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『お母様のような完璧な妻になれない女は要らない』と言った婚約者が、翌月の夜会で母親に土下座させられていた件

作者: 歩人
掲載日:2026/03/30

 シャンデリアの光が、広間を金色に染めていた。


 クレーヴェ公爵邸の大夜会。社交シーズンの頂点に立つこの場に招かれることは、貴族としての格を証明されることと同義だ。今宵も三百を超える招待客がきらびやかな礼装に身を包み、シャンパングラスを傾けている。


 私——セレナ・フォン・リヒテンベルクは、末席に近いテーブルで、静かにワイングラスの縁をなぞっていた。


 一ヶ月前まで、この夜会の主催者側に立っていた。招待リストを作り、席順を決め、料理の献立を吟味し、楽団の曲目に至るまで——全て私が設計していた。


 今は、招待客の一人。それも、末席の。


「セレナ」


 隣の席で、カイ・フォン・ヴェストハーゲン伯爵が小声で呼びかけた。


「……大丈夫。少し、懐かしいだけ」


「無理に笑わなくていい」


 カイの緑の瞳が、私をまっすぐに見ていた。この人はいつもそうだ。飾らず、取り繕わず、ただ事実を言う。


 その時——広間の扉が開いた。


 銀髪碧眼ぎんぱつへきがんの青年が、傍らの令嬢の手を取って入場する。クレーヴェ公爵嫡男ちゃくなん、オスカー・フォン・クレーヴェ。そしてその隣にいるのは、宰相の令嬢リディア・フォン・ヘッセンブルク。


 オスカーの、新しい婚約者。


 私の後釜。


 息を吸い、ゆっくり吐いた。心臓がきしむような感覚を、三年かけて覚えた微笑みで覆い隠す。


 ——大丈夫。もう、終わったことだから。




 三年前のことを、覚えている。


 リヒテンベルク伯爵家の長女である私がクレーヴェ公爵家の嫡男と婚約したとき、社交界は少し驚いた。伯爵家と公爵家では格が違う。なぜリヒテンベルクの娘が、と囁く声は確かにあった。


 理由は、マルガレーテ様だった。


 クレーヴェ公爵夫人マルガレーテ・フォン・クレーヴェ。社交界で「銀の女帝」と呼ばれる女性。三十年にわたり王国社交界の頂点に君臨し、彼女が主催する夜会に招かれなければ一人前の貴族とは認められない——そういう人だ。


 そのマルガレーテ様が、ある茶会で私と話した翌日、息子に言ったのだという。


「あの子を嫁にしなさい」


 婚約の翌日から、教育が始まった。




 最初の授業を、今でも鮮明に覚えている。


 マルガレーテ様の私室。窓辺に飾られた白百合しらゆりが午後の光を浴びて、まるで磨いた真珠のように輝いていた。


「セレナ。完璧な社交とは何だと思う?」


「……間違いのない礼法と、隙のない会話でしょうか」


 マルガレーテ様は微笑んだ。けれどその笑みには、ほんの少しの失望が混じっていた。


「それは八十点の答えね。——完璧な社交とは、相手の本質を見抜く目を持つこと。礼法は道具に過ぎない。重要なのは、目の前の人間が何を求め、何を恐れ、何に心を動かされるかを読み取る力よ」


 そこから三年。私はマルガレーテ様の下で、社交の全てを学んだ。


 いや、「学んだ」という言葉では足りない。叩き込まれた、というほうが正しい。




 最初に任されたのは、茶会の席順だった。


 ただ席を並べるのではない。公爵家の茶会には各国の大使も出席する。アルテンシュタット大使とヴェルデン大使は領土問題で対立している。だが二人とも、同じ馬術の趣味を持っている。その間にシュヴァルツ侯爵——馬術大会の主催者——を配置すれば、会話は自然に趣味の話題に流れる。


 政治的な火種を趣味で消す。それが席順の技術だった。


「よくできたわ」


 マルガレーテ様がそう言ってくださったとき、私の胸は高鳴った。


 次に任されたのは、外交書簡の下書きだった。


 各国大使への招待状には、それぞれ微妙に異なる文面が必要になる。アルテンシュタット大使には格式を重んじた荘重な文体で。ヴェルデン大使には少しだけくだけた、信頼を示す文体で。ノルデン公使には相手国の慣習に合わせた独特の敬称を——。


