第8話 月光の下で
竜が、震えていた。
書斎に入った瞬間、わかった。いつもの温かさがない。竜の体温で常に暖められているはずのこの部屋が——寒い。
「ヴェルナー様」
黒い竜が、書斎の隅でうずくまっていた。翼を体に巻きつけて、尾を丸めて。三日前の傷——翼の付け根の——は、軟膏を塗り続けて少しずつ塞がりつつある。でも、回復が遅い。それよりも気になるのは、この震えだった。
竜の体に近づいて、鱗に手を当てた。
——冷たい。
(体温が下がっている)
飼育員の知識が、頭の中で回り始めた。大型爬虫類で体温が低下するのは、代謝の大幅な低下を意味する。代謝が下がるのは——栄養不足か、あるいは——
(魔力。この世界の竜は魔力で体温を維持している。魔力が枯渇しかけている?)
三日前の戦闘。六人の傭兵を撃退するために、何度も炎を吐いた。あの白に近い炎は、通常の炎よりはるかに高温だった。相当な魔力を使ったはずだ。
「ナタリーさん」
廊下を通りかかったナタリーを呼び止めた。
「旦那様の体温が下がっています。魔力の消耗が原因だと思うのですが——竜の魔力が大量に消耗した場合、何が起きるか、ご存知ですか」
ナタリーの表情が変わった。穏やかな微笑みが消えて、真剣な——いや、心配の色が浮かんだ。
「……奥様。旦那様が人間のお姿に戻られるのは、大量の魔力を消耗された時です」
「——え」
「呪いを維持するのにも魔力が要ります。魔力が枯渇すると、呪いが一時的に解けて……人間のお姿に、お戻りになります」
人間の姿に。
「ただし、魔力が少しでも回復すれば、またすぐに竜のお姿に——」
「ナタリーさん。今のヴェルナー様は——」
「三日前の戦闘で、相当な魔力をお使いになりました。傷の回復にも魔力が必要ですから——」
言葉を飲み込んだナタリーの目が、書斎の方を見た。
(——まさか)
* * *
深夜。
自室のベッドで眠れずにいた。目を閉じても、竜の震えが瞼の裏にちらつく。
——物音がした。
書斎の方から。鈍い音。何かが倒れたような。
飛び起きた。
廊下を走る。裸足のまま。書斎の扉に手をかける——鍵はかかっていない。押し開けた。
蝋燭はすべて消えていた。月明かりだけが、窓から差し込んでいる。
書斎の床に——人が倒れていた。
竜ではない。人間だ。
黒い髪。白い肌——青白い、と言うべきか。月明かりの下で、その白さが際立っていた。体は裸に近かった。竜の体から人間に戻ったのだから、服を着ているはずがない。床の上にうつ伏せに倒れていて、背中の筋肉が浅い呼吸で上下していた。
首筋に——黒い鱗の名残が、薄く残っている。
「……ヴェルナー様?」
声が、自分でも驚くほど小さかった。
青年が——顔を上げた。
金色の瞳。
竜と、同じ瞳。闇の中で光を孕んで、まっすぐにこちらを見ている。
「……見るな」
震える声だった。
低い声。竜の時と同じ声。でも——竜の声より細くて、人間の喉の震えがそのまま伝わってくる。
手が震えていた。床についた両手が。月明かりの中で、その震えがはっきり見えた。
「見るな。——出ていけ」
(……ああ)
思っていたより、ずっとお若い。
私と同じくらいの——いえ、少し年上か。二十代半ば。整った顔立ち。でも、「整った」と感じるよりも先に目に入ったのは——目だった。金色の瞳の奥にある、怯えた光。
竜の時と同じだ。あの、不器用に逸らされる目。鱗の向こうに隠されていただけで——この人はずっと、こういう目をしていたのだ。
私は振り返って廊下に出た。
——逃げたのではない。
自室から毛布を持ってきた。
書斎に戻る。ヴェルナー様は床の上で体を起こしていた。壁に背を預けて、膝を抱えている。月明かりが、首筋の鱗の痕を照らしていた。
「……なぜ戻ってきた」
「寒いでしょう」
毛布を、肩にかけた。
ヴェルナー様の体が強張った。毛布に触れた瞬間、全身が硬くなる。——触られることに慣れていない、あの反応。竜の時と同じだ。
「……大丈夫ですか。お身体は」
「……俺の顔を、見たな」
「はい。見ました」
嘘はつかなかった。
ヴェルナー様の金色の瞳が、逸れた。壁の方を向く。横顔が見えた。黒い髪が額にかかっている。唇が薄く震えていた。
(——この人は今、とても怖がっている)
顔を見られること。表情を読まれること。竜の鱗の向こうに隠していたものが——全部、剥き出しになっていること。
六つの時に母の葬儀で泣いて、嘲笑われて。感情を見せるなと教えられて。竜の姿に逃げ込んで。十年間、顔を隠してきた人が——今、私の目の前に座っている。
