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契約結婚の相手が竜の姿のままなのですが  作者: 九葉(くずは)


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第5話 竜の翼の温もり

 ノルデン伯爵令妹の訪問——それが穏やかなものでないことは、トビアスさんの険しい顔を見ればわかった。


「マリス・ノルデン様がお見えです。社交のご挨拶にいらしたと」


「……社交、ですか」


 ヴァレス・ノルデンの妹。あの書簡を寄越した男の身内が、このタイミングで。


(偶然じゃない)


 応接室に通した。


 マリス・ノルデンは——綺麗な人だった。


 蜂蜜色の髪を丁寧に結い上げて、淡い藤色のドレス。所作の一つ一つに育ちの良さが滲む。私が入室すると、柔らかく微笑んで立ち上がった。


「初めまして、リーシャ様。マリス・ノルデンと申します。——お噂はかねがね」


「ご丁寧にありがとうございます。リーシャ・ドラッヘンベルクです」


 向かい合って座る。ナタリーがお茶を運んできてくれた。


 マリスの視線が、さりげなく室内を巡った。調度品、壁の紋章、窓の外の景色。情報を読み取っている目だった。社交に慣れた人間の、穏やかに見えて鋭い観察。


「辺境伯様は?」


「書斎にいらっしゃいます。——ご存知かと思いますが、旦那様は竜の姿ですので、来客のご対応は私が」


「ええ、存じております。大変でいらっしゃいますわね」


 大変、に含まれた意味を探る。同情か、嘲りか、それとも——探りか。


「おかげさまで、毎日充実しております」


 お茶を一口。マリスも口をつけた。


 しばらくは当たり障りのない話が続いた。北方の気候のこと、今年の収穫の見通し、社交界の近況。マリスの話し方は上品で、聞いていて心地よい。——だからこそ、油断できない。


 二杯目のお茶を注いだ頃、マリスが核心に踏み込んできた。


「リーシャ様。不躾なことを伺いますけれど……追放された聖女候補が、呪われた辺境伯のもとに嫁ぐというのは、やはりご苦労がおありでしょう?」


 言葉は丁寧だった。でも、「追放された」と「呪われた」を並べて置く配置は、丁寧さとは別の意図を持っている。


「兄がとても心配しておりましたの。若い女性がこのような辺境で、竜の姿の殿方と二人きりだなんて——お辛くはありませんか?」


「ご心配いただきありがとうございます。ですが、辛いと思ったことはございません」


「まあ」


「旦那様は竜の姿ですが、統治に支障はございませんので」


 マリスの微笑みが、ほんの一瞬——薄くなった。すぐに元に戻る。


「ふふ、ご立派ですわ。でも——ねえ、リーシャ様」


 声のトーンが落ちた。親密さを装った囁き。


「呪われた夫に尽くして、何になりますの? お若いのに。兄の保護下にお入りになれば、もっと楽に暮らせますわ。兄も、あなたのような聡明な方を放っておけないと——」


(——来た)


 本題。懐柔。


 保護という名の引き抜き。私をヴェルナー様から引き離して、ノルデン家の支配下に置く。領地経営の担い手がいなくなれば、「統治不能」の主張に説得力が増す。


 マリスの目を見た。藤色のドレスに包まれた優雅な令嬢の目は、穏やかで、賢くて——冷たかった。


「ノルデン伯爵令妹のお心遣い、ありがたく存じます」


 背筋を伸ばした。


「ですが、遠慮させていただきます。旦那様は竜の姿でも統治に支障はございませんし——何より、私はこの領地が好きです」


 マリスの表情が、今度はっきりと硬くなった。一瞬だけ。でも確かに。


「……そう。残念ですわ」


 微笑みが戻る。でも、目の温度が変わっていた。


 それから幾つかの雑談を交わして、マリスは帰っていった。馬車が門を出るまで見送る。藤色のドレスが馬車の窓に消えるのを確認してから——ようやく、肩の力を抜いた。


(疲れた……)


 応接室に戻ると、椅子の脚のあたりに何かが引っかかっていた。黒い——鱗。


 いや、鱗ではない。竜の尾だ。


 壁の下部にある通気穴——暖房管を通すための、あの穴。そこから、ヴェルナー様の尾がにゅっと伸びてきていた。先端がちょうど私の椅子の周りを、ぐるりと一周囲んでいる。


(……いつからあったんだろう、これ)


 マリスと話している間、ずっとあったのか。気づかなかった。尾の先が椅子の脚に巻きついているせいで、立ち上がりにくい。


「ヴェルナー様。尾が邪魔です」


 通気穴に向かって声をかけると、尾が——ものすごくゆっくりと引っ込んでいった。


(何だったんだろう。暖房管の調整でもしていたのかな)


 深くは考えなかった。考える余裕がなかった。


* * *


 その日の夕方、執務室の机に突っ伏した。


 ——体が重い。


 一ヶ月半。帳簿の整理。食糧備蓄の見直し。暖房システムの設計。未活用農地の水路計画。交易路の関税データの抽出。ヴェルナー様の鱗磨きと食事管理。領主会議の準備。マリスへの応対。全部同時に走らせてきた。


 前世でも過労で倒れたことがある。——というか、過労で死んだのが前世だった。あの時は「まだいける」と思った三日後に意識を失った。


(……ま、ずい)


