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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜だけの関係だった女社長が、“恋人です”と迎えにきた話

作者: 百合物理





side佐藤さとう みお






「ただの夜の相手——じゃなかったら、よかったのに」


 


また、今日も呼ばれてしまった。


 


柔らかいカーペットに沈むヒールの音が、社長室のドアの前で止まる。

静かに、けれど確実に閉まったドアの向こうは、残業のざわめきも、冷たいコピー機の音も届かない、密やかな別世界だった。


 


詩音さんは、いつも通りのスーツ姿でソファに腰掛けていた。

グレーの細身のパンツスーツ。上質な生地が長い脚に沿って流れ、淡く光を反射している。

長く艶やかな黒髪が肩に沿ってなめらかに流れ、揺れるたびにほのかな香水の匂いが空気を撫でた。

肌は透けるように白く、整った顔立ちに微かな翳を落とす長い睫毛。唇は紅を引かずとも自然に華やかで——


その姿は、ただ「美しい」だけでは足りなかった。

清冽で、近寄りがたくて、それでもずっと見ていたくなる——そんな引力を持っていた。


 


何度も見慣れているはずなのに、私は緊張を隠せないまま立ち尽くしてしまう。


 


「……こっちに来て」


 


低く、けれど柔らかな声だった。

拒む理由は、なかった。


 


上着の前を掴まれたとき、私はもう何も言わなかった。


 


淡い香水と、爪先にかかる体温。

抱かれることには慣れているつもりだった。

——少なくとも、彼女に抱かれることには。


 


けれど、あの夜のことを“抱かれる”と言っていいのか、私はいまだに迷っている。

あれは恋ではない。けれど、情事と呼ぶにはあまりに優しすぎた。


 


仮眠室のシーツの上。

肌と肌が触れ合い、彼女の指がゆっくりと私の髪を撫でて、何度も名を呼ばれた。

「佐藤」と——仕事上の呼び名で。


 


暗がりの中、間接照明がシーツにやわらかい影を落としていた。

私の髪に触れながら、詩音さんは何度も名前を呼んだ。

その声はまるで祈るように静かで、どこか寂しげだった。


 


指先が腰を撫で、太腿をすくい、唇が鎖骨をなぞるたび、私は何度も達してしまった。

熱に浮かされた頭で、それでも私はどこか醒めていて——


 


体を拭いて、制服に着替え、髪を整えて社長室を出るときには、もう夜の十時を過ぎていた。

廊下の照明は消えかけていて、非常灯が青白く床を照らしている。

オフィスビルの最上階。

窓の外には東京の街が、無数のネオンで飾られたように光っていた。


 


心臓の鼓動は、いつもより速い。けれど、私は何事もなかった顔でノブに手をかける。


 


——そう、“何事もなかった”ことにしてしまうのが、わたしの仕事だ。


 


「車、出しておくから。寒いでしょ?」


 


ドアの向こうから、ふわりとした声。

体温よりも、その声音のほうがなぜか心に触れる気がして、私はうまく返事ができなかった。


 


うなずくだけで、社長室をあとにする。


 


通用口に回ると、案の定、黒塗りの車が待っていた。

運転手は見慣れた顔だったが、私の顔を見て何も言わないのが、かえって気まずい。


 


あの人がこうして車を手配してくれるのは、いつも決まって“関係を持った夜”だ。

まるで、ホテル代わりに使われた誰かに、せめてもの帰路を与えるかのように。


 


けれど——本当にそうだろうか?


送迎、映画、レストラン、休日の買い物。

普通なら恋人のような振る舞いを、彼女は自然にこなす。

私の指に触れるとき、まるで宝石を扱うような手つきで、優しく撫でてくる。


 


鏡に映る自分は、どこにでもいるような平凡な女だった。

黒髪はまとめて結んでいるだけで、メイクも控えめ。

秘書として、社長に見劣りしないように整えてはいるけれど——


それでも、彼女の隣に並ぶたび、私は自分が霞んでしまいそうで怖くなる。


 


でも——


「佐藤」


 


そう呼ばれるだけで、私はすべての期待を壊す。


 


綾小路詩音あやのこうじ しおん

名門・綾小路家の令嬢。若くしてこの企業グループの頂点に立つ、完璧な女性。

何もかもが上流で、遠くて、わたしのような“どこにでもいる庶民”とは住む世界が違う。


 


だからこそ。

あの人が、わたしを“恋人”だなんて呼ぶことはない。


 


わかってる。

……ちゃんと、わかってる。


 


わたしは、そういう相手。

気まぐれに戯れる女遊びの延長線。

東京では、こういう関係も「普通」なんでしょう?


