第3話 空から見た領地と、神殿に届いた不都合な報告
竜の背中は、想像以上に広かった。
「——しっかり掴まれ。落ちても拾わん」
「はい。……あの、鱗の掴み方ですが、この角度で引っ張っても痛くないですか?」
「……痛くない」
「よかった。では参ります」
ヴェルナー様の翼が広がる。左右に伸びた黒い翼は、書斎の中では折り畳まれていたせいで気づかなかったけれど——とんでもなく大きい。屋敷の正面扉の幅よりまだ広い。
ふわり、と体が浮いた。
地面が離れる。屋敷の屋根が眼下に沈む。灰色の空と、緑の大地と、遠くに霞む山脈。
(——すごい)
風が冷たい。でも竜の背中は温かかった。鱗の隙間から伝わる体温が、風の冷たさをちょうど打ち消してくれる。
「ヴェルナー様、あの川の流域——東側の平地が農地に使われていませんね。地形的には耕作に向いていると思うのですが」
「……灌漑が整っていない。俺の代になってから、手が回らなかった」
「なるほど。水路を一本引けば、かなりの面積が使えそうです。帳簿と照らし合わせてみますね」
上空から見ると、地上では分からないことが見える。川の形、森の分布、道の走り方。前世で航空写真を使って動物の生息域を把握していた経験が、妙なところで役に立った。
ヴェルナー様の飛行は穏やかだった。
(竜って、意外とゆっくり飛ぶものなんだな)
揺れも少ない。翼の角度を丁寧に調整しているのか、馬車よりよっぽど快適だ。風に煽られることもなく、安定した高度を保って領地の上を滑るように進んでいく。
「あそこに見える村が最初の視察先ですか?」
「……ああ。リンデ村。領地の中では一番大きい」
竜が、ゆっくりと高度を下げ始めた。
* * *
リンデ村の広場に降り立った時、最初に聞こえたのは悲鳴だった。
——ではなかった。悲鳴の手前の、息を呑む音。村中の人間が一斉に息を止めた、あの独特の静寂。
竜が地上に足をつけると、地面が揺れた。砂煙が立つ。広場にいた人々が、蜘蛛の子を散らすように後ずさる。子供を抱きかかえて家の中に駆け込む母親。柵の向こうに隠れて震えている老人。
(……怖がっている)
当然だ。巨大な黒竜が空から降ってきたのだ。ヴェルナー様がこの村の領主だと知っていても、あの姿を見て平気でいられる人間はそういない。
私は竜の背から降りた。トビアスさんが地上で待っていてくれていて、手を貸してくれる。先に馬で来ていたらしい。
「……奥様、村長が」
トビアスさんが目線で示した先に、白髪の老人がいた。杖をついて、震えながらこちらに歩いてくる。村長だろう。その後ろに、数人の領民が恐る恐るついてきている。
「お、お初にお目にかかります。辺境伯夫人でいらっしゃいますか……」
「リーシャと申します。本日は旦那様と領地の視察に参りました。お時間をいただけますか」
村長の目が、私の後ろの竜に向いて——すぐに逸れた。目を合わせられないのだ。
話を聞いた。冬の備蓄のこと。農地の水不足のこと。交易路を使う商人が最近減ったこと。村長は丁寧に答えてくれたけれど、ちらちらとヴェルナー様の方を窺っては、声が小さくなる。
領民の数人が集まってきていた。遠巻きに。私には会釈をくれる人もいたが、竜の方には誰も視線を向けようとしない。
(……この人たちは、十年間ずっとこうだったのか)
領主がいる。領主は竜の姿だけれど、この領地を守っている。帳簿を見ればわかる。税は重くない。むしろ、領主自身の生活を切り詰めて、領民への負担を最小限にしている。あの帳簿の数字が、それを証明していた。
なのに——恐れられるだけで、慕われていない。
胸の奥に、じりっとした熱が灯った。
「村長」
「は、はい」
「辺境伯は、竜の姿ではありますが、この領地をきちんと治めておられます」
声が、自分で思ったより大きく出た。広場に響いた。
「税は北方四領の中で最も低く、魔獣の被害もこの十年で最小に抑えられています。それは辺境伯ご自身が、竜の力で領地を守っておられるからです。——どうか、恐れるだけでなく、信じてあげてください」
静寂。
村長が目を瞬いた。周囲の領民も。
——私は少しやりすぎたかもしれない。初対面で、いきなり。
でも。
数字は嘘をつかない。この領地が十年間持ちこたえてきたのは、竜の辺境伯がいたからだ。それを、ちゃんと言葉にしたかった。
村長がゆっくりと頷いた。
「……夫人。ありがとうございます。わしらも、本当は……わかっておるんです。辺境伯様がおらなんだら、この村はとうに魔獣にやられとった」
その言葉に、周囲の空気がわずかに——ほんのわずかだけ、和らいだ。
帰り際、トビアスさんがぽつりと言った。
「奥様。旦那様、あの——村長殿とお話されている間、遠くの壁の影に……」
「壁の影?」
「固まっておられました。まったく動かず。石像のように」
(……怒ったかな)
「いえ。あれは怒っているのではないと思います。ただ——旦那様が人前であの反応をされるのは、初めてでしたので」
トビアスさんは、それ以上は言わなかった。
* * *
