第6話 二人の夜
夜の書斎は、竜の吐息で薄く曇っていた。
窓の外は闇。蝋燭が三本。いつもより一本多いのは、私が帳簿を読むためにヴェルナー様が足してくれたからだ。——本人は「暗いと目を悪くする」としか言わなかったけれど。
磨き布を鱗に当てる。首元から顎の下へ。ここ一ヶ月半で、この作業はすっかり日課になっていた。朝の鱗磨きとは別に、夜も一度。乾燥がひどい季節になってきたから。
黒い鱗が、蝋燭の光を受けて鈍く光る。磨くたびに艶が出る。一ヶ月前と比べて、鱗の状態は格段に良くなっていた。
「ヴェルナー様」
「……なんだ」
「少し、伺ってもいいですか」
「…………」
返事がないのは、拒否ではない。一ヶ月半一緒にいて、わかるようになっていた。この沈黙は「聞いている」だ。
「旦那様は——呪いが解けたら、何をしたいですか?」
磨き布が、鱗の上を滑る音だけが響いた。
長い沈黙。
「……何も」
「何も、ですか?」
「竜の姿の方が楽だ」
竜の喉が、低く震えた。喉鳴りではない。もっと硬い、抑えた音。
「表情を読まれない。……竜には、表情がないから」
(——表情を、読まれない)
磨き布を持つ手が止まった。
竜の姿は強大だ。空を飛べる。炎を吹ける。魔獣を一人で追い払える。でも——この人がそれを「楽だ」と言う理由は、そういうことじゃない。
顔がないから。
表情を読まれないから。
「……母が死んだ時、泣いた」
ヴェルナー様の声が、ぽつりと落ちた。
「俺は六つだった。葬儀の場で泣いた。……それを、父の政敵に見られた」
竜の尾が、ゆっくりと床の上を這った。
「『辺境伯の跡取りが葬儀で泣くとは。弱い子だ』。——その日から、父は俺に言った。『感情を見せるな。お前は辺境伯だ』と」
私は黙って聞いていた。磨き布を鱗に当てたまま、手を動かさずに。
「十六で家督を継いだ。父が死んだ日、俺は泣かなかった。泣き方を忘れていたから。——その直後に呪いをかけられて、竜になった」
蝋燭の炎が揺れた。
「竜の姿は楽だった。顔がない。目を逸らしても誰も気づかない。声が震えても、竜の声だと思ってもらえる。……呪いが解けたら、また顔を見られる。それが——怖い」
怖い。
この人が、怖いと言った。
竜の体で魔獣を追い払い、十年間一人で領地を守ってきた人が。人間の顔を見られることが——怖い、と。
(……ヴェルナー様)
胸の奥が痛い。痛いのに、同時に——わかる、と思ってしまった。
わかる。
顔を見られるのが怖い気持ち。感情を読まれて、利用されて、切り捨てられる。——私も、知っている。
「……私も」
声が出た。自分で驚くほど、静かな声だった。
「私も、逃げていたのかもしれません」
竜の金色の瞳が、こちらを向いた。
「聖女候補として五年間修行しました。でも本当は——聖女になりたかったわけではなかったんです。人の役に立ちたかっただけで。疫病対策の記録をまとめている時が一番楽しくて、解呪の修行は……正直、苦手でした」
磨き布を膝の上に置いた。鱗の温もりが、まだ指先に残っている。
「追放された時、悲しいより先に——ほっとしました。やっと終わった、と。五年間頑張ったのに全部なかったことにされたのは悔しかったけれど……でも、自由になれたことの方が大きかった」
ヴェルナー様は、黙って聞いていた。竜の瞳が、蝋燭の光を映してゆらゆらと揺れている。
「不思議な夢を、よく見るんです。大きな生き物のそばで働く夢。あの夢の中の私は、いつも楽しそうで。——たぶん、それが本当の私なんだと思います。聖女でも、貴族の令嬢でもなくて。大きな生き物のそばで、自分にできることをする人」
言ってから——少し恥ずかしくなった。自分のことをこんなに話したのは、この世界に生まれてから初めてだ。
「……お前は不思議な奴だな」
ヴェルナー様の声に、棘がなかった。怒りも呆れもない、ただまっすぐな声。
「竜を怖がらない。鱗を磨く。帳簿を整える。どれも俺が十年間、誰にもやってもらえなかったことだ」