 


“愛”なんて単語を、安く使うほうが恥ずかしい。


 


でも、それなら——

どうして、あの人の目は、あんなにも優しかったんだろう。


 


* * *


 


「ねえねえ、また綾小路社長、佐藤さんにだけ紅茶買ってきてましたよね」


 


翌朝、社内の給湯室で、後輩の広報女子が声をひそめながらもニヤついた顔で話しかけてきた。


 


「え? ああ……あれは余ったからよ。たぶん」


 


「へえ〜、へえ〜〜〜〜」


 


その“へえ”の間延びが妙に癇に障ったけれど、私は無表情を崩さないように湯呑みにお湯を注ぐ。

紅茶の香りが立ちのぼり、昨日の夜を思い出して、少しだけ吐き気がした。


 


何でもないフリが、うまくできなくなってきているのかもしれない。


 


社長が私にだけ差し入れをするのは、一度や二度ではない。

だが、それは“関係があるから”とも、“恋人だから”とも違う。

優しさの延長線。あるいは、上司としての気まぐれ。

そう考えるのが、一番傷つかない。


 


でも、心のどこかでずっと思っている。


 


——他の誰かにも、あの人は同じようにしているのだろうか。


 


* * *


 


午後、机の引き出しにしまっていた社内報を整理していると、ふと一枚のスナップが目に留まった。


 


東京駅前。

春。

雨。


 


駅を背にしたその景色が、私の脳裏に焼き付いている——あの日を呼び起こした。


 


あのとき私は、東京に出てきたばかりで、スーツケースを引いて寮の場所がわからず、雨の中で立ち尽くしていた。


 


そんな私に、ひとつの傘が差し出された。

端正な顔立ちの女性。

静かな声で、道を教えてくれた。

最後に微笑んで、「気をつけてね」と言った。


 


私はずっと、その笑顔を覚えていた。


 


——まさか、その人が社長だとは思っていなかった。


気づいたのは、数ヶ月前のこと。

社長の横顔に、ふとあの日の面影が重なって、体が勝手に震えた。


 


でも、社長は私のことなんて覚えていなかった。

あのときの記憶も、私が一方的に特別にしていただけ。


 


——そう、思っている。


 


「どうせ、あの人は何も覚えていない」


 


わたしには、そう言い聞かせるしかない。


 


でも、もし。


ほんの少しでも。

ほんの一瞬でも。


——わたしが、“ただの夜の相手”じゃなかったら、どんなによかっただろう。


 


* * *




カレンダーに赤いマークをつけながら、私はペンを止めた。


オフィスの窓の向こうでは、ビルの合間を渡る風が、夕陽を鈍く濁らせていた。

カーテン越しに差し込む光は金色というより、どこか色褪せた銅のよう。

それが、今の私たちの関係みたいで、少しだけ胸が詰まった。


 


社長室の真ん中、無機質なガラスのテーブル越しに綾小路社長が座っている。


いつもならスケジュールの確認に細かく口を挟むのに、今日はずっと視線を窓の外に向けたままだった。


背筋を伸ばし、微動だにしない姿は凛としていて美しかった。

けれど、その輪郭が、いつもより少しだけ曇って見えた。


 


「……社長、次の会議、少し時間が押しそうです」


そう声をかけると、ふと彼女がこちらを振り返った。


「ああ、ごめんなさい。ありがとう、佐藤」


いつも通りの柔らかい声だった。

だけど、どこか遠く感じた。


——午前の役員会で、何かあったのだろうか?


けれど、私はそれを訊ねることができなかった。


だって私は、ただの秘書で。

それ以上でも、それ以下でもない。

……たとえ、夜だけは、彼女に抱きしめられるとしても。


 


* * *


 


午後、給湯室。

湯気の向こうで、誰かの声がささやく。


「綾小路家と三浦家の話、本格的に進んでるらしいよ」


「三浦って、あの成金の娘? 外資と組んでるとこでしょ?」


「うん。昔から仲良かったんだって。社長と娘さんも、“昔は”かなり親しかったとか」


紅茶の香りと一緒に、その言葉が心に染み込んでいった。

紙コップを持つ手に、少しだけ力が入る。


三浦——

あの人の、元恋人。


そして、今。

その人との“縁談”が浮上している。


 


その日の夜。

社長室の扉を開けたとき、私はすでに心の中で距離を取っていた。


彼女がどんな顔をしていても、もう関係ない。

彼女がどんな言葉をかけてきても、もう揺れない。


そう、決めていた。


 


でも——


身体は、覚えていた。


 


* * *


 


