第9話 北方領主会議
「ドラッヘンベルク辺境伯の統治能力に、疑義を申し立てる」——ヴァレス・ノルデンの声が、会議場に響いた。
石造りの広間。長い卓の周りに、北方の領主たちが座っている。
正面にヴァレス・ノルデン伯爵。三十代前半、武人の体格に切れ者の目。その隣にゲオルク・ヴァイス辺境伯。白髪交じりの温厚な紳士。向かいに北方子爵フリッツ。若い、まだ二十代の領主。卓の端に王都からの監査官が一人。
そして——私。ドラッヘンベルク辺境伯夫人、リーシャ。
ヴェルナー様は会議場の隣の別室にいる。竜の姿での会議出席は前例がないため、待機という形を取った。
(……三週間、顔を合わせていない)
あの夜から。書斎の扉が開かなくなってから。報告はトビアスさんを通して。鱗磨きもなし。声も聞いていない。
でも——今はそれを考える時ではない。
「ドラッヘンベルク辺境伯は十年間、呪いにより竜の姿のままである」
ヴァレスの声は堂々としていた。立ち上がり、会議場の全員を見渡しながら語る。
「対外交渉も社交も不可能。領民との直接的な対話もなされていない。これは統治能力に重大な疑義があると言わざるを得ない。——北方の民のために、領地管理権を一時的にノルデン家が預かることを提案する」
巧みだった。
声の抑揚、間の取り方、「北方の民のために」という大義名分。同情を装いながら、聞く者に「確かにそうかもしれない」と思わせる話し方。ヴァレス・ノルデンは有能な政治家だ。——敵として、認めざるを得ない。
フリッツ子爵が困った顔で視線を落とした。監査官はペンを走らせて記録している。ゲオルクだけが、静かに腕を組んだまま動かない。
「ドラッヘンベルク夫人」
監査官が私に視線を向けた。
「辺境伯の代理として、反論がおありでしたらどうぞ」
立ち上がった。
手元の書類を、卓の上に広げた。
「まず、領地経営の実績をご覧ください」
帳簿の写しを配った。数字を読み上げる。
「この二ヶ月間で、食糧備蓄は二割増加しました。交易品の品質は回復し、東方辺境伯との交易量は一ヶ月前の水準を上回っています。冬季の暖房コストは四割削減。農地開墾の計画も進行中です」
会議場が静かになった。数字を見ている。
「さらに、こちらを」
署名の束を出した。
「ドラッヘンベルク辺境伯の統治を支持するという、領民百二十名の署名です。統治が不能であるならば、領民がこのような書面を出すことはないと考えます」
ヴァレスの表情に変化はない。——予想の範囲内だ、という顔。
「ヴァイス辺境伯」
ゲオルクが、ゆっくりと口を開いた。
「ヴェルナー領の交易品は品質を回復しており、私の領地との交易は順調です。統治が機能していることは——私が証言する」
フリッツ子爵が顔を上げた。数字と、ゲオルクの証言。二つの重みが場を動かしたのが見えた。
ヴァレスが立ち上がった。
「ドラッヘンベルク夫人の手腕は見事だ。——だが、それは辺境伯夫人の成果であって、辺境伯自身の統治能力ではない」
(——来た)
「夫人が去れば、領地は元に戻る。竜の姿の辺境伯に、これだけの経営改善ができたとは思えない。つまり——この領地は辺境伯ではなく、夫人によって辛うじて維持されているに過ぎない」
鋭い指摘だった。
会議場の空気が揺れた。フリッツ子爵が再び目を伏せる。監査官のペンが止まった。
——認める。ヴァレス・ノルデンは有能だ。正論を突いてくる。
でも。
「ノルデン伯爵に伺います」
声を落ち着けた。
「配偶者が領地経営を補佐するのは、どの領地でも行われている通常の統治体制ではありませんか」
ヴァレスの目が、わずかに細くなった。
「ノルデン伯爵領でも、伯爵夫人が社交面を担われていると聞いております。それをもって『伯爵自身に社交能力がない』とは申しません。——同様に、辺境伯夫人が経営を補佐していることは、辺境伯の統治能力の否定にはなりません」
ヴァレスが押し黙った。一瞬だけ。すぐに口を開こうとした。
——その前に。
「さらにもう一点、ご報告がございます」
二つ目の書類を出した。越境関税のデータ。
「ヴェルナー領の経済的困窮の原因のひとつは、ノルデン領が境界を越えて設置した関税徴収所です。ヴェルナー領側に越境して建設されたこの徴収所は、法的に問題がございます。帳簿の数字と領地の境界記録を照合した結果、三年前から不当な関税が徴収されていたことが確認されました」
会議場がざわめいた。
ヴァレスの顔が——初めて、動いた。眉が引き締まる。目の奥に、冷たい光が走った。
——まだだ。
「そして——最後にもうひとつ」
封筒から、一通の書状を取り出した。
「先月、ドラッヘンベルク辺境伯邸が傭兵に襲撃されました」
会議場が静まり返った。
「撃退した傭兵が所持していた雇用契約書には——ノルデン家の印が押されています」
書状を卓の上に置いた。
静寂。
完全な静寂が、石造りの広間を満たした。
