静かな姉は「平気でしょう」と婚約者を妹に譲らされます
痛いとき、わたしは左の手のひらに爪を立てる。
息を三つ数える。それで、たいていのことは静まる。
この国の海の水は、覗く人の心が静かなときだけ、星を映す。だから、わたしの盃にはいつも星が映る。
皆はそれを、わたしが平気だからだと思っている。
ボネ子爵家の大広間には、天井に八つの星窓が開いていた。新月の夜で、星はよく降りていた。給仕が客の帯盃に、汲み場から届いたばかりの海の水を注いでまわる。
わたしは弟たちの盃の蓋がきちんと閉まっているかを順に確かめ、末の妹の裾のほつれを指で押さえ、母の代わりに年配の夫人へ礼を返した。上の弟は退屈そうに柱にもたれ、下の弟は菓子の皿ばかり見ている。母は向こうで、ボネ家の遠縁の奥方と話しこんでいた。
南東の果樹園しか持たない田舎の伯爵家が、王都の夜会に呼ばれるのは、わたしがボネ家の跡取りと婚約しているからだ。ボネ家は、社の汲み場の地主の家だ。王都の夜会で注がれる水は、たいていこの家の汲み場から来る。母はその縁を、一夜も無駄にしない。
「シャルロット。疲れていないか」
隣で、婚約者のフェルナンさまが言った。ボネ家の跡取りで、わたしより三つ年上の人だ。
「平気です」
「そうか。君はいつもそうだな」
彼は安心したように笑って、杯を取った。
婚約の前の試し映しで、わたしたちの盃には星が二つ映った。二人とも、互いの前で心が静かだということだ。恋ではない。わたしたちは、互いに楽な相手だった。彼は揉めごとが嫌いで、わたしは揉めごとを起こさない。それで十分だと、わたしも、両家も思っていた。
妹のリリアーヌが、人波を抜けてこちらへ来た。
頬が赤い。去年社交界に出たばかりの妹は、よく笑い、よく泣き、腰の盃はいつも小さく揺れている。家じゅうが、その揺れに気を配って暮らしてきた。リリアーヌが熱を出せば母が付きっきりになり、泣けば父が困った顔で菓子を買ってくる。そのあいだの弟妹の世話と家の帳簿は、わたしの仕事だった。
「フェルナンさま」
リリアーヌは、わたしを見なかった。
自分の盃の蓋を開けた。
そして、それをわたしの婚約者に差し出した。
蓋を開けて差し出すのは、一緒に覗いてくださいますか、という申し込みだ。ダンスの誘いにも、それ以上の意味にもなる。広間の話し声が、波が引くように小さくなった。
フェルナンさまは、わたしを見た。それから、周りの目を見た。人前で、伯爵家の娘の蓋を断ることはできない。断れば、娘に恥をかかせる。彼は困った顔のまま、妹の盃を覗いた。
水が震えた。二人とも。細かい波が立って、星は一つも映らなかった。
相手の前で水を揺らすのは、隠しきれない好意の告白になる。
「恋だ」
どこかで、若い男が言った。荒れこそ本物の恋だと唱える、嵐派の若者たちが手を叩いた。年配の夫人たちは扇の陰で眉をひそめた。リリアーヌは真っ赤になって、それでも盃を引かなかった。
それから、皆の目が、わたしに集まった。
かわいそうに、という目。どうするのかしら、という目。何かが起きるのを待っている目。
「お姉様の水は?」
誰かが言った。
わたしは左手の爪を、手のひらに立てた。一つ、二つ、三つ。息を数えて、自分の盃の蓋を開けた。
水は静かだった。星が一つ、映っていた。
広間に、ほっとした空気が広がった。
「さすが、落ち着いていらっしゃる」
「お姉様がああなら、大事にはならないわね」
楽団が、思い出したように次の曲を始めた。わたしは蓋を閉じた。誰も、わたしの左手を見なかった。
——一人だけ、いた。
窓際に、盃を持たない男が立っていた。日に焼けた顔で、上着の仕立てが王都のものと違う。皆がわたしの盃を見ている中で、その人だけが、わたしの握りしめた左手を見ていた。
目が合った。彼は何も言わず、少しだけ眉を寄せた。
なぜそんな顔をされるのか、そのときのわたしには、わからなかった。
帰りの馬車で、母はわたしの膝を軽く叩いた。
「あなたがいてくれて、本当に助かったわ。あの場であなたまで荒れていたら、どうなっていたことか」
向かいの席で、リリアーヌは盃を胸に抱いたまま、窓の外ばかり見ていた。
*
翌晩、借り屋敷の小さな映し庭で、話は済んでいた。