 視界が揺れた。体が傾ぐ。


「奥様っ——」


 ナタリーの声が遠い。


 床に倒れる前に、誰かの腕に支えられた。温かい手のひらが額に触れて——ああ、熱い。これは自分の額が熱いんだ。


「奥様、お熱が……! お部屋にお運びします」


 ナタリーの声。廊下を運ばれている。天井がゆっくり流れていく。


(……ごめんなさい。帳簿の続き……)


 意識が遠のいた。


* * *


 深夜。


 暗い部屋の中で、ぼんやりと目が覚めた。


 ——寒い。


 熱があるのに寒い。歯がかちかち鳴る。毛布を引き寄せようとして、うまく手が動かない。指先が震えている。


 その時、空気が動いた。


 部屋の扉が開く音はしなかった。——いや、この部屋にはもうひとつ、大きな入り口がある。テラスに面した、馬車が通れるほどの二重扉。ナタリーが「以前は荷搬入に使っていた」と言っていた扉。


 暗闘の中に、黒い影が広がった。


 温かい。


 突然、体を包む温度が変わった。毛布の上から——いや、毛布よりもずっと広い何かが、私の体を覆った。


 鱗の感触。硬くて、でも熱い。暖炉の石みたいなあの温もり。


(……ヴェルナー、さま?)


 竜の翼だった。


 大きな、大きな黒い翼が、私の体をすっぽりと包んでいた。翼膜から伝わる体温が、震えを溶かしていく。寒さが遠ざかる。手足の先まで、じんわりと温もりが染み込んでくる。


「……あっ、たかい……」


 声が漏れた。半分寝ぼけていた。


 体が勝手に動いた。温かい方へ——翼の付け根の方へ、にじり寄る。鱗に頬が触れた。ごつごつしているのに、温かい。首元の鱗は毎朝磨いているから、手触りがわかる。


(……もふもふじゃないけど……温かい……)


 意識が沈んでいく。温もりに包まれて、体の震えが止まった。


 遠くで——竜の喉が、小さく鳴っていた気がした。


* * *


 朝の光で目が覚めた。


 体が軽い。熱は下がっていた。手足の感覚も戻っている。


 ——それに、やけに温かかった。


(お布団がこんなに暖かかったっけ……)


 目を開けて、体を起こす。


 部屋の隅に——竜がいた。


 巨大な黒竜が、壁際で体を丸めて座っている。翼を折り畳んで、尾を体に巻きつけて。金色の瞳が、こちらを見ていた。


「……ヴェルナー様」


「起きたか」


 低い声。いつもの声。でも、どこかに棘がある。


「あの……なぜ、こちらに」


「お前が倒れたと聞いた」


「すみません、ご心配をおかけ——」


「身体を壊すまで働くな」


 声が、大きくなった。


 書斎でいつも聞く低く静かな声ではなかった。荒い。苛立ちを隠さない、剥き出しの声。竜の喉の奥から響く、地鳴りのような怒声。


「帳簿も農地も、お前が倒れたら意味がない。——死んだらどうする」


 ……え。


 今、何と。


「お前は——無理をしすぎだ。一ヶ月半、ろくに休まず。俺が止められなかったのが悪い。だが——」


 言葉が途切れた。竜の顎が、ぐっと閉じられる。


 怒っている。本当に怒っている。


 でも——それは。


「……怒って、くださるんですね」


 自分の声が、妙に静かに聞こえた。


 ヴェルナー様の金色の瞳が、揺れた。


「……当たり前だ」


「……ありがとうございます」


「礼を言うな。俺は怒っている」


「はい。怒ってください」


 怒られている。心配されている。私が倒れたことに、この人は怒っている。


(——ああ)


 胸の奥が、じわりと温かくなった。


 追放された時、誰も怒らなかった。誰も心配しなかった。「残念です」と穏やかに言われて、それで終わりだった。五年分の仕事ごと、静かに切り捨てられた。


 この人は怒ってくれる。


 私が倒れたら困ると——死んだらどうすると。


(……この人は、私のことを見てくれている)


 温かい。胸が温かい。昨夜のあの温もりの名残みたいに、じんわりと——


(——いけない)


 温かさに、蓋をした。


(契約結婚だから。勘違いしてはいけない。この人は領地のために怒っているのだ。帳簿を管理する人間が倒れたら困る。それだけだ。そうに決まっている)


 布団から出て、足を床につけた。


「ヴェルナー様。昨夜は——お布団がとても暖かくて、ぐっすり眠れました。ありがとうございます」


 竜の金色の瞳が、一瞬だけ見開かれた。


「……布団」


「はい。いつもよりずっと温かかったので。ナタリーが湯たんぽを入れてくれたのかもしれません」


「…………」


 ヴェルナー様は何も言わなかった。


 大きな体を起こして、テラスの二重扉に向かう。朝の光の中で見る黒い鱗は、やっぱり藍色がかって綺麗だった。


 扉の向こうに消える間際、低い声が聞こえた。


「——二度と倒れるな」


 扉が閉まった。


 部屋に一人残されて、ベッドの縁に座ったまま——温かかった布団に手を置いた。


 毛布は、もう冷たくなっていた。


(……あれ。湯たんぽにしては、冷めるの早くない?)


 考えかけて——やめた。領主会議まで、あと二ヶ月半。倒れている場合ではない。休んだら、また帳簿の続きだ。


 今度はちゃんと、休みながら。

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