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契約結婚の相手が竜の姿のままなのですが  作者: 九葉(くずは)


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第4話 帳簿が語る成果

 帳簿の数字が、一ヶ月前とは別物になっていた。


「——ヴェルナー様。月次報告をお持ちしました」


 書斎の扉を開ける。蝋燭の灯りの中、黒い竜が定位置に座っている。金色の瞳がこちらを向いた。


 ここ一ヶ月で、この部屋に入る時の緊張はすっかり消えていた。代わりにあるのは、鱗磨きの前の「今日の状態はどうかな」という職業的な目線と、報告が楽しみだという高揚と——あとは、書斎独特の温かさ。竜の体温で常に暖められたこの部屋は、屋敷の中で一番居心地がいい。


「食糧備蓄は先月比で二割増です。冬季に向けた乾燥保存の工程を見直して、廃棄率を下げました。それから、暖房の件ですが——」


 報告書を竜の前に広げる。


「竜の炎で温めた湯を、管を通して各棟に循環させる温水式の暖房を提案します。現状の薪暖房と比べて、燃料費を四割削減できます。ヴェルナー様に炎を吹いていただく手間はかかりますが——」


「構わん」


「ありがとうございます。あと、東側の未活用農地ですが、水路の設計図を起こしました。来春には開墾に着手できます」


 数字を並べた報告書を、竜の金色の瞳が追っていく。


 長い沈黙。


「……一ヶ月でここまでやったのか」


「帳簿を読めば、やるべきことは見えてきます。この領地はもともと地力があるんです。十年間、手が回らなかっただけで」


 最後の一言は——少し余計だったかもしれない。十年間手が回らなかったのは、ヴェルナー様が竜の姿で対外交渉もできなかったからだ。それを私が軽々しく言うべきではなかった。


 けれど、ヴェルナー様は何も言わなかった。ただ、竜の尾が床の上をゆっくりと左右に揺れていた。


(……あの揺れ方。怒ってはいない)


 一ヶ月も一緒にいると、少しずつわかるようになってきた。尾の揺れ方、翼の角度、喉の鳴り方。竜の表情は読めないけれど、体の動きには感情が出る。


 嫌がっている時は尾が硬くなる。考えている時は翼の先が小さく動く。そして——今みたいに尾がゆっくり揺れている時は、たぶん、悪くない気分でいる。


 たぶん。


* * *


 執務室に戻ると、机の上に封書が置いてあった。


「トビアスさん、これは?」


「東方辺境伯ゲオルク・ヴァイス閣下からのお手紙です。今朝の便で届きました」


 封を開ける。丁寧な筆跡で、短い文面が綴られていた。


『ヴェルナー辺境伯殿へ


 貴領からの交易品の品質が顕著に向上しており、喜ばしく思う。干し肉と薬草の品質は特に素晴らしい。新しい担当者を迎えたと風の噂に聞いたが、見事な手腕である。


 なお、貴領の安定について、王都にも報告を送らせていただいた。北方の安定は当方の利益にも直結するゆえ、今後の交易の拡大についても前向きに検討したい。


 ゲオルク・ヴァイス』


「……王都にも報告を」


 トビアスさんが頷いた。


「ヴァイス辺境伯は先代の旦那様と親交がおありでした。ヴェルナー様の竜化後も、陰ながら見守ってくださっている方です」


(ゲオルク辺境伯が王都に「ヴェルナー領が安定している」と報告した——ということは)


 ノルデン伯爵が王都に送っているという嘆願書。「呪われた領主の統治は危険だ」という主張。その説得力が、ゲオルクの報告で薄くなる。


 小さな、けれど確かな一手。


「トビアスさん。この書簡、ヴェルナー様にお見せしてもいいですか」


「もちろんです。……奥様」


「はい?」


「嬉しそうなお顔をされていますね」


「——だって、嬉しいですから」


 数字は嘘をつかない。やったことが、ちゃんと外に伝わっている。


 トビアスさんが、ほんの少しだけ——あの「やっとまともな方が来た」と呟いた時と同じ顔で、笑った。


 机に向かって、午後の事務作業を始める。帳簿の照合。交易路の関税記録の整理。あの越境関税所の件は、まだ結論を出せていない。もう少しデータを集めたい。


 ふと、気づいた。


 ——今日も、この部屋は温かい。


 屋敷の他の部屋は、秋の冷え込みが始まっていて、廊下に出ると息が白くなる。なのに、この執務室だけはいつも快適な温度に保たれている。


(この屋敷、断熱がいいんだな。東翼だけ建材が違うのかもしれない)


 昼過ぎにナタリーがお茶を持ってきてくれた。


「奥様、お茶をどうぞ。——ふふ」


「どうしました?」


「いえ。他の部屋は寒いのに、奥様のお部屋だけ温かいですわね」


「ええ、断熱がいいみたいで」


 ナタリーがお茶を置きながら、あの意味ありげな微笑みを浮かべた。——この人は時々こういう顔をする。何か知っていて、でも教えてくれない笑み。


(……何だろう。まあ、いいか)