「婚約は家同士の書面だ。名前を書き換えるだけだ」
父は手紙を一枚、卓に置いた。ボネ家からの返事だった。姉でも妹でも、当家に異存はない、と書いてあった。
わたしは手紙を読んだ。二度読んだ。わたしの名前は、どこにもなかった。「姉」と書いてあるだけだった。
「リリアーヌの水を、皆が見てしまったのよ」
母が言った。
「あの子は恋をしてしまったの。あんな荒れ方を人前で見せて、ほかへ嫁げると思う? ボネ家との縁を切るわけにもいかない。……あなたは水が静かだから、平気でしょう」
母は、わたしの腰の盃に手を伸ばした。人の盃を勝手に覗くのは無作法だけれど、母はそれを無作法だと思っていない。娘の盃は、母の盃の続きだと思っている。蓋を開けて、庭の水を少し汲み、覗く。
星が映っていた。わたしは、もう爪を立てていた。
母はほっと息をついた。
「ほらね」
何か言おうとした。
わたしの名前で結ばれた婚約だった。わたしに一言、聞いてほしかった。それだけのことが、喉の手前まで来て、そこで止まった。
母の目の下には隈がある。五人の子と、田舎の家の行く末と、王都での体面を、この人はずっと一人で抱えている。ここでわたしが荒れたら、この人はどこに手をつけていいかわからなくなる。
「はい。平気です」
父がうなずいて、手紙をたたんだ。それで決まった。
階段を下りる足音がした。リリアーヌが、泣きはらした目で庭へ出てきた。腰の盃の水が、蓋の中で揺れているのがわかる。
「お姉様、ごめんなさい。わたし、止められなくて。止めようとしたのよ。でも、フェルナンさまの前だと水が勝手に……。眠れないの。ずっと荒れてて」
妹は、わたしの盃を見た。
「その盃、貸して。お祖母様の盃なら、落ち着ける気がするの」
「あげなさい」
母が言った。
「あなたは、どの盃でも星が映るでしょう」
銀の盃の底には、祖母と母の婚礼の日付が刻まれている。その下は、わたしの日付のために空いていた。
初映しの夜を覚えている。十六の春だった。広間の真ん中で一人で盃を覗く前、わたしは怖くて、手が震えた。それで、手のひらに爪を立てた。息を数えた。水には星が映った。皆が拍手をした。母は、この盃をわたしの腰に下げて、あなたなら大丈夫ね、と笑った。
あの夜から、わたしは「大丈夫な子」になった。
蓋には、ボネ家の家紋の汲み桶が彫ってある。婚約のとき、フェルナンさまから贈られて、わたしがはめた蓋だ。求愛の蓋をはめるのは、受け入れたしるしになる。
わたしは鎖を外して、盃を妹の手に置いた。蓋ごと。
婚約が、そのまま形になって、妹の手に移った。
「ありがとう、お姉様」
リリアーヌは盃を両手で包んで、少し笑った。その笑顔に、悪意はなかった。妹は本当に、わたしが平気だと信じているのだ。
部屋に戻って、左手を開いた。三日月の形の跡が、四つ並んでいた。
*
満月の夜は、月が明るすぎて星が水に映らない。だから「月夜は盃をしまう」と言う。心の話をしない夜。商談と書面の夜だ。
父は帳場に顔を出しただけで、あとは頼む、と言って出ていった。十五の年から、うちの帳簿はわたしがつけている。父は数字を見ると頭が痛くなるのだそうだ。林檎の出荷も、干し林檎の値も、群島へ出す船便の契約も、わたしの字で書かれている。
秋の船便の相手は、西の群島、ルアン島の船主だった。
扉を開けて入ってきたのは、あの夜の窓際の男だった。
「ナヒルといいます。お父上ではなく、あなたが帳場を見ていると聞きました」
「シャルロットです。父の代わりに伺います」
夜会のことには触れなかった。彼も触れなかった。
彼は契約書の写しを卓に広げ、一つの項を指で押さえた。島の船が遅れたら、一日ごとに罰金を払う。港の都合で遅れても、だ。
「これは、島に不利です。去年、王都の港で荷揚げを三日待たされた。こちらのせいじゃない。それでも罰金を払った」
声が荒くなっていた。怒っているのを隠さない人だ、と思った。
わたしは読んだ。三年前、父がよそから聞いてきて入れさせた項だった。去年の罰金の記録も、わたしの帳簿にある。わたしはそのとき、おかしいと思った。思って、父に言わなかった。
「おっしゃるとおりです。港の都合の遅れは、除きます。去年の三日分は、秋の代金から差し引きます」