「私が得意なことが、たまたまここで必要だっただけです」
「たまたま、で——」
声が途切れた。
沈黙。
「お前がいなくなったら困る」
——え。
「……それは、領地経営的に、ですか?」
聞いてしまった。聞かなければよかったのかもしれない。でも——聞かずにはいられなかった。
竜の金色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
沈黙が長かった。蝋燭の炎が一度瞬いて、影が壁の上で跳ねた。
「……そうだ」
声が、震えていた。
低い、竜の声。いつもの声。でも——震えている。ほんの微かに。鱗磨きを始めた頃の、名前を呼んだ時の小さな振動と、同じ種類の震え。
(——嘘だ)
と、思った。
思ってしまった。
領地経営的に。そうだ。合理的な答え。正しい答え。帳簿を管理する人間がいなくなったら困る。竜の世話をする人間がいなくなったら困る。それは本当だ。
でも、声が震えていた。
(……この人は嘘をつく時、声が震える)
いや——嘘じゃないのかもしれない。本当に領地経営的に困るのだ。ただ、それだけではない何かが、声の震えに混ざっていた。
(——いけない)
蓋をした。
(契約結婚だから。この温かさに甘えてはいけない。この人は領主で、私は契約で雇われた嫁だ。一ヶ月半の温もりに勘違いしてはいけない。あの翼の温かさも、怒ってくれたことも、全部——領地のためだ。そうに決まっている)
決まっている、と自分に言い聞かせた。
でも胸の奥の温かさは、蓋をしても消えてくれなかった。
「——ヴェルナー様。もうひとつ、伺ってもいいですか」
「なんだ」
「旦那様の呪いのことです。……呪いをかけたのは、どなたですか」
空気が変わった。
竜の体が、わずかに硬くなった。翼の角度が上がる。警戒の姿勢。——でも、すぐに力が抜けた。
「……闇術師だ」
「闇術師」
「ノルデン家に雇われた」
息が止まった。
「十年前。父が死んだ直後だ。家督を継いだばかりの俺に、呪いをかけた。——ノルデン家が、父の代からこの領地を狙っていたことは知っていた。だが、証拠がなかった。闇術師は呪いをかけた直後に姿を消した」
ヴェルナー様の声は平坦だった。怒りも悲しみもない、ただ事実を並べる声。——あの越境関税所の話をした時と、同じ声。
「……ヴァレス伯爵は、旦那様が竜になることを——」
「父の代から仕組まれていた。今のヴァレスがどこまで知っているかはわからん。だが——あの男が動いているのは確かだ」
十年。
十年間、この人はそれを知っていた。知っていて、証拠がなくて、竜の姿のまま、一人で——。
(……だから、諦めたような声をしていたのか)
越境関税所の時も。ヴァレスの書簡が届いた時も。あの平坦な声は、諦めではなかった。怒りを見せることすらできない、表情を隠し続けてきた人の——沈黙の形だったのだ。
「ヴェルナー様」
「なんだ」
「呪いの件は、今すぐ証明するのは難しいかもしれません。闇術師が消えているなら、直接の証拠がない。でも——ノルデン家がこの領地に対して不当な圧力をかけている証拠なら、もう揃い始めています」
越境関税のデータ。帳簿の数字。ゲオルクの証言。
「十年分の謀略を、帳簿と数字で崩します。領主会議の場で」
竜の金色の瞳が——まっすぐ、私を見た。
さっきまでの揺らぎはなかった。ただ静かに、まっすぐに。
「……お前は」
「はい」
「本当に——不思議な奴だ」
それは、さっきとは違う温度の言葉だった。
書斎を出た。
廊下は冷えていた。秋の夜気が頬に触れる。執務室に向かう足取りは、けれど重くなかった。
呪いの黒幕。十年前からの謀略。領主会議。越境関税。帳簿の数字。
(使えるものは全部使う。この人が十年間言えなかったことを、私が数字で証明する)
——それが、契約で結ばれた嫁にできること。
執務室の扉を開ける。温かい空気が頬を撫でた。いつも通りの、この部屋だけの温もり。
(……断熱がいい屋敷だ)
本当にそう思っていた。




