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契約結婚の相手が竜の姿のままなのですが  作者: 九葉(くずは)


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第1話 呪われた辺境伯の嫁募集

「呪われた辺境伯の嫁になれば衣食住保証する」——求人票の文面を三度見した。条件、良すぎないだろうか。


 雨に滲んだ紙を畳み直す。北方辺境伯ヴェルナー・ドラッヘンベルク。呪いにより竜の姿。解呪可能な聖女候補を花嫁として迎えたし——


 ……うん、まあ、解呪は無理なんだけど。


 私の名はリーシャ・ハイリゲ。つい二週間前まで神殿の聖女候補だった。「つい二週間前まで」というのがポイントで、今はただの無職である。


 街道沿いの宿場で見つけたこの求人票を握りしめて、ここまで馬車を三日。辿り着いた北方辺境伯邸は、雨の向こうにそびえる灰色の城だった。


 でかい。


(……前世の記憶にある動物園の正門を思い出す。入る時のわくわくする感じが、ちょっとだけ似ている)


 深呼吸をひとつ。重い門扉に手をかけた時、中から扉が開いた。


「——お待ちしておりました。奥様候補の方ですね」


 出迎えてくれたのは、品の良い中年の女性だった。侍女長のナタリーと名乗った彼女は、雨に濡れた私を見て一瞬だけ眉を動かし——すぐに微笑んだ。


「お荷物はそれだけですか」


「ええ、これだけです」


 小さな鞄がひとつ。それが私の全財産だった。


 ナタリーに案内されて石造りの廊下を歩く。壁の燭台は半分しか灯っていない。使用人の姿もまばらだ。広い屋敷なのに、人の気配が薄い。


「旦那様は書斎にいらっしゃいます。……少し、暗うございますが」


 ナタリーの声に、かすかな躊躇いがあった。


(ああ、これは「驚かないでくださいね」の前置きだ)


 わかっている。求人票には書いてあった。呪いで竜の姿、と。


 ——二週間前のことを、思い出す。


 神殿の白い回廊。午後の光が床に長い影を落とす中、筆頭聖女エルヴィラ・メレスが穏やかに微笑んでいた。


「リーシャ。あなたには解呪の適性がございません。これ以上神殿にお置きする理由がなくなりました。——残念ですが」


 五年。十五の歳に神殿に入り、修行して、疫病対策の記録をまとめて、治療の補助をして。五年間のすべてが、あの穏やかな声で終わった。


「……はい。五年間、お世話になりました」


 泣かなかった。悔しくなかったと言えば嘘になる。でも──体の奥で、何かがほどけた感覚があった。


(やっと自由だ)


 もう徹夜の修行も、上の顔色を窺う日々もない。解呪の適性がないのは事実だし、仕方がない。得意なことで食べていく方法を探そう。


 ——で、見つけたのがこの求人票だった。三度見はしたけれど。


* * *


 書斎の扉が、ぎい、と開く。


 暗い。


 蝋燭が二本だけ灯った部屋の中、最初に目に入ったのは金色だった。闇の中で爛々と光る、一対の瞳。


 それから——鱗。


 黒い鱗が、蝋燭の光を鈍く弾いている。天井に届きそうな巨体。折り畳まれた翼。太い尾が書斎の奥まで伸びて、本棚の脚に巻きついている。


 竜だ。


 本物の、竜。


「…………」


 息を、吸った。


(——大きい)


 鱗の色は深い黒。艶がある。光の加減で藍色にも見える。脱水の兆候はなさそうだ。鼻先の粘膜も乾いていない。体温は……触ってみないとわからないけれど、この部屋の温度がやけに高い。自分の体温で室温を上げている。代謝が活発な証拠。


(健康状態、悪くない。むしろ良い方だ)