その場で書き直した。ナヒルは、少し驚いた顔をした。
「言い争うつもりで来たんですが」
「争うほどのことではありませんから」
「あなたの帳簿は、水より正直ですね」
わたしが署名しようとペンを取ったとき、彼の目が、わたしの左手で止まった。
「あの夜」
彼は言った。
「あなたの水は静かでした。でも手は、ずっと握っていた」
ペン先が止まって、インクが一滴、紙に落ちた。
誰もが、わたしの盃を見る。星が映っているかどうかを見る。それで、わたしのことはわかったつもりになる。手を見られたことは、一度もなかった。
「……水を見ないで、手を見る方がいるのですね」
「島では盃を持ちません。手で汲みます。だから、つい手を見る」
彼は肩をすくめた。
「失礼でしたか」
「いいえ」
わたしは、インクの染みを吸い取り紙で押さえた。
「いいえ。失礼では、ありません」
彼はそれ以上何も聞かなかった。署名の済んだ書面を丸め、帰り際に言った。
「この季節の最後の船は、大凪の翌朝に出ます。荷があれば、それまでに」
扉が閉まった。わたしは左手を開いて、月明かりの中で、自分の手のひらを初めてまじまじと見た。古い跡と、新しい跡が重なっていた。こんなにたくさんあったのかと、自分で驚いた。
*
「リリアーヌとフェルナンさまの書面は、次の満月に交わすわ」
母が言った。
「その前の新月の夜会で、二人を並べてお披露目するの。段取りは、あなたが一番手際がいいから」
わたしは衣装を選び、招く客の名を書き出し、ボネ家への手紙を書いた。自分の後に来る婚約の段取りを、自分の手で整えた。
フェルナンさまが一度、打ち合わせに来た。客間で二人になったとき、彼は落ち着かない様子で、何度も杯に手を伸ばした。
「シャルロット。すまないと思っている」
「何をですか」
「いろいろ、だ。……でも、君なら、わかってくれると思った」
わかってくれると思った。だから聞かなかった、という意味だと、わたしにはわかった。
「客の名簿です。ボネ家のほうで足す方がいれば、明日までに」
わたしは紙を渡した。彼はほっとした顔で受け取った。わたしがいつもどおりなので、安心したのだ。
リリアーヌは仕立て屋の前でくるくる回りながら、腰の盃を——祖母の盃を——覗いては、嬉しそうに水を揺らした。
「お姉様、平気よね?」
「平気よ」
末の妹が、わたしの手を取った。
「お姉さま、手、いたい?」
小さな指が、手のひらの跡に触れかけた。わたしが答えるより先に、母が末の妹を呼んだ。妹は走っていった。
父は、新しい盃を買えばいいと言った。わたしは買わなかった。
どの盃でも星が映るのなら、盃なんか要らない。誰にも、もう見せたくなかった。
二度目の新月の夜会に、わたしは盃を持たずに出た。
「盃もお持ちにならないなんて」
「お姉様は何があっても平気な方だから。婚約者を妹君に譲られても、あの通りよ」
扇の陰の声が聞こえた。
顔見知りの子爵家の令嬢が、わたしの前で蓋を開けかけて、手を止めた。
「まあ、ごめんなさい。お持ちでないのね。シャルロットさまとなら、きっと星が二つ映ると思ったのに」
「また今度」
わたしは笑って頭を下げた。今度がいつ来るのか、わたしにもわからなかった。
リリアーヌとフェルナンさまは並んで立ち、妹は祖母の盃の蓋を開けて皆に見せた。水は荒れていて、嵐派の若者たちがまた手を叩いた。フェルナンさまは、自分の盃を見せなかった。
わたしは段取りどおりに楽団へ合図を送り、遅れた客を席へ案内し、空いた杯を下げさせた。給仕に水の継ぎ足しの間合いを伝え、気分の悪くなった老夫人に椅子を運ばせ、口論になりかけた若者二人のあいだに、さりげなく菓子の皿を置いた。夜会は滞りなく進んだ。
母が遠くから、よくやってくれているわ、という目でうなずいた。わたしはうなずき返した。手袋の中で、左手を握った。
わたしの居場所は、ちゃんと残っていた。他人の幸せを整える場所として。
*
夜会を抜けて、王都の浜へ下りた。
靴に砂が入った。かまわなかった。
波打ち際で、ルアン島の水夫たちが、手のひらに海の水をすくって覗き合っていた。笑い声が上がる。誰かの水が荒れたらしい。荒れた水夫は仲間に頭を小突かれて、照れくさそうに笑っていた。荒れても、誰も困った顔をしない。
