何を、やりたいの?」
「もう利益ばっか考えるのは疲れちゃったからさ、利益度外視で働きたいんだよね。市民のために」
「……具体的に、何よ? 良く分からない」
「戸籍とか、住民票とか、道路とか、公的住宅とか、もうからなくて民間じゃできない、でも必要な仕事をやりたい」
「ふーん……。なんか、つまんないよね? 夢が公務員ってさ。落ち着いちゃってるっていうか」
「美紀は? 何になりたいの?」
そう問いかけられて美紀は答えることができなかった。就職活動の時、美紀は知名度や人気、福利厚生、給与などで就職候補を決めた。結果として誰もが知っている上場企業の一般職になれたのだが、手放しで満足な結果だとは言えない。自分がやりたいことが何であるのか、自分は何が得意なのか、社会にどんな形で貢献しているのか、美紀は胸を張って言い切ることができなかった。
「なに、それ」
「え?」
「あたしが、何の目標もなく生きてるって言いたいの?」
「そんなこと言ってないよ」
沈黙が訪れ、結局そのまま会話はなかった。その日は泊まらずに、自分のアパートに帰った。驚くべきことに、そんな些細なことがきっかけで二人は破局を迎えた。
「あたしのこと、馬鹿にしてるんでしょう?」
「美紀、俺の話も聞いてよ」
「公務員の彼女作ればいいじゃん? 税金泥棒同士さ?」
「何だよ。その言い方」
一緒にいた七年間が何の意味も成さなくなった気がして、美紀は心臓をえぐられるような強烈な虚しさを感じた。
祖母が入居するグループホームは二つのユニットに分かれている。各ユニットは定員九名で、祖母は二階のユニットで暮らしている。グループホームは特別養護老人ホームと違い、少人数で暮らす家庭的な雰囲気だ。大規模施設の機械的な介護に抵抗があった母が、このグループホームに決めた。祖母は軽い認知症を患っていたが、いつも静かににこにこしていた。物忘れはあったが、祖母はどこにでもいる九十過ぎのおばあちゃんだった。
「これ、何?」
祖母の部屋にある観葉植物についているそれを美紀は指さした。
「あら。今まで気付かなかったの? 三年前に入った時からあったわよ?」
「……だって、こんなに小さいし」
一見するとそれは七夕の時に笹に結ぶ短冊のように見えた。
「おばあちゃんが書いたのよ。入った時はちょうど七夕の時期だったから」
美紀は短冊のような紙片を手に取った。筆書きで書かれているのだが、余りに達筆過ぎて読むことができない。
「何て、書いてあるの?」
美紀は母を見てから、祖母に視線を移した。祖母はベッドで寝息をたてている。
「中尉殿が、無事帰還されますようにって」
「え?」
「おじいちゃんよ。戦争で亡くなったおじいちゃん」
美紀の母方の祖父は戦死した。詳しくは知らないが、戦争で死んだことだけは聞かされていた。
「おじいちゃん。死んじゃったんでしょ?」
「そうね。でも、おばあちゃんは生きて還って来るって信じているのよ。だって、遺骨も遺品も戻ってきてないんだから」
祖母の寝顔を見ると、穏やかに、皺の一本一本をゆっくりと動かしながら眠っていた。静か過ぎてこのまま二度と起きることがないように思えたが、怖くなってすぐ想像をかき消した。
東京のアパートに戻って、美紀は手早く寝る準備を済ませてベッドに入った。翌日、連休明けで仕事に行かなければならないのを思うと気分が沈んだ。美紀はベッドから上半身だけ起こし、すぐ横の窓を開けた。冬の外気が風呂上がりの肌を一気に冷やし、火照りが心地良く治まっていくのを感じた。十二月の夜空は澄んだ空気に星が無数に輝き、都内でこんなに多く星が見えることを初めて知った気がした。
「あ。流れ星」
視界の左上から右下に向けて、流れ星が一つ落ちた。美紀はすぐさままぶたを閉じ、無言でつぶやいた。
―おばあちゃんがおじいちゃんに会えますように。




