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契約結婚の相手が竜の姿のままなのですが  作者: 九葉(くずは)


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第2話 竜の鱗磨きと領地の帳簿

 竜の鱗は、思ったよりもずっと温かかった。


「——失礼します。まず首周りから確認させてください」


 朝一番に世話メニューの紙を持って書斎に乗り込んだ私を、ヴェルナー様は金色の瞳で見下ろした。あの瞳の温度はまだ読めない。昨日と同じ、静かな困惑。


「……触るのか」


「ええ。鱗は健康状態のバロメーターですから」


 巨大な竜の首元に手を置く。


 硬い。でも、冷たくはない。指の腹に伝わる熱は、体温というより——暖炉の石みたいだ。じんわりと深いところから温かい。


(体温がやや高め。室温の高さはやっぱりこの方の体温が原因だった。湿度は……低い。鱗の表面にわずかな乾燥がある。水分補給の頻度を確認しないと)


 鱗の一枚一枚に指を滑らせて、欠けや変色がないか見ていく。前世の飼育舎で大型爬虫類を担当していた頃の手が、勝手に動く。


 ヴェルナー様が——固まっていた。


 文字通り、石のように。翼も尾も微動だにしない。呼吸すら浅くなっている気がする。


「ヴェルナー様?」


「……なんだ」


「力、入ってます。少し楽にしてください」


「……楽にしている」


 していない。首の鱗の下の筋肉がガチガチだ。触られること自体に慣れていないのだろう。十年間、竜の姿で。——誰にも触れられずに。


(……ゆっくりやろう)


 前世の知識が囁く。警戒している個体には、まず「触られても害がない」と覚えてもらうことが大事だ。声のトーンを落とす。動きをゆっくりにする。急な動作をしない。


「鱗磨きをしてもいいですか。乾燥が少し気になるので」


「……好きにしろ」


 鞄から磨き布を取り出した。前世の記憶を頼りに、昨夜のうちに作っておいたものだ。柔らかい布を三重に折り、表面に薄く油を染み込ませてある。爬虫類の鱗に使っていたケア用品の、この世界の素材での再現。


 首元の鱗に布を当て、一枚ずつ、鱗目に沿って磨いていく。


 力は入れない。鱗の表面を滑らせるように。


 一枚。二枚。三枚——。


 しばらくして、異変に気づいた。


 音だ。低い、地鳴りのような——いや、違う。もっと細かい振動。


 ヴェルナー様の喉が、鳴っていた。


 ぐる、ぐる、と。猫の喉鳴りを何十倍にも太くしたような、腹に響く低音。


「……気持ちいいですか?」


 喉鳴りが、ぴたりと止まった。


「……別に」


 止まったのは一瞬だけだった。磨き布が次の鱗に移ると、また——ぐるる、と。


(別に、って言いながら喉鳴ってますけど)


 ツッコミたい気持ちを飲み込んで、黙々と磨き続ける。首元から背中の付け根へ。乾燥がひどい箇所には油を多めに。鱗の合わせ目に汚れが溜まっているところは丁寧に拭き取る。


 ヴェルナー様の体から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。翼の角度が下がる。尾の先が床の上でゆっくりと弧を描く。


「ヴェルナー様」


 名前を呼んだ瞬間——竜の巨体が、小さく震えた。


 ほんの一瞬。鱗を磨いている手に、細かい振動が伝わった。


「……どうしました?」


「何でもない」


 何でもない、の声が少しだけ硬い。


(……触り方が悪かったかな)


 そう思いながら磨き続けていると、書斎の扉の隙間から、ナタリーがそっと顔を覗かせていた。目が合う。彼女が口元に手を当てて、小さく——本当に小さく、笑った。


 何だろう。変なことをしただろうか。


 磨き終えたのは、朝の鐘が二つ鳴った頃だった。


* * *


「——これは、ひどいな」


 執務室。ナタリーに案内されたこの部屋は、東翼の私の部屋の隣にあった。元々は先代辺境伯の奥方が使っていた部屋だそうで、今は物置に近い。机と椅子だけ残して、あとは埃を被った棚。


 その机の上に、帳簿を広げていた。


 ヴェルナー様に頼んで——正確には「帳簿を見せてください」と言ったら「……好きにしろ」と返されたので——書斎から持ち出した領地の経営記録。三年分。


 数字を追っていく。収入。支出。交易品の出荷量。関税収入。


(交易路の関税収入が、三年前と比べて四割減——)