「盃がないなら、手で汲めばいい」
ナヒルが、わたしの隣に来ていた。
「指を閉じて。両手で舟を作るんです」
言われたとおりにした。冷たい水が指の間からこぼれ、残った水に、星が降りてきた。
生まれて初めて、盃なしで海を覗いた。
水は静かだった。星が映っていた。
「いま、息を数えましたね」
隣で、ナヒルが言った。わたしは手の中の水から目を上げた。水を見てもわからないことを、この人は見ている。
「……癖なんです」
「いつから」
「初映しの夜から、だと思います」
わたしは、手の中の星を見下ろした。
「怖かったんです。広間の真ん中で、一人で覗くのが。手のひらに爪を立てたら、震えが止まって、星が映りました。皆が褒めてくれた。母も。……それから、困ったときは、いつもそうするようになりました」
「それは、静かとは言いません」
責める声ではなかった。
「島では、それを『水を押さえる』と言います。押さえた水も、星は映す。水には同じに見える。だから島の者は、水より先に、手と息を見るんです」
「夜会の夜も、それで」
「あの広間で、星を見ていなかったのは、たぶん、わたしだけでした」
ナヒルはしばらく黙った。それから、自分の両手で海を汲んで、わたしの前に差し出した。
彼の水は、小さく揺れていた。星は映っていなかった。
「怒っているんです」
彼は言った。
「あなたの家の人たちに。会ったこともないのに。島の者は、すぐ水に出る」
わたしは、彼の手の中の揺れる水を見た。わたしのために荒れている水を、初めて見た。
「静かな子ほど先に泣かせてやれ、って、島の年寄りは言います」
わたしは笑った。笑うつもりはなかったのに、口の端が勝手に動いた。
「頼みたいことがあります」
彼は水をこぼして、浜の砂に腰を下ろした。
「島長会が、西への航路のことで、王国やよその商人から書面を山ほど突きつけられている。島には、王国の契約を読める者がいない。読めないまま判を押して、損をしてきた。島の側に立って帳場を見てくれる人が要るんです。あなたの帳簿は正直だった。給金は、島の決まりで払います」
「……求婚ではないのですね」
「仕事の話です」
彼は真面目な顔で言った。それから、少し困ったように付け足した。
「満月の夜にすればよかった」
わたしはまた笑った。手の中の水がこぼれて、膝を濡らした。
*
借り屋敷に戻って、申し出を受ける手紙を書きはじめた。
ルアン島の島長会御中。帳場のお申し出、ありがたくお受けいたします。——そこまで書いて、三行目で、階下から泣き声がした。
リリアーヌだった。ボネ子爵——フェルナンさまのお祖父様——が、書面を交わす前に、二人の試し映しを見たいと言ってきたのだという。妹は祖母の盃を抱えて、怖い、と泣いていた。荒れていたら、また何を言われるかわからない、と。
母が、疲れきった顔で、わたしの部屋の戸口に立った。末の妹が熱を出しているのだと言った。上の弟は学院の費用の話をしに来たのだと言った。父は、ボネ子爵への返事をどう書けばいいかわからないと言っているのだと言った。
「あなたがいないと、この家は回らないわ」
母は、申し出のことを知らない。知らないまま、言った。
「リリアーヌを置いていくつもり?」
わたしは、机の上の書きかけの手紙を見た。母の目は、そこまで届かなかった。
わたしは手紙を折った。
「どこへも行きません」
自分の声だった。母の声ではなかった。
「わたしは、平気ですから」
母の肩から、力が抜けた。ありがとう、と言って、母は階下へ戻っていった。
翌日、港へ断りに行った。ナヒルは、桟橋で荷の数を数えていた。わたしの顔を見て、何を言いに来たのか、わかったようだった。
「わかりました」
彼は押さなかった。わけも聞かなかった。
「船は大凪の翌朝に出ます。それまで、席は空けておきます」
「空けておかなくて、いいのです」
「空けておくのは、こちらの勝手です」
帰り道、左手を開いた。跡が、また増えていた。跡のない手のひらを最後に見たのがいつだったか、思い出せなかった。
*
二度目の満月の夜、ボネ子爵家の書斎で、婚約の書面が広げられた。