 一通一通、相手の性格と立場と文化を読み取って書き分ける。書簡は公爵家の顔であり、一文字の失礼が外交問題になりうる。


「セレナの書簡は、私が書いたものより品がある」


 マルガレーテ様にそう言われた日は、帰りの馬車の中で泣いた。嬉しくて。


 そして三つ目——夜会全体の演出設計。


 音楽、照明、料理の順番、花の配置、会話の導線。三百人の客がそれぞれ「楽しかった」と思って帰途に就く——その全体を設計する仕事だ。


 これは本当に難しかった。一つの判断ミスで空気が壊れる。料理が重すぎれば会話が沈み、音楽が派手すぎれば社交が音楽鑑賞会になる。全体のバランスを保ちながら、夜が進むにつれて少しずつ温度を上げていく——指揮者のような感覚。


「クレーヴェ公爵家の茶会は、他とは格が違う」


 アルテンシュタット大使がそう称賛したとき、オスカーは隣で笑った。


「母上の名声のおかげです」


 私の名前は、一度も出なかった。




 オスカーの口癖は、いつも同じだった。


「お母様ならもっと上手くやる」


 茶会の後、私が三日かけて準備した席順を褒めもせず、オスカーはそう言った。


「お母様の髪型を真似てみたら? そのほうが似合うと思う」


 私の蜂蜜色の髪を見て、オスカーはそう言った。マルガレーテ様の銀髪が、彼の中では「完璧な女性の髪色」なのだろう。


「お母様は、もっと堂々としていた」


 大使との会話で緊張していた私に、オスカーはそう言った。


 百回。


 数えた。正確に数えた。「お母様なら」「お母様のように」「お母様だったら」——三年間で、百回。


 私は社交術を学んだ女だ。数字には厳密だし、記憶力にも自信がある。だから正確に言える。百回だ。


 百一回目は、なかった。


 なぜなら。


「セレナ。お母様のような完璧な妻になれない女は要らない」


 その言葉で、全てが終わったからだ。




 婚約破棄の場で、私は泣かなかった。


 正確に言えば、泣けなかった。三年間かけてマルガレーテ様に仕込まれた「表情の制御」が、この瞬間に完璧に機能してしまった。


「……そうですか」


 微笑んだ。穏やかに、品よく。マルガレーテ様に教わった通りの、相手を不快にさせない微笑み。


「では、お母様にそうお伝えくださいませ。——『私には無理でした』と」


 オスカーは一瞬だけ顔をしかめた。その表情の意味を、私は正確に読み取れた。


 後ろめたさではない。苛立ちだ。「母上の名前を出すな」という苛立ち。


 この人は、母親を崇拝している。けれど母親が何を見ているかは、見えていない。


 ——マルガレーテ様。あなたの息子は、あなたの表面しか見ていません。


 心の中でそう呟いて、私はクレーヴェ公爵邸を辞した。




 婚約破棄の翌日、自室で呆然としていた私のもとに、手紙が届いた。


 銀色の封蝋ふうろう。見覚えがある。クレーヴェ公爵家——いや、マルガレーテ様個人の封蝋だ。


『セレナへ。

 愚かな息子のことは、私に任せなさい。

 あなたは自分の足で立ちなさい。

 紹介したい人がいます。三日後、リヒテンベルク邸にて。

 M.v.C.』


 手紙を読み終えた瞬間、涙が出た。婚約破棄の時には出なかった涙が、たった三行の手紙で決壊した。


 マルガレーテ様は、知っていたのだ。


 息子が私を捨てることを予見していたのではない。捨てられた後の私が、どうすればいいか——その道筋を、もう用意していたのだ。




 三日後、マルガレーテ様が連れてきたのは、茶髪に緑の瞳の青年だった。


「ヴェストハーゲン伯爵、カイ・フォン・ヴェストハーゲンです」


 穏やかな笑顔で頭を下げたその人を見て、私の社交術の目が瞬時に読み取った。——嘘がない。飾りがない。言葉と表情が完全に一致している。


「マルガレーテ様から聞いてます。『私を超える子がいる』って」


 は、と息が止まった。マルガレーテ様は、そんなことを。


「ヴェストハーゲン領は国境に近くてね。各国との交渉が多いんだが、うちには外交ができる人間がいない。——力を貸してもらえないか」


 それが、カイとの出会いだった。




 ヴェストハーゲン領の外交行事を設計する仕事は、クレーヴェ公爵家の茶会とは全く違っていた。


 公爵家の茶会は「格式の維持」が目的だ。失敗しないことが最重要。だがヴェストハーゲン領の外交は「成果を出す」ことが目的だった。国境の通商条約、関税の見直し、領民の安全保障——実利が問われる場で、私の社交術は武器になった。