監査官が手を伸ばし、契約書を取り上げた。紋章印を確認する。顔を上げて——ヴァレスを見た。
ヴァレスの顔から、表情が消えていた。
冷静さを保とうとしている。でも、顎の筋肉が強張っているのが見えた。拳が卓の下で握られているのが見えた。
傍聴席で——マリスが、音もなく立ち上がりかけていた。兄の方を見ている。その顔に浮かんでいたのは——怒りでも軽蔑でもなく、動揺だった。知らなかったのだ。兄が傭兵を使ったことを。
「ドラッヘンベルク夫人」
監査官の声。
「この契約書の真贋については、正式な鑑定が必要です。しかし——重大な証拠として受理いたします」
「ありがとうございます」
——と。
会議場の壁が、揺れた。
小さな揺れではなかった。石壁が軋み、天井から埃が落ちる。卓の上の水差しが音を立てて震えた。
全員の目が、入り口に向いた。
二重扉が——内側からゆっくりと押し開けられた。
黒。
入り口を埋め尽くす黒い鱗。折り畳まれていた翼が広がり、扉の枠を超えて広間に伸びる。金色の瞳が、蝋燭の光を受けて輝いた。
竜が、会議場に入ってきた。
誰も、声を出せなかった。フリッツ子爵が椅子ごと後ろに下がった。監査官のペンが卓に落ちた。ゲオルクだけが——微かに口元を緩めた。
巨大な黒竜が、広間の中央を歩く。一歩ごとに床が震える。長い尾が卓の脚をかすめる。
——私の隣で、止まった。
竜の頭が下がる。金色の瞳が、まっすぐ前を向いた。ヴァレスを見据えた。
そして——低い声が、広間に響いた。
「この者は俺の妻だ」
声が、石壁に反響した。
「俺の領地を守り、俺の民を助け、俺が十年間できなかったことをやってくれた」
沈黙。
「異論があるなら——俺が聞く」
金色の瞳がヴァレスを見ている。
ヴァレスが——目を逸らした。
竜の前で目を逸らした。あの有能で、冷徹で、巧みな弁舌を持つ男が。会議場の全員が見ている前で。
目を逸らした。
——ああ。
視界が滲んだ。涙だった。頬を伝って落ちた。
泣いている。なのに——笑っていた。口元が勝手に上がっている。涙が落ちているのに、笑みが止まらない。
(——来てくれた)
三週間、扉を閉ざしていた人が。顔を見られるのが怖いと言った人が。竜の姿に逃げ込んでいた人が——壁を破って、出てきた。
私のために。
「ドラッヘンベルク辺境伯の統治は正常に機能している」
ゲオルクが静かに立ち上がった。
「ノルデン伯爵の動議は却下が妥当と考える」
「……賛同します」
フリッツ子爵が、まだ少し青い顔で——しかし、はっきりと頷いた。
監査官がペンを拾い上げ、記録に書き込んだ。
「傭兵の件については王都に報告し、正式な調査を行います。越境関税についても是正命令を出します。——ノルデン伯爵、何かございますか」
ヴァレスは黙っていた。
顔から表情が完全に消えていた。顎の強張りも、拳の力も。全部が消えて——空白になっていた。
「……ございません」
低い声。それだけだった。
動議は却下された。
* * *
会議が終わった。
人々が広間を出ていく。監査官が書類をまとめている。フリッツ子爵がゲオルクに何か話しかけている。ヴァレスは——もう、いなかった。マリスと共に、静かに会場を去っていた。
竜が、まだ私の隣にいた。
巨大な黒い竜。金色の瞳。——三週間ぶりに、近くにいる。鱗の温もりが、肌に伝わる距離。
「……ヴェルナー様」
「……なんだ」
声が——あの声だった。低くて、静かで、感情を隠した声。三週間前と変わらない。
でも私には聞こえた。ほんの少しだけ——柔らかいこと。
「ありがとうございました」
「……礼を言うな。お前の方が——」
言葉が途切れた。竜の尾が、床の上でゆっくりと揺れた。
「……お前の方が、よくやった」
涙がまた出そうになった。堪えた。今度は、泣かない。泣いたのはさっきので十分だ。
「ヴェルナー様。もうひとつ——お伝えしたいことがございます」
「なんだ」
「エルヴィラ・メレスという筆頭聖女のことです。——私が神殿時代に書いた疫病対策マニュアルの原本が、手元にあります」
竜の瞳が、こちらを向いた。
「あのマニュアルは、エルヴィラが自分の功績として報告しているものです。でも、原本は私の筆跡と日付で——」
「……それも、領主会議で出すのか」
「いいえ。これは神殿の問題です。ただ、監査官に情報を伝えておきたい。正式な調査が入れば、筆跡鑑定で真実がわかります」
竜が、長い息を吐いた。書斎を温めるあの吐息と同じ、温かい息。
「……お前は、本当に——」
言葉が途切れた。
また。いつも途切れる。この人は、大事なことほど言葉が少なくなる。
でも——いい。今は、それでいい。
隣にいてくれた。壁を破って出てきてくれた。
それだけで——十分だった。
会議場の窓から、冬の午後の光が差し込んでいた。冷たい光のはずなのに——温かかった。隣にいる竜の体温のせいかもしれない。
あるいは——それだけではないのかもしれない。




