第7話 竜の咆哮
轟音と地鳴りで目が覚めた。窓の外で、黒い炎が夜空を灼いている。
飛び起きた。
寝間着のまま窓に駆け寄る。屋敷の庭——正門の向こう、林の際に黒い竜がいた。翼を広げて、炎を吐いている。闇の中に火柱が立ち、木々の影が赤く染まる。
竜の前に——人影があった。
六つ。六人の人間が、武器を持って竜を囲んでいる。
(——人? 魔獣じゃない、人間?)
目を凝らす。暗くてよく見えない。でも、動き方が違う。魔獣ならもっと獣的に動く。あの六人は連携している。陣形を組んで、竜の死角に回り込もうとしている。
訓練された動き。兵士だ。
竜が咆哮した。
空気が震えた。窓硝子がびりびりと鳴る。腹の底に響く、低く太い咆哮。一人が吹き飛ばされ、地面を転がった。
炎が走る。林の端が燃え上がる。残りの五人が散開した。——二人が竜の翼の下に潜り込もうとしている。
(翼の下——翼の付け根は、鱗が薄い)
飼育員の知識が叫んだ。竜の翼の付け根は関節の可動域を確保するため鱗の重なりが浅い。そこを狙われたら——
窓の外で、金属音がした。
短い、けれど鋭い音。刃が鱗に当たる音ではない。鱗の隙間に何かが刺さった音。
竜が——吠えた。
さっきまでの咆哮とは違う。痛みの声だった。
「——ヴェルナー様っ!」
窓を叩いた。声は届かない。廊下に飛び出す。寝間着のまま、裸足のまま。階段を駆け下りて玄関の扉を開けた。
冷たい夜気が肌を刺す。庭の芝生が足の裏に冷たい。
正門の方から、トビアスさんが剣を抜いて走ってくるのが見えた。
「奥様、下がって! まだ戦闘中です!」
「ヴェルナー様が——」
その時、竜が最後の炎を吐いた。
夜空を裂くような、白に近い炎。それが林の際を薙ぎ払った。悲鳴が上がって、人影が散った。走って逃げていく。一人が地面に倒れたまま動かない。残りは闇の中に消えた。
静寂が戻った。
炎の残り火が、林の端でちらちらと燃えている。その明かりの中で、黒い竜がゆっくりと翼を畳んだ。——右の翼が、うまく畳めていない。
駆け寄った。
「ヴェルナー様!」
竜の右翼の付け根に、何かが刺さっていた。短剣だ。鱗の隙間に深く突き立っている。刺さった周囲の鱗が割れて、黒い体液が滲んでいた。
「……大したことはない」
「大したこと——」
言葉を飲み込んだ。大したことあるに決まっている。短剣が翼の関節部に刺さっている。でも今は言い合う場面ではない。
「書斎に戻りましょう。手当てします」
「……俺の鱗に刃物が通るのか」
「通ってます。現に刺さってます」
竜が——黙った。
* * *
書斎に戻るまでが大変だった。
ヴェルナー様は右翼を引きずりながら、ゆっくりと屋敷の中に入った。廊下の幅ぎりぎりの巨体が、壁に翼をぶつけないよう慎重に進む。痛みで動きが硬い。
書斎に入って、定位置に横たわった。右翼を広げると——傷の全容が見えた。
短剣は抜いてあった。トビアスさんが戦闘後に処理してくれたらしい。でも、刺さっていた穴から黒い体液がじわじわと滲み続けている。翼の付け根の鱗が三枚、割れて欠けていた。
「ナタリーさん、お湯と清潔な布を。それから薬草棚の——山蒲公英の軟膏と、止血草の粉末をお願いします」
「すぐに」
ナタリーが駆けていく。
私はヴェルナー様の翼の前に跪いた。傷口を見る。鱗の隙間から筋肉組織が見えている。深い。でも、関節そのものには達していない。——たぶん、飛べなくなるほどではない。
(落ち着け。前世で怪我をした動物の応急処置は何度もやった。大型爬虫類の鱗の隙間の治療も経験がある。やれる)
ナタリーが道具を持ってきてくれた。
止血草の粉末を傷口に当てる。竜の鱗は硬いが、隙間に指を入れて薬を塗り込むのは繊細な作業だった。力加減を間違えると鱗を傷つける。かといって弱すぎると薬が届かない。
「……少し痛みます。我慢してください」
「構わん」
軟膏を指先に取り、鱗の隙間に押し込むように塗る。ヴェルナー様の体が一瞬硬直した。——痛いのだ。でも声は出さない。
(我慢しないでいいのに)
指先が血で滑る。布で拭って、もう一度。丁寧に。一枚一枚の鱗の合わせ目を確認しながら、薬を行き渡らせる。
「……リーシャ」
名前を呼ばれた。
ヴェルナー様が私を名前で呼ぶのは——初めてだった。いつもは「お前」だ。
「はい」
「手が震えている」
——あ。
本当だった。薬を塗る指が震えていた。いつから震えていたのか、自分でも気づいていなかった。
傷を見た時からか。翼の付け根の黒い血を見た時からか。それとも——窓の外で竜が痛みの声を上げた、あの瞬間からか。
「……すみません。もうすぐ終わります」
「俺は死なん」
「わかっています」
「だから震えるな」
「……わかって、います」
わかっている。わかっているのに、止まらない。
指先が震える。視界がぼやける。——泣いているのか。泣いてなんかいない。泣く理由がない。傷は深いけれど致命的ではない。処置は適切にできている。何も問題ない。何も——
「死なないでください」
声が、勝手に出た。
自分の声じゃないみたいだった。小さくて、震えていて、みっともない声。
「……旦那様。死なないでください」
手が止まった。薬を塗る手が、傷口の上で止まった。