 最初の仕事は、隣国ノルデンとの通商会議だった。


 ノルデン側の交渉官は老練ろうれんな男で、形式を重んじる。私は茶会形式の非公式協議を提案した。政治的な緊張を「茶と菓子」で解きほぐし、本音を引き出す——マルガレーテ様に教わった、まさにあの技術だ。


「……驚いた。ノルデンのガルシュタイン卿があんなに笑ったのを初めて見た」


 会議後、カイが目を丸くして言った。


「彼は孫娘の話をするとき、目尻の皺が深くなるんです。そこを起点に会話を組みました」


「すごいな」


 カイの「すごいな」は、ただそれだけだった。比較しない。「母上なら」とも「誰々なら」とも言わない。ただ目の前の事実を見て、素直に称賛する。


 それが、どれだけ救いだったか。




 だが、全てが順風満帆だったわけではない。


 ヴェストハーゲン領での最初の社交行事——近隣の貴族を招いた春の茶会で、私は壁にぶつかった。


「あら、クレーヴェ公爵家に捨てられた方ですのね」


 グリュンフェルト男爵夫人が、茶菓子を口に運びながら言った。悪意のない声。むしろ同情の色が混じっている。だがその「同情」が、一番きつい。


「公爵家の社交を仕切っていたと聞きましたけれど、それはマルガレーテ様の指導あってのことでしょう? お一人で同じことができるかしら」


 反論はしなかった。代わりに、微笑んだ。


 ——証明するしかない。


 その茶会で、私は一つの賭けに出た。慣例では主催者がメインテーブルに座るが、私はあえてメインの席をグリュンフェルト男爵夫人に譲った。


「え……私が、こちらに?」


「ぜひ。この席が一番お庭の薔薇が見えますので」


 メインテーブルに座った者には、自然と周囲の目が集まる。グリュンフェルト男爵夫人は最初こそ戸惑ったが、やがて上機嫌で会話を始めた。


 席を譲るとは、敬意を示すこと。私が下手したてに出たのではない。彼女を「この場の主賓」に仕立てたのだ。主賓は主催者を悪く言えない——社交の基本構造だ。


 茶会が終わる頃、グリュンフェルト男爵夫人は私の手を握っていた。


「見事な茶会でしたわ。次回もぜひ」


 カイが横で、こっそり親指を立てていた。




 ヴェストハーゲン領での成功は、そこから加速した。


「リヒテンベルクのセレナ」の名前が社交界を駆け巡り始めた。外交茶会の設計者として、複数の名家から招待が殺到した。


 嬉しかったのは、評価の質が変わったことだ。


 クレーヴェ公爵家にいた三年間、私の仕事は「マルガレーテ様の名声」に吸収されていた。どれだけ完璧に設計しても、賞賛は公爵家の名に向かう。


 今は違う。私の名前で、私の仕事が評価される。


 ある夜、カイの執務室で通商会議の議事録をまとめていたとき、彼が報告書から顔を上げて言った。


「隣国のブレーメン伯爵から書状が来た。うちの外交行事を参考にしたいそうだ」


「……まあ」


「すごいことだぞ。あのブレーメン伯が『参考にしたい』なんて、プライドの塊みたいな人なのに」


 くすり、と笑いが漏れた。


「プライドの高い方ほど、一度認めたら深く信頼してくださいます」


「それも、マルガレーテ様の教え?」


「いいえ。——自分で学びました」


 カイが目を見開いて、それからゆっくり笑った。


「そうか。それなら、もう一つ自分で決めてほしいことがある」