何を言えばいいのか、わからなかった。
「怖くない」と言えばいいのか。「大丈夫」と言えばいいのか。でも——そんな言葉は、この人には届かない。十年間の恐怖を、一言で消せるはずがない。
だから。
「……戻らないでください、と言ったら、怒りますか」
ヴェルナー様が、弾かれたように振り向いた。
金色の瞳が、まっすぐ私を見た。
「……何?」
「竜の姿の旦那様が好きでした」
言葉が、するりと出た。考えて選んだのではない。ただ、そう思ったから。
「大きくて、温かくて、不器用に優しくて。鱗を磨く時の喉鳴りが好きでした。尾の動きで気持ちがわかるのが楽しかった。翼で包んでもらった夜は——今まで生きてきた中で、一番温かかった」
ヴェルナー様は、動かなかった。金色の瞳が、じっとこちらを見ている。
「でも——人間の旦那様も、きっと同じなのだと思います。目の逸らし方が同じですから。だから、どちらでもいいのです。ただ……竜の姿に、戻らないでほしいとは、言いたくなかったので」
沈黙。
月明かりが、書斎の床を白く染めている。
ヴェルナー様の唇が、動いた。
「——俺も、同じことを言おうとしていた」
声が震えていた。竜の声より細い、人間の声。でも——震え方は、同じだった。あの夜、「いなくなったら困る」と言った時の、あの震え。
(——同じ、こと)
何を。何を言おうとしていたのか。聞きたかった。聞きたくて——でも。
その瞬間、ヴェルナー様の体が光に包まれた。
白い光。書斎の闇を裂くような、静かで強い光。
目を閉じた。光が収まって、目を開けると——そこにいたのは、黒い竜だった。
巨大な体。折り畳まれた翼。金色の瞳。
魔力が、ほんの少し回復したのだろう。呪いが戻った。
竜のヴェルナー様が——壁の方を向いた。こちらに背を向けるように、体の向きを変えた。
「……見られた」
低い声。竜の声。
それきり、何も言わなかった。
* * *
翌日から、書斎の扉が開かなくなった。
朝の鱗磨きの時間に扉の前に立っても、返事がない。ノックしても、声をかけても。
昼過ぎ、トビアスさんが困った顔で私のところに来た。
「奥様。旦那様から伝言です。——『報告はトビアスを通せ』と」
「……そうですか」
トビアスさんが申し訳なさそうに肩を落とした。
「旦那様は——その、時々こうなられるんです。殻に閉じこもると言いますか……」
「大丈夫です、トビアスさん。わかっています」
わかっている。
(——踏み込みすぎた、のだろうか)
あの夜。毛布を肩にかけた。顔を見た。「竜の姿が好きだった」と言った。「どちらでもいい」と言った。
全部——余計だったのかもしれない。
この人は、顔を見られることが怖いのだ。十年間隠してきたものを見られて、声をかけられて、毛布までかけられて。——それは、この人にとって侵入だったのかもしれない。
書斎の扉の前に立って、木目を見つめた。
向こう側にいるはずの竜の気配は——感じなかった。いつもなら扉越しにも伝わってくる体温が、今日はない。
(……閉じている)
扉の前で、どれくらい立っていただろう。
泣かなかった。
泣く理由がないからだ。拒絶されたのなら仕方がない。踏み込みすぎたなら——次から気をつければいい。
でも。
(「俺も、同じことを言おうとしていた」)
あの声が、まだ耳に残っている。震えていた声。人間の声。竜の声の下にずっと隠れていた、細い声。
同じことを言おうとしていた——何を?
(……考えるな。契約結婚だから。あの言葉に意味を持たせるな)
扉から手を離した。
執務室に戻る。
机の上に、ゲオルクに送る証拠書類の写しが置いてある。傭兵の雇用契約書。越境関税のデータ。帳簿の改善記録。領民の署名を集めた嘆願書。
領主会議まで、あと一ヶ月を切った。
旦那様が壁を上げても。扉が開かなくても。
——私にできることをする。
羽根ペンを手に取った。ゲオルク辺境伯への書簡を書き始める。証拠の託送の手配。領主会議での段取り。必要な書類の一覧。
手は、震えなかった。
あの夜、傷の手当てをした時は震えた。「死なないでください」と言った時は、止められなかった。
でも今は、震えない。やることがあるから。この人のためにできることが、まだあるから。
(——旦那様。扉を開けてくれなくてもいいです。でも、この領地は守ります)
書簡を書き終えて、封をした。
執務室の窓から空を見上げる。冬の星が、冷たく光っていた。