リリアーヌの腰には、祖母の盃。蓋にはボネ家の汲み桶。フェルナンさまは妹の隣で、書面から目を上げなかった。わたしは段取りの係として、壁際に控えていた。
ボネ子爵は老いた手で筆を取り、それから、置いた。
「初夏の夜会で、孫の水も荒れていたな」
子爵は、汲み場の地主として、何十年も婚礼の水を見てきた人だ。
「荒れにも種類がある。わしは水読みではないが、あれくらいはわかる。あれは、恋の荒れではなかった」
リリアーヌが息をのんだ。フェルナンさまは、否定しなかった。目を伏せたまま、黙っていた。
「試し映しをするまでもない。姉君とは、星二つだったと聞いている」
子爵は、壁際のわたしを見た。
「書面は、姉君となら交わそう。静かな嫁は、家の宝だ」
家の宝。わたしは、その言葉を胸の中で繰り返した。この人は、わたしの静けさを正しく見ている。正しく見て、それを欲しがっている。わたしの心のことは、一言も聞かないまま。
妹が泣き出した。母の顔から血の気が引いた。父は、どこを見ていいかわからないように、書面の端を指でそろえていた。
「少し、席を外させていただきます」
母が言って、わたしの袖を引いた。
廊下で、母がわたしの手を取った。
母の手には、祖母の盃があった。妹の腰から外してきたのだ。蓋には、まだ汲み桶が彫られている。
「あなたが嫁いで」
母は言った。
「リリアーヌには、また別の縁があるわ。あの子はまだ十七だもの。盃も返す。この盃は、もともとあなたのものよ。……あなたなら、平気でしょう」
廊下の窓から、満月の光が差していた。閉じた蓋の盃が、母の手とわたしの手のあいだにあった。
受け取れば、全部が戻る。祖母と母の日付の下の、空いた場所。婚約。王都の家。母のほっとした顔。あなたがいてくれて助かる、という声。わたしがずっと欲しかったのは、その声だった。
その代わり、わたしは一生、平気な姉でいる。静かな嫁として、ボネ家の宝として。誰にも、何も聞かれずに。
断れば、何もかも失う。母の顔も、王都の縁も。身分のない島へ、大凪の翌朝の船で。
書斎の戸口に、リリアーヌが立っていた。泣くのをやめて、わたしたちを見ていた。
左手の指が、手のひらへ向かいかけた。
わたしは、盃を受け取った。
*
ボネ家の映し庭には、社の汲み場から引いた水が張ってあった。わたしは庭へ下り、膝をついて、祖母の盃に水を満たした。
母がついてきた。リリアーヌも。書斎の窓に、フェルナンさまの影が映っていた。
「月夜は盃をしまうものよ」
母が言った。今夜は、心の話をしない夜だ。
わたしは蓋を開けた。
水を覗く。満月が明るくて、星は見えない。けれど、水面が動けば、それは見える。
左手の指が、いつものように手のひらへ向かった。
爪を立てかけて、やめた。
息を数えかけて、やめた。
水が震えた。
白い波が立った。それがうねって、盃の縁を叩いた。満月の光の中で、水面がはっきりと荒れていくのが見えた。止めなかった。止めようとしなかった。四年分の、いや、もっと前からの何かが、手の中の小さな水を揺らしていた。
初映しの夜から、誰も見たことのない、わたしの水だった。
母が口を開けて、何も言わなかった。月明かりの下で、母の顔が急に小さく見えた。この人は、十六のわたしを抱きしめて、あなたなら大丈夫ね、と言った人だ。あれから四年、この人は一度も、大丈夫かとは聞かなかった。わたしも、一度も、大丈夫ではないとは言わなかった。
水はまだ荒れていた。胸の奥が熱くて、目の奥も熱かった。泣くのかと思った。泣いてもいい、と思った。それでも涙は出ずに、水だけが、わたしの代わりに荒れつづけた。
「お姉様も……荒れるの?」
リリアーヌが、小さな声で言った。
わたしは盃から顔を上げた。
「平気では、ありませんでした」
声は、思っていたより落ち着いていた。手の中の水だけが、荒れていた。
「一度も」
蓋を閉じた。
汲み桶の家紋の蓋を、盃から外した。庭の入口に、フェルナンさまが下りてきていた。わたしは歩いていって、蓋を彼の手に返した。
別れのしるしだった。彼は受け取って、何も言わなかった。言えることが、なかったのだと思う。
蓋のない盃を、わたしはリリアーヌの手に置いた。