「何でしょう」


「……いや、今はいい。また今度」


 何だろう、と思ったけれど、カイはそれ以上言わなかった。ただ、耳が少し赤くなっていた。


「セレナ」


 ある日、カイが不意に言った。


「君がいてくれて、本当に助かっている」


 それだけの言葉だった。ただ、それだけの。


「……ありがとう、ございます」


「どうした。泣きそうだ」


「泣いてません」


「嘘つけ。目が赤い」


「花粉症です」


「この季節に?」


 カイが笑った。私も少しだけ笑った。——この人の隣では、完璧でなくていいのだと、そう思えた。




 婚約破棄から一ヶ月後。


 クレーヴェ公爵家の大夜会の招待状が、ヴェストハーゲン伯爵家に届いた。


「行くか?」とカイが聞いた。


「……行きます」


「無理しなくていい」


「無理ではありません。——見届けたいんです」


 カイは数秒だけ黙って、それから頷いた。


「わかった。隣にいる」




 そして今、私は末席のテーブルから、かつて自分が設計していた夜会を見ている。


 ——席順がおかしい。


 社交術を学んだ目には、すぐにわかった。アルテンシュタット大使とヴェルデン大使が、三席しか離れていない。間に配置されているのは——シュヴァルツ侯爵ではなく、若い文官だ。二人の政治的緊張を緩和する機能がない。


 これは、火種だ。


「どうした?」カイが小声で聞いた。


「……席順が危ない。あの二人を近くに配置したら——」


 果たして、十分もしないうちに空気が変わった。


 ヴェルデン大使が何か言い、アルテンシュタット大使の表情が硬くなった。周囲のテーブルにも緊張が伝播でんぱする。


 オスカーの隣に座るリディアが、慌てた様子で何か話しかけているが——火に油を注いでいるようにしか見えない。相手の性格を読めていないのだ。


 私の視界の端で、マルガレーテ様の横顔が見えた。


 その瞳は、冷たかった。




 夜会の第二幕は、外交茶会だった。


 これはマルガレーテ様が三十年かけて築き上げた伝統で、夜会の合間に設けられる非公式の茶席だ。ここでの会話が、翌日の公式交渉を左右する。


 リディアがこの茶会の仕切りを任されていた。


 新しい婚約者として、公爵家の社交を担う——そのお披露目でもあった。


 私は末席から、静かに見ていた。


 リディアがノルデン公使に話しかけた。


「ノルデンでは最近、新しい劇場ができたそうですわね。素晴らしいことですわ」


 ——まずい。ノルデン公使は芸術の話題を嫌う。前政権の文化政策が批判の的になっており、芸術の話は政治批判と受け取られる。


 公使の表情が曇った。


「……ええ、まあ。それよりも通商条約の件ですが」


「あら、お堅い話は後にしましょう? せっかくの茶会ですもの」


 リディアは笑顔のまま、公使の話題転換を遮った。


 空気が、凍った。


 外交の場で相手の話題転換を遮ることは、「あなたの意見は聞く価値がない」と宣言するのと同じだ。


 ——あの場面、私なら。


 思考が自動的に走る。ノルデン公使には通商の話から入る。彼の領地は港町で、最近の関税改正で利益が出ている。「港の活気が戻ったとお聞きしました」——そこから入れば、公使は機嫌よく話し始める。