春の終わり。

社内が大規模プロジェクトに追われていた時期だった。

取引先との交渉、提携先のプレゼン、IR資料、そして広報戦略。

すべてが並列で動き、誰もが限界を超えて働いていた。


私たち秘書課も例外ではなかった。

とくに社長付きの秘書は、交代制をとるはずだったが、すでにふたりがダウン。

一人は過労で倒れ、もう一人はストレスで辞表を置いていった。


気づけば、私だけが残っていた。


でも、私が倒れなかったのは、意地だった。

何より、社長——綾小路詩音が、それ以上に働いていたから。


連日、早朝出社。

会議が終わっても書類に目を通し、仮眠室には入らず、ソファで夜を明かすこともあった。


それでも、誰に対しても態度は一貫して丁寧で、優しくて、決して苛立ちをぶつけることはなかった。


——わたし、この人のそばにいたい。


自然と、そう思っていた。


 


あの夜も、深夜に資料を届けに社長室をノックした。


「どうぞ」


扉を開けると、詩音は窓際に立ち、外の夜景を見ていた。


東京の街が、光の海のように広がっていた。

なのに、彼女の横顔はどこか寂しげだった。


「IR資料、まとめ終わりました。決裁を——」


言いかけて、私は彼女の顔をまっすぐに見た。


「……社長、今日は少し休まれてください。せめて、仮眠だけでも」


詩音が小さく笑った。

それは、疲れていても優しさを失わない人の微笑だった。


「ありがとう、佐藤。でも、ようやくひと段落ついたのよ」


「それでも……お身体がもちません」


私は言葉を選んでいた。

ただの秘書として、プロとして、そう伝えたつもりだった。


でも——


そのとき、詩音は静かにこちらに歩み寄ってきた。

ゆっくりと、まるで夢のなかのような足取りで。


私たちは、なぜか互いに何も言えなくなって。

ただ、距離が近づいて——


そして、触れられた。


スーツの袖越しに感じた体温に、全身がぎくりと震えた。


「……佐藤」


囁くように名前を呼ばれた。


それだけで、体が勝手に熱を持った。


 


仮眠室に移動する間、言葉はひとつも交わさなかった。

詩音の指先が、私の手を引いていた。


淡い間接照明が、やわらかく室内を照らしていた。

窓のないその部屋は、静かで、隔離された別世界のようだった。


スーツのボタンが一つ外されるたびに、肌が空気に触れた。


優しく触れられ、唇が耳の後ろを撫で、

詩音の長い髪が首筋にふれたとき、息が止まった。


「……もっと、触れてもいい?」


問いかけはあった。

でも私は、もううなずくことしかできなかった。


柔らかな布団の上、私の脚の間に指が差し入れられる。

触れるたび、奥が熱くなり、声が漏れるのを必死に押さえた。


けれど詩音は、そんな私の頬をやさしく撫でながら囁いた。


「我慢しないで。ちゃんと……気持ちよくなって」


その声だけで、体の奥がきゅうと締まる。


最初のひとつめの波に飲まれたとき、私の脚が震えた。

けれど、それで終わりではなかった。

指先と唇と囁きが重なり、私はその夜——


何度も、何度も、同じ絶頂を繰り返した。


 


抱きしめられたまま、髪を梳かれながら、詩音が静かに言った。


「……佐藤、かわいい。……ほんと、恋人みたい」


一瞬だけ、心臓が止まった気がした。


“恋人”——


でも、“みたい”だった。


わたしは、きっと、あの瞬間、都合よく誤解した。

その優しさも、その温度も、ぜんぶ本物に思えてしまった。


だけど私は、“佐藤”であって、“恋人”ではなかった。


あの人がどんなつもりでそう言ったのか、

今の私には、もう、聞く勇気もなかった。


 


——それが、わたしと社長の最初の夜だった。





* * *

 


 


「佐藤、少し……」


社長の言葉を遮って、私はただ一言だけ告げた。


「失礼します」


ドアを閉めた。

視線を合わせたら、壊れてしまいそうだったから。


 


* * *


 


翌朝。

社長は、ほんのわずかに寂しそうな顔をしていた。

けれど、それを表に出すことはなく、いつも通りに業務をこなしていた。


夕方、資料を提出しに行ったときだった。

彼女が、デスクに目を落としたまま、ぽつりと呟いた。


「今週末……うちに来ない?」


その言葉が、甘やかなものに聞こえてしまった自分を恨んだ。

声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


……でも、私は勘違いしてしまった。


これが最後なんだと。

“最後の夜”を、きれいに終わらせたいだけなんだと。


「申し訳ありません。その日は予定があって……」


たどたどしい声だった。

社長の顔が、ほんの一瞬だけ曇った。

けれどすぐに、元の無表情に戻って。


「……そう。わかったわ」


それだけを言って、また静かに視線を落とした。


——何も言わないほうが、ずっと残酷だ。


 