「これは、あなたに」
妹の指が震えた。
「お姉様、でも、これは」
「わたしから、あげる。取られたのではなくて、わたしがあげるの。あなたには、荒れたときに覗く盃が要るから」
底の、空いた場所。そこに刻まれる日付は、もう、わたしのものではない。妹が自分で選ぶ人のものだ。
母に向き直った。
「婚約は、お受けしません」
それだけ言った。誰のことも、責めなかった。責める言葉は、どこを探しても見つからなかった。母が悪いのではなかった。母はただ、わたしの水しか見てこなかった。わたしが、水しか見せてこなかった。
*
晩夏の新月は、大凪の夜だ。
今夜だけは、内海のすべての水が、誰が覗いても星を映す。誰の心も問われない。だから人は、この夜にだけ、言葉で想いを告げる。
港の石畳に、トランクを一つ置いた。中身は、着替えと、帳簿をつけるためのペンと、果樹園の林檎の種を少し。家の者は誰も見送りに来なかった。来ないでほしいと、わたしが頼んだ。
沖に、ルアン島の船の灯りが揺れていた。
「シャルロット」
フェルナンさまが追ってきた。息を切らして、懐の盃の蓋を開けた。
「見てくれ。星が映っている。君の前で、僕の水は静かなんだ」
盃の水には、確かに星が一つ映っていた。
「僕たちは、星二つだった。君となら、うまくやれる。祖父もそう言っている。やり直せる」
「今夜は、どの水にも星が映ります」
わたしは言った。
フェルナンさまは、自分の盃を見下ろした。それから、わたしを見た。口が開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
水のほかに、彼が差し出せるものは何もなかった。君が好きだとも、すまなかったとも、言葉が一つも、出てこなかった。
彼は蓋を閉じて、石畳を戻っていった。
桟橋の先に、ナヒルが待っていた。
「席は、空いています」
彼はそれだけ言った。
わたしたちは、水を覗かなかった。覗いても、今夜は何もわからない。
「あなたの前だと」
わたしは言った。声が少し、上ずった。
「水が、荒れます」
あなたの前だと水が静かです、というのが、この国の求婚の決まり文句だ。わたしはそれを、裏返して言った。
ナヒルは目を丸くして、それから、声を上げて笑った。夜の港に、その声がよく響いた。
「わたしもです」
彼は桟橋の板を踏んで、一歩、近づいた。
「島に着いたら、確かめましょう」
*
翌月の新月、わたしはルアン島の浜にいた。
昼は島長会の帳場で、王国の商人から届いた書面を読んでいる。島に不利な項を見つけると、島長たちが身を乗り出してくる。わたしがそれを読み上げると、年寄りの島長が怒鳴り、若い島長が笑い、誰かの湯呑みの水が荒れる。誰も困った顔をしない。
島の家には星窓がない。屋根の低い漆喰の家で、夜になると皆が浜へ出て、手で海を汲む。最初の夜、わたしの水は星を映した。癖は、すぐには抜けなかった。ナヒルは何も言わず、隣で自分の水をこぼして笑っていた。
秋の最初の船便が、果樹園の林檎を運んできた。木箱の一つに、名札がついていた。
シャルロットへ。
母の字だった。それだけだった。わたしはその名札を、帳場の机の引き出しにしまった。
王都では、フェルナンさまが夜会で懐の盃の蓋を開けて差し出しても、誰も覗かないらしい。リリアーヌは、祖母の盃を毎晩覗いては、荒れてばかりいるらしい。どちらも、船乗りの噂で聞いた。
夜の浜で、ナヒルが両手で海を汲んだ。その下に、わたしの両手を重ねた。
島の子どもたちが、わらわらと集まってきて覗きこんだ。
水が震えた。
彼の手の水も、わたしの手の水も、細かく、やわらかく揺れていた。星は映らなかった。
「さざ波だ!」
子どもの一人が叫んだ。この島では、子どもでも荒れの種類がわかる。ときめきの荒れ。ほかの子どもたちが、きゃあきゃあと笑った。
ナヒルが、耳まで赤くなった。
わたしは、鎮めなかった。
左の手のひらに、新しい跡はなかった。
手の中の水だけが、荒れていた。その向こうで、夜の海は波ひとつ立てず、ただ静かに凪いでいた。
わたしは、深く息を吸った。
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