 だが今、そこにいるのはリディアだ。私ではない。


 テーブルの上で、マルガレーテ様の指が小さく震えているのが見えた。




 致命傷ちめいしょうは、三つ目の失態で訪れた。


 アルテンシュタット大使がリディアに話しかけた。


「ところで、お嬢さん。先日のシュヴァルツ侯爵の馬術大会はご覧になりましたかな」


 これは罠だ。アルテンシュタット大使は、新しい婚約者の社交力を試している。馬術大会には政治的な文脈がある——参加者の選定に、現政権への支持表明が含まれている。


 正解は、「美しい試合でしたわ」と感想にとどめ、政治的なコメントを避けること。


「いいえ、興味がありませんの」


 リディアの答えに、大使の眉が上がった。


「興味がない、と」


「ええ。馬よりも文学が好きですの」


 ——馬術が好きな大使の前で「興味がない」と言い、話題を自分の好みに変える。


 社交術以前の問題だった。相手の関心を尊重するという、人間関係の基本が欠落している。


 そしてアルテンシュタット大使は、ゆっくりとマルガレーテ様のほうを見た。


 ——この娘が、セレナの代わりですか。


 言葉にはしなかった。だがその目が、そう語っていた。


 マルガレーテ様は、グラスをテーブルに置いた。静かに。音を立てずに。


 ——あの置き方は。


 三年間、師匠の横で学んできた私にはわかる。あれは、決断の合図だ。




 マルガレーテ様が壇上に立ったのは、夜会の後半だった。


 広間の空気が一変した。銀の女帝が壇上に立つ——それだけで、三百人の視線が一点に集まる。


 この人の存在感を、私は三年間隣で見てきた。声を荒げない。急がない。ただ、そこに立つだけで空気を支配する。


「皆様、少しだけお時間をいただけますか」


 マルガレーテ様の声は、いつも通り穏やかだった。だが私は知っている。この穏やかさの底に、鋼の決意がある。


「今宵は、母として恥をさらすことをお許しください」


 オスカーが、客席で身を硬くしたのが見えた。


「息子オスカーは先月、婚約者を変えました。理由は『母のような完璧な女性でなければ公爵家の嫁は務まらない』と」


 会場がざわめいた。婚約破棄の理由が公の場で語られることは、極めて異例だ。


「光栄な理由ですわね。息子が母を理想とする——普通であれば」


 マルガレーテ様の声が、一段低くなった。


「ですが、問いましょう。息子よ。あなたが言う『母のような完璧な女性』とは、何のことです?」


 オスカーが立ち上がりかけた。しかしマルガレーテ様の視線が射抜くように息子を捉え、彼は椅子に沈み込んだ。


「あなたは母の髪型を褒める。母の所作を褒める。母の笑みを褒める。——ですが、あなたは一度でも問うたことがありますか? 母がなぜ三十年間、社交界の頂点に立ち続けられたのかを」


 会場が静まり返った。シャンデリアの灯りが揺れ、影が壁を這う。


「答えましょう。この私が三十年間やってきたことは、人の本質を見抜くことです。誰が信用でき、誰が嘘をつき、誰が本物の力を持っているか——それを見極める目。礼法は道具に過ぎない」


 マルガレーテ様の視線が、会場を横切って——私を捉えた。


 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、師匠の瞳が温かくなった。


「セレナ・フォン・リヒテンベルク」


 名前を呼ばれて、背筋が伸びた。


「あの子は三年間、私の下で学びました。茶会の席順、外交書簡、夜会の演出設計——全て、あの子が担っていました。あなたがたが褒めてくださった『クレーヴェ公爵家の社交の質』は、あの子の仕事です」


 会場がどよめいた。


 今宵の夜会で、席順の欠陥を最初に見抜いた者がいるとすれば——それは私だけだろう。マルガレーテ様は、それを知っている。


「そして、この目を持つ者は今の社交界に二人しかいない。私と、セレナです」


 マルガレーテ様が息子を見下ろした。その瞳から、温度が消えた。


「あなたは『母のような女性が欲しい』と言った。では聞きましょう、オスカー。あなたの母は——人の本質を見抜く目を持っている。セレナにもその目がある。三年かけて私が育てた」


 一呼吸の


「あなたの新しい婚約者に——それが、ありますか?」


 リディアの顔が蒼白になった。オスカーは口を開いたが、言葉が出てこない。


「今宵の茶会で、ノルデン公使の話題を遮り、アルテンシュタット大使の趣味を無視し、席順の設計でヴェルデン大使を激昂げっこうさせかけた——その方が、あなたの言う『母のような完璧な女性』ですか?」


 沈黙が、広間を支配した。


「あの子ほど完璧に近い令嬢を——」


 マルガレーテ様の声が、震えた。怒りではない。失望だ。三十年間社交界で見せたことのない、母としての失望。


「——お前は、何を見ていたの」


 オスカーの顔から血の気が引いた。膝が震え、椅子の肘掛けを掴んで辛うじて立っている。


「か、母上……」


「母上と呼ぶな」


 マルガレーテ様の声が、氷のように冷たくなった。


「母のような女性が欲しいと言ったのはお前でしょう。ならば母として言います。——私は、セレナを選ぶ。お前は選ばない」




 広間の隅で、私はカイの腕を握っていた。


 握っていることに自分で気づいて、慌てて離そうとした。


「……ごめんなさ」


「離すな」


 カイが私の手を握り返した。


「……離さないで、いいんですか」


「いいに決まってる」


 壇上ではまだマルガレーテ様が立っていた。オスカーはうなだれ、リディアは泣いている。三百人の客は息を詰めて、クレーヴェ公爵家の崩壊を見守っている。


 だが私の目は、マルガレーテ様だけを見ていた。


 壇上の師匠は——泣いていた。


 マルガレーテ・フォン・クレーヴェ。銀の女帝。三十年間、社交界で涙を見せたことのない女性。


 その頬を、一筋の涙が伝っている。


 ——この人が一番、傷ついている。


 その理解が、胸を貫いた。


 息子を断罪することは、自分を断罪することでもある。息子を正しく育てられなかった——その事実を、三百人の前で認めたのだ。


 マルガレーテ様は壇上を降り、私のほうへ歩いてきた。


「セレナ」


「……マルガレーテ様」


「泣いていいのよ」


 その言葉で——糸が切れた。


 三年間溜め込んだものが、一気に溢れた。百回の「お母様なら」。婚約破棄の朝の空虚。新しい場所で認められた安堵。そして今、師匠が自分を選んでくれた——その事実の重さ。