 温かいのはありがたい。冷え性なので。


* * *


 夕方、書斎に月次報告の補足資料を届けに行った。


 扉の前で、トビアスさんに会った。


「あ、トビアスさん。ちょうどよかった、この資料をヴェルナー様に——」


「奥様、それでしたら私がお持ちしますよ。旦那様の書斎にはいつも出入りしておりますし」


 書斎の中から、低い声が響いた。


「——リーシャが持ってこい」


 トビアスさんが、ぴたりと足を止めた。


「旦那様、私でもお持ちできますが——」


 ごん、と音がした。


 トビアスさんの足元を、竜の尾が横切っていた。書斎の中から廊下の壁の穴を通って伸びてきた黒い尾が、トビアスさんの脛を軽く——いや、そこそこの勢いで叩いた。


「……承知しました」


 トビアスさんが苦い顔で一歩引いた。「どうぞ、奥様」と私に道を譲る。


「す、すみません。私が持っていけばよかったですね」


「いえ。お気になさらず。——旦那様がそうおっしゃるなら」


(効率の問題だろう。私の方が数字の説明ができるから)


 書斎に入ると、ヴェルナー様が金色の瞳でこちらを見た。


「資料の補足です。交易品の出荷先の内訳と、東方辺境伯からの書簡の写しをお持ちしました」


「……ああ」


 資料を説明する。ヴェルナー様は黙って聞いている。時折、喉の奥で短い音を出す。同意の合図だと、この一ヶ月で覚えた。


 ゲオルクの書簡の話をすると、竜の翼がわずかに持ち上がった。


「ゲオルクが——あの男がそう言っているなら、嘘ではないだろう」


「ご存知の方ですか?」


「父の友人だった。俺が竜になった後も……見捨てなかった数少ない人間のひとりだ」


 声が少しだけ柔らかくなった。ゲオルクのことを話す時のヴェルナー様は、いつもより言葉が多い。


 報告を終えて立ち上がりかけた時——トビアスさんが書斎に入ってきた。顔が険しい。


「旦那様。奥様。——ノルデン伯爵から書簡が届きました」


 手にしている封書を見て、空気が変わった。ノルデン家の紋章が押された赤い封蝋。


 トビアスさんが封を開け、読み上げる。


『ヴェルナー・ドラッヘンベルク辺境伯殿へ


 呪いにより竜の姿のまま十年が経過し、対外交渉も社交も不可能な状態が続いていることは、北方の安定にとって憂慮すべき事態である。


 つきましては、三ヶ月後に開催される北方領主会議の場にて、ドラッヘンベルク辺境伯の統治能力について議題とすることを正式に提案する。


 北方の民のために、最善の結論を得られることを願う。


 ヴァレス・ノルデン』


 ——北方の民のために。


(よく言う)


 帳簿を見た。越境関税所を見た。この一ヶ月、数字を追い続けてわかったことがある。ヴェルナー領を経済的に締め付けている構造の中心に、ノルデン伯爵領がいる。


 「統治不能」を理由に領地管理権の移譲を狙っている——そう疑うに足る材料は、もう揃い始めていた。


「……来たか」


 ヴェルナー様の声に、感情はなかった。あの、諦めに似た平坦さ。空から越境関税所を見た時と同じ。


 ——それが、嫌だった。


「ヴェルナー様」


「なんだ」


「三ヶ月あります」


 竜の金色の瞳を見上げた。


「それまでに、この領地が正常に統治されている証拠を揃えましょう。帳簿の改善データ、交易の回復記録、領民の声。数字で証明すれば、統治不能という主張は崩せます」


「……」


「それと、越境関税の件も。あれが不当であることを立証できれば、逆にノルデン伯爵側の不正を指摘できます」


 沈黙が、書斎に落ちた。蝋燭の炎が揺れる。


 ヴェルナー様の尾が——床の上で、ゆっくりと動いた。硬い動きではない。考えている時の、翼の先が小さく動く——あの仕草。


「……お前は、何でそこまでする」


「契約書に『領地経営代行権』と書いてあったので」


「……それだけか」


(それだけか、と聞かれると——)


 答えに詰まった。契約だから。仕事だから。それは本当だ。でも、もうひとつ。


 帳簿の数字の向こうに見えた十年間。竜の姿のまま、誰の助けもなく、交渉もできず、それでも税を重くせず、魔獣を追い払い、この領地を守り続けてきた人がいる。その人の前で「統治不能」などと——言わせたくなかった。


「——旦那様の領地ですから」


 それだけ言った。


 ヴェルナー様は何も返さなかった。


 けれど、書斎を出る時、背後で竜の喉が小さく鳴ったのを——聞いた。


 廊下で、トビアスさんが壁に背を預けて待っていた。


「奥様。三ヶ月、ですか」


「ええ。忙しくなりますね」


「……奥様が来てから、この屋敷は忙しくなりっぱなしです」


「すみません」


「いえ」


 トビアスさんが、ぽつりと言った。


「——ようやく、忙しくなれたんです」


 秋の廊下は冷えていた。息が白く曇る。


 執務室に戻ると——やっぱり、温かかった。

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