竜の金色の瞳が、こちらを見ていた。
沈黙。
蝋燭の炎が揺れる。書斎の空気が、しん、と静まった。
それから——竜の頭が、ゆっくりと下がってきた。
大きな、黒い頭。金色の瞳。硬い鱗に覆われた顎。
その頭が——私の手に、押し付けられた。
薬で汚れた指先に、竜の鼻先が触れた。ごつごつした鱗の感触。温かい。竜の体温。いつもの温もり。
言葉はなかった。
「大丈夫だ」とも「心配するな」とも言わなかった。ただ、大きな頭を、私の小さな手に預けた。不器用に。ぎこちなく。——でも確かに。
(……ああ)
涙が落ちた。竜の鱗の上に、一粒。
それだけだった。一粒だけ。それ以上は、泣かなかった。
「……処置を、続けます」
「ああ」
震える手で、薬を塗り終えた。
* * *
翌朝。
トビアスさんが、倒れていた傭兵から回収したものを執務室に持ってきた。
短剣。革鎧の破片。小さな革袋——中に銀貨が数枚。そして、一通の書状。
「これは……」
書状を広げた。
雇用契約書だった。「依頼主」の欄に、署名と印がある。
ノルデン家の紋章印。
「——ヴァレス伯爵が、傭兵を雇ってヴェルナー様を直接攻撃した証拠です」
トビアスさんの顔が険しい。
「領主会議まで待てなくなったか。正攻法で押し切れないと見て、力業に出た」
「……ヴァレス伯爵は有能な方だと聞いています。こんな証拠が残る雇い方をするでしょうか」
「私兵団を使えば宣戦布告になります。正式な雇用契約を結ぶ必要があった。——だからこそ、印を押した。焦りですな」
雇用契約書を丁寧に折り畳み、封筒に入れた。手が震えそうになるのを堪える。
(これは——武器だ)
越境関税のデータ。帳簿の改善記録。ゲオルクの証言。そして今——傭兵の雇用契約書。
ノルデン家が「合法的な領地併合」を装っていた仮面が、これで剥がれる。暴力に訴えた証拠。領主会議の場に出せば、ヴァレスの主張の正当性は根底から崩壊する。
「トビアスさん。ゲオルク辺境伯に連絡を取りたい。魔法通信を使います」
「魔法通信——金貨一枚かかりますが」
「かかります。でも、この証拠を手紙で送るには時間がかかりすぎる。領主会議まで一ヶ月。ゲオルク辺境伯に証拠を預けて、安全な場所で保管してもらいたい。屋敷にあれば、また襲撃されて奪われる可能性がある」
トビアスさんが頷いた。「手配します」
一刻後、魔法通信でゲオルクと繋がった。短い通信。要件だけを伝える。
「——傭兵の雇用契約書を託したい。領主会議で、ヴァレス・ノルデンの暴走を告発します」
通信の向こうで、ゲオルクの落ち着いた声が返った。
『受け取ろう。信頼できる者を送る。——だが、リーシャ殿。ひとつ忠告がある』
「はい」
『ヴァレスは追い詰められると手段を選ばない男だ。傭兵を使ったことが知れれば、さらにエスカレートする可能性がある。くれぐれも——窮鼠は猫を噛む。気をつけなさい』
「……肝に銘じます」
通信が切れた。
執務室の窓から、庭を見る。昨夜の戦闘で焦げた林の端が、朝の光の中で黒く煤けていた。
領主会議まで、あと一ヶ月。
書斎で休んでいるヴェルナー様の傷が、少しだけ気にかかった。あの短剣は深かった。竜の回復力なら治るはずだけれど——今朝見た時、傷口の周りの鱗に、うっすらと震えがあった。
(……大型爬虫類で体に震えが出るのは、体温低下か——代謝の変動か)
深くは考えなかった。今は、ゲオルクへの証拠の託送が先だ。
◇
神殿の祈りの間に、怒号が響いていた。
「死者が出ています! カルデン村だけではありません、隣のベルト村にも感染が広がっています!」
神官たちの声が重なる。エルヴィラは椅子に座ったまま、その声を聞いていた。
疫病。辺境の疫病が止まらない。
対策チームは派遣した。マニュアルに基づいた薬の調合を指示した。——指示した、はずだった。
「メレス聖女様、派遣した治癒師からの報告では、薬の配合が効果を示していないと——」
当然だ。配合を間違えたのだから。
いや、間違えたのではない。覚えていなかったのだ。あのマニュアルの配合比率を、正確には覚えていなかった。数値を少し変えて指示した。少しくらい大丈夫だと思った。——大丈夫ではなかった。
「メレス聖女様。僭越ながら——」
年配の神官が、おずおずと口を開いた。
「以前、この神殿に所属していたリーシャ・ハイリゲという聖女候補が、辺境の疫病対策について詳細な記録を残していたと聞いております。その記録が参考になるのでは——」
空気が凍った。
エルヴィラの視界の端が、白くなった。
(——あの名前が、なぜ今)
「……それは私が作成したマニュアルです。リーシャ・ハイリゲの記録ではありません」
声が平坦だった。平坦すぎたかもしれない。神官が怯んだ顔をした。
「は……はい、もちろんでございます。失礼いたしました」
神官が去った後、エルヴィラは椅子の肘掛けを握りしめた。
指先が白い。顔も——蒼白になっていることが、自分でもわかった。
(あの子の名前が、神殿の中で出た。リーシャ・ハイリゲ。追放したはずの名前が——なぜ、今になって)
祈りの間の窓から、午後の光が差し込んでいた。その光が、ひどく冷たく見えた。