 減り方が不自然だ。交易量自体は微減程度なのに、関税収入だけが急落している。これは交易量の問題じゃない。関税の構造に何か変化があったということだ。


「トビアスさん」


 部屋の前を通りかかった男性に声をかけた。三十代くらいの、背の高い武人だ。執事兼護衛だとナタリーに聞いている。ヴェルナー様の幼馴染で、竜化した後も仕え続けている人。


「何でしょう、奥様」


「この帳簿なのですが、交易路の関税収入がここ三年で大きく落ちています。何か心当たりはありますか」


 トビアスが帳簿を覗き込み、眉をひそめた。


「……交易路の関税は、旦那様が竜になられてから交渉事が滞っておりまして。隣領との取り決めも、見直しが進んでおりません」


「隣領——ノルデン伯爵領ですか」


「はい。北方の交易路はノルデン領を経由しますので、向こうの関税設定に影響を受けます。ですが、旦那様は竜の姿で商人とも他領の代官とも交渉ができず……」


 トビアスの声が、少し沈んだ。


 十年間。竜の姿で、対外交渉もできないまま、じわじわと経済を締め付けられてきた。帳簿の数字が、それを静かに語っている。


(……これは、放っておいたらまずい)


 けれど——数字は嘘をつかない。問題が見えるなら、打つ手もある。


「トビアスさん。帳簿は私が管理します。食糧備蓄の見直しと、支出の最適化から始めたい。それと、交易路の関税の問題は少し調べさせてください」


 トビアスが目を瞬いた。


「……奥様が、帳簿を?」


「契約書に『領地経営代行権』とありましたので。遠慮なく使わせていただきます」


 トビアスの表情が——ほんの一瞬だけ、ほどけた。呆れとも安堵ともつかない、不思議な顔。


「……やっと、まともな方が来た」


 小さな声だった。私に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。


* * *


 翌朝。


 部屋の扉を開けたら、足元に薬草の束が置いてあった。


 見覚えのある葉。これは——鱗の乾燥に効く軟膏の材料だ。しかもかなり質がいい。希少な高山種。こんなもの、庭に生えているものだろうか。


「あら、奥様。おはようございます」


 廊下の向こうからナタリーが歩いてきた。薬草の束に目を留めて、少し首を傾げる。


「……旦那様が、今朝早くに山へ飛んで行かれましたが」


「山へ? 領地の巡回ですか」


「さあ……どうでしょう」


 ナタリーの口元に、昨日と同じ笑みが浮かんでいる。意味ありげな、けれどそれ以上は何も言わない微笑み。


(巡回だろうな。竜なんだから、空から見回るのが効率いい。薬草はたまたま庭に生えていたのを誰かが……)


 深く考えず、薬草を受け取った。これで軟膏が作れる。ヴェルナー様の鱗の乾燥、もう少しケアしたい。


 昼過ぎ、帳簿を書斎に返しに行った。ついでに、朝の分析結果を報告する。


「ヴェルナー様。帳簿を拝見しました」


「……で」


「この領地、もっと良くなります」


 竜の金色の瞳が、わずかに揺れた。


「交易路の関税の問題を解決すれば、収入は回復できます。食糧備蓄の最適化も、冬までに間に合う。農地の活用にも改善の余地があります。——やらせてください」


 長い沈黙。


「……勝手にしろ」


 口では突き放す。いつもの、素っ気ない声。


 でも——視界の端で、竜の尾が小さく揺れていた。床の上で、ゆらり、ゆらりと。


(怒ってはいない。あの尾の動き方は、昨日の鱗磨きの時と同じだ)


 書斎を出る。帳簿を三冊抱えて廊下を歩く私の背中を、金色の瞳が見送っていたことには——気づかなかった。


 その夜。


 書斎の前の廊下を、トビアスが通りかかった。


 足が止まる。


 扉の向こうから、かすかな音が聞こえていた。低く、規則的な——呼吸の音。深い、穏やかな呼吸。


 竜の、寝息だった。


 トビアスは廊下に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


「……旦那様が、眠っている」


 呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。


「あの方が——」


 十年間。夜ごと書斎で書類を捌き、眠れぬ夜を過ごしてきた主を、誰よりも近くで見てきた。


 扉の向こうの寝息を背に、トビアスは足音を殺して廊下を去る。厨房の方から、若い侍女の囁きが聞こえた。


「——ねえ、聞いた? 旦那様、昨日の鱗磨きの後からご機嫌なんですって」


「追放されたって聞いたけど……神殿の目は節穴だったんじゃないの」


 トビアスは何も言わず、ただ少しだけ——足取りを軽くした。

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