帰路。竜の背で空を飛びながら、もうひとつ気づいたものがあった。
交易路に沿って、小さな建物が建っている。木造の、関税徴収所のような——いや、関税徴収所そのものだ。ノルデン伯爵領の紋章旗が立っている。
ただし、場所がおかしい。
(あの位置……ヴェルナー領との境界線より、かなりこちら側に入り込んでいる)
ヴェルナー領の商人がノルデン領に向かう交易路の途中に、ノルデン側の関税徴収所がある。しかも境界を越えて、こちらの領地にはみ出して。
「ヴェルナー様。あの検問所は——」
「……知っている。十年前からあった」
声に、感情がなかった。諦めとも違う。ただの事実を述べるような平坦さ。
「俺には交渉する手段がなかった。竜の姿では、書面を交わすことすら——」
言葉が途切れた。
「……ヴェルナー様」
「なんだ」
「あれは法的に問題がある可能性があります。帳簿の関税収入の急減と合わせれば、越境して不当に徴収している証拠を組み立てられるかもしれません」
竜の背が、ほんのわずかに揺れた。
「……できるのか」
「できます。帳簿と、あの徴収所の位置関係と、領地の境界の公式記録があれば」
沈黙。風の音だけが耳を打つ。
「ヴェルナー様。十年間手段がなかっただけで、旦那様が悪かったわけではありません。——手段なら、私がお持ちしました」
返事はなかった。
でも、竜の飛行が——少しだけ、速くなった気がした。いつもより力強い翼の動き。
(……あ、そうか。竜もテンション上がると飛び方変わるんだ)
まったくの見当違いだったことを、私はずっと後まで知らなかった。
屋敷に着いて竜の背から降りる時、つい——首元に頬を寄せた。温かい鱗の感触。一週間前から毎朝磨いている鱗だ。見慣れたはずなのに、空の上で見る黒い鱗は、地上より少しだけ綺麗に見えた。
「ありがとうございました、ヴェルナー様。今日の視察は、とても有意義でした」
「……ただの視察だ」
声が、少しだけ柔らかかった。——気のせいだろうか。
竜が書斎に戻っていくのを見送ってから、トビアスさんに訊いた。
「トビアスさん。ヴェルナー様は、いつもあのくらいの速度で飛ばれるんですか?」
トビアスさんが、一瞬だけ妙な顔をした。
「……今日の旦那様は、通常の三分の一の速度でしたが」
「え?」
「さあ、なぜでしょうね」
トビアスさんは肩をすくめて、厨房の方へ歩いていった。私はその背中を見送りながら、首を傾げた。
(三分の一……? 竜ってもっと速く飛べるの?)
深くは考えなかった。執務室に戻って、越境関税の証拠を帳簿から抽出する作業を始めなければ。
机に向かう。帳簿を広げて、三年分の数字と境界線の記録を照らし合わせていく。
(ノルデン領の関税徴収所が越境している期間と、関税収入の減少カーブがぴったり重なる。これは偶然じゃない)
誰かが、意図的にこの領地を締め付けている。
羽根ペンを握る手に、力がこもった。
◇
神殿の白い回廊は、午後の光で金色に染まっていた。
エルヴィラ・メレスは微笑みを崩さないまま、書類を捲った。辺境からの報告書。疫病の再発。薬草の不足。治癒師の派遣要請。
「メレス聖女様」
若い神官が駆け寄ってきた。息が上がっている。
「辺境のカルデン村から急報です。疫病が再発しておりまして——以前作成されました対策マニュアルに基づいて対処したいのですが、薬草の配合量を具体的にご教示いただけますか。煎じ薬の調合が、村の治癒師だけでは判断がつかないと」
「……配合量」
「はい。マニュアルの第三項に記載のある、熱冷ましの煎じ薬です。乾燥した山蒲公英の根をどの程度の比率で——」
「ええ。もちろん」
微笑みを保つ。指先が、わずかに冷たくなるのを感じた。
山蒲公英の根。比率。第三項。
(——何対何だったか)
マニュアルは読んだ。一通り目は通した。でも、あの細かい配合比率まで覚えてはいない。あれを書いたのは私ではないのだから。
「……少し調べ直します。記録を確認してからお伝えしますので」
「はい。急ぎではございますが——」
「急ぎだということは理解しています」
声が硬くなった。神官が怯んで一歩下がる。
——いけない。笑顔。穏やかに。筆頭聖女は常に冷静で慈悲深く。
「すぐにお伝えしますので、少しだけお待ちくださいね」
神官が去った後、エルヴィラは書棚に向かった。マニュアルの写しを引き出す。自分の筆跡で清書した表紙。中身は——中身は、あの子が書いたものだ。
リーシャ・ハイリゲ。
五年間の修行で、誰よりも丁寧に記録をつけていた聖女候補。解呪の適性は——本当はどうだったか、もう考えたくなかった。
配合比率のページを開く。指が震えていないことを確認して、数字を読み取った。
(……あの子がいれば、こんな確認は必要なかった)
その考えを、すぐに頭から追い出した。いない。もういない。追放したのだから。
——でもあの子はもういないのだから、問題ない。マニュアルは私のもの。功績は私のもの。あの子がどこで何をしていようと、もう関係ない。
白い回廊に、午後の光が長い影を落としていた。