 前世の私——動物園の飼育員だった頃の目が、勝手に起動していた。


 竜が、低い声を出した。


「……俺が辺境伯のヴェルナーだ」


 声は思ったより静かだった。重く、低く、書斎の壁に染み込むような声。


「呪いで竜の姿になった。お前が聖女候補か。——解呪してもらおう」


 金色の瞳が、まっすぐ私を見ている。


 ナタリーが背後で息を詰めたのがわかった。ここで悲鳴を上げるか、泣き出すか、逃げ出すか。たぶん、これまでの候補者はそうしてきたのだろう。


 でも。


「ヴェルナー様」


 私は一歩前に出た。


「鱗の色艶がいいですね。健康管理はどうされていますか?」


 沈黙。


 竜の金色の瞳が、わずかに見開かれた——ように見えた。竜の表情は読みにくい。でも、瞬きの間隔が変わった。驚いている。


「……何を言っている」


「失礼。申し遅れました。解呪は専門外です」


 もう一度、沈黙。今度はさっきより長い。ナタリーが背後で小さく息を呑んだ。


「——ですが、竜の体温管理と食事メニューなら組めます」


「………………」


 竜の尾が、本棚の脚から離れて、ゆっくりと床を叩いた。どん、と低い音が書斎に響く。


「……何者だ、お前は」


 怒っているのではない、と思った。声の温度が変わっていないから。困惑。たぶん、純粋な困惑だ。


「元聖女候補で、今は無職です。——あ、それと、少し変な夢を見る体質でして。大きな生き物の世話をする夢を、よく見るんです。おかげで、こういうことには慣れています」


 我ながら説明になっていない。でも嘘は言っていない。前世の記憶はいつも「夢」のような形で浮かんでくる。大型爬虫類の飼育記録。体温管理の手順。餌のカロリー計算。全部、夢の中で覚えた。


 ヴェルナー様は黙ったまま、しばらく私を見下ろしていた。


 それから——机の上の書類を、爪の先でこちらに押し出した。


 契約書だった。


 婚姻期間、解消条件、財産分与。目を通す。条項のひとつに手が止まった。


(——「婚姻期間中、伯爵夫人としての領地経営代行権を持つ」)


 代行権。つまり、私がこの領地の経営に関わる権限があるということだ。……なるほど。衣食住の保証だけじゃない。仕事がある。


 私は羽根ペンを手に取り、署名した。


 次はヴェルナー様の番だった。竜の巨大な爪が、机の上のペンに伸びる。——あの爪で、ペンを。


 見ていて、息を止めた。


 爪の先でペンを挟み、紙を破らないように、慎重に、慎重に、一画ずつ名前を書いていく。力を入れすぎないように。紙に触れる爪の角度を微調整しながら。


(——繊細な方だ)


 この巨体で、この爪で、こんなに丁寧に字を書く。不器用だけど、雑ではない。……十年間、こうやって一人で書類仕事をしてきたのだろうか。


 署名が終わった。ヴェルナー様の爪がペンから離れる。紙には一箇所も破れがなかった。


* * *


 東翼の部屋は、広かった。広すぎて、少し寂しいくらいに。


「何かございましたら、いつでもお呼びください」


 ナタリーが扉の前で一礼して去る。その背中に、言いそびれたことがある。——ありがとうございます、この部屋。すごく嬉しいです。


 ベッドに鞄を置いて、中身を出す。着替えが二組。洗面道具。それから——使い込んだ帳面がいくつか。神殿にいた頃に書いた記録類。疫病対策のために薬草の配合をまとめた冊子もある。私物だから、持ち出しても問題ない。もう神殿には関係のないものだ。


(……これが、私の五年間の全部)


 帳面を棚に並べて、空になった鞄を閉じた。


 窓の外は、まだ雨。灰色の空の下に、広大な領地が霞んで見える。


 ——明日から、竜の旦那様の生活環境を整える。体温管理と食事メニュー。鱗の状態も確認したい。それに、さっき契約書で見た領地の経営代行権。帳簿も見せてもらおう。


 鞄ひとつで来た場所が、明日から私の仕事場になる。


(久しぶりだ、この感じ)


 前世で飼育舎に初めて入った朝の——あの胸の奥がじんと温かくなる感覚。大きな生き物のそばで、自分にできることがある。それだけで、足元が少し安定する。


 ベッドの端に座って、ため息をひとつ。今度のため息は、悪くない種類のやつだった。


「——明日が、楽しみだ」


 雨音の中で、そう呟いた。

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