「……ぅ、ぐっ……」


 嗚咽おえつを押し殺そうとして、失敗した。マルガレーテ様の胸に顔を埋めて、子供のように泣いた。品位も礼法も何もない、ただの二十歳の女の涙だった。


「あなたは、私を超えたわ」


 マルガレーテ様が、私の髪を撫でた。


「あとは——自分の幸せを選びなさい」




 夜会の後。


 馬車の前で、カイが待っていた。


 春の夜風が冷たくて、涙の跡が頬に染みる。目が腫れて、鼻も赤くて、三年間仕込まれた「完璧な令嬢」の面影はどこにもない。


「ひどい顔」


「……わかってます」


「かわいい」


「……は?」


「泣いた後の顔のほうが、ずっといい。——完璧な顔より、こっちが好きだ」


 反論しようとして、言葉が見つからなかった。この人は、本当にそう思っている。社交辞令ではなく、嘘もなく、ただ本心を言っている。三年間鍛えた「人を見抜く目」が、そう教えている。


「帰ろう。——俺の領地に」


「……お母様のような妻には、なれませんけれど」


 言ってから、はっとした。まだ私は、あの呪文にとらわれている。


 カイが笑った。困ったように、だけど温かく。


「母の話はもういい。——君がいればいい」


 差し出された手を取った。


 温かかった。




 翌日。


 オスカーはマルガレーテ様に呼び出され、書斎で二時間にわたり叱責を受けた。そのあと、ひざまずいて謝罪したという。


 マルガレーテ様への謝罪は、受け入れられた。


 だが——セレナへの謝罪の機会は、二度と訪れなかった。


 リディアとの婚約は翌週に解消された。宰相家は面目をつぶされ、オスカーの社交界での評判は地に落ちた。「母親に公開断罪された男」——その渾名あだなは、彼が生きている限り消えないだろう。


 けれど。


 それは私が望んだことではない。


 私が望んだのは、もっと単純なことだ。




 ヴェストハーゲン伯爵領の朝は早い。国境沿いの街は夜明けとともに動き出し、市場には各国の商人が行き交う。


「セレナ、今日の通商会議の資料だが」


「昨夜のうちに準備しました。席順の修正案も添えてあります」


「……相変わらず早いな」


「お褒めの言葉と受け取っておきます」


 カイが笑う。窓の外には、春の陽光が石畳を温めている。


 完璧でなくていい。


 「お母様のように」ならなくていい。


 私は、私のままで——この人の隣に立てばいい。


 マルガレーテ様の最後の教え。それは社交術ではなく、もっと大切なことだった。


 ——自分の幸せを、自分で選びなさい。


 インクで汚れた指先を見つめる。


 この指が書く文字は、もう公爵家の名ではなく、私自身の名で届く。


 それだけで——十分だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「断罪型」の王道ストーリーですが、断罪者が母親であるところがこの話のポイントです。「母のような完璧な女性が欲しい」と言った息子を、母自身が断罪する——この構図の皮肉さが、書いていて一番楽しかったところです。


 オスカーは母を崇拝しているけれど、母の「何が」すごいのかを理解していない。三十年間社交界の頂点に立ち続けた女性の強さは、髪型でも所作でもなく、「人の本質を見抜く目」にある。でも息子はその目を持っていないから、母の何がすごいのかすら見えていない。——これ、結構残酷な話だと思います。


 この物語で一番切ないのは、実はマルガレーテかもしれません。息子を断罪するとは、「自分は息子を正しく育てられなかった」と認めることでもある。三百人の前でそれをやった彼女の覚悟を思うと、セレナへの「泣いていいのよ」の一言が、少し違った響きに聞こえませんか。あれは、セレナだけでなく、自分自身にも言っていたのかもしれません。




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有能でも子供を育てるのは難しいと言う事やね。 後、リディアさんも宰相家の令嬢としては、ちょっと教養が足りなかったね。
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