* * *


 


月曜。

社長との距離を、私は仕事のやりとりという名目で埋めないようにしていた。


報告も、相談も、すべてメールで済ませた。

廊下ですれ違っても、目を合わせなかった。

……合わせることができなかった。


周囲の空気が少しずつ、ぴりついているのを感じた。


広報の若手女子が、そんな気配を察したように軽口を叩いてきた。


「佐藤さん、最近なんか冷たくないですか? 社長に何かありました?(笑)」


私が黙っていると、彼女は続ける。


「飲み会どうですか? 久しぶりにぱーっといきましょうよ!」


「……今日はちょっと」


「あらら〜。じゃあ、街コンでも行ってきます?」


スマホの画面をこちらに見せながら、にやっと笑う。

彼女の無邪気さが、時に刃になる。


画面には、“社会人限定・恋活街コン”と銘打たれたサイト。

無数のプロフィール、年収、趣味、写真つき。

冷たく整った“条件”が、笑顔とともに並んでいた。


——恋人になれないなら、

いっそ、誰かに好かれる方がマシかもしれない。


ほんとうは。

誰にも、触れられたくなんてなかったのに。


私は、スマートフォンを手に取った。

息を止めて、ゆっくりと、“参加する”のボタンに指を伸ばす。


東京の恋は、始まるのも、終わるのも、勝手すぎる——


私は、自分の指で、静かに“参加する”を押した。


 


* * *


 


まるで、自分だけ場違いな場所に放り込まれたみたいだった。

丸テーブルに白いクロスがかかり、手元には淡いピンクの名札。

「佐藤 さとう・みお」という文字だけが、今の私の存在を無理やりに肯定していた。


 


笑い声。グラスがぶつかる音。テーブルの下から聞こえるヒールのすれる音。

隣の男女はすでに連絡先を交換していて、軽く笑いながら「じゃあ、あとでLINEするね」なんて言っている。

——東京の人たちって、こうして出会って、こうやって始まっていくんだろうか。


 


「こういう場って、意外と盛り上がるもんなんですね」

「ご職業、秘書ってことは……お綺麗な社長さんと、日々お仕事って感じですか?」


 


目の前の男性が、にこやかに話しかけてくる。

背広の着こなしも悪くないし、声も低くてよく通る。

たぶん、世間的には“当たり”に分類される人なのだと思う。


 


でも——違う。


声が違う。

目が違う。

熱の質が、違う。


 


頭の中に、浮かんでしまう。

あの人の姿が。


綾小路詩音。私の上司で、社長で、そして——……


 


いや、もう違う。

あの人には、縁談がある。

彼女にとって、私はただの夜の相手だった。

きっとそうだ。だからこうして、新しい出会いを求めて来た。……はずだった。


 


「佐藤さん、趣味は——」


「あ、ごめんなさい、ちょっと、お手洗いに行ってきます」


 


私は立ち上がって、そっと会場の隅へと身を引いた。

名札のピンが、胸元の布を少しだけ引っ張っていた。


 


——どうして、こんなに苦しいの?


本気になったら、捨てられるのが怖かった。

だからずっと、恋人じゃないふりをしてきた。


でも今はもう、

本気にならなかったことを、後悔している。


 


 


フリータイム。

それは「自由に動ける時間」と言いながら、実際には“勝負の時間”だ。


 


男女が一斉に立ち上がり、飲み物片手に相手を探し始める。

気づけば、私の周囲には三人の男性が立っていた。


「さっき、話足りなかったんで、また来ちゃいました」

「これも運命だと思いません?」


取り囲まれるような感覚に、思わずこめかみを押さえる。

笑顔を返すのも、もうつらくなってきていた。


 


そんなとき——


 


——音が変わった。


 


ヒールの音。それも、ゆっくりと確実に床を打つリズム。

香水ではないのに、空気が切り替わるような気配。

場にいた誰もが、自然とそちらへ振り向き、目を見開いた。


 


スーツ姿の女性。

黒髪を低くまとめ、白シャツに紺のジャケット。背筋はまっすぐで、瞳には鋭くも温かな光を宿している。

そして、私の知っている中で、最も美しく、最も強い人。


 


綾小路詩音——社長だった。


 


「……え?」


まさか。何かの幻覚かと思った。

けれど彼女は、迷いなくこちらに歩いてくる。確実に、まっすぐに。


 


ざわつき始める場内。

空気がさっと張りつめ、まるで舞台のセンターが一瞬で塗り替えられたようだった。

全員の視線が、彼女に向かって集中する。


 


そして、彼女は私の目の前で立ち止まり、

凛とした声で言い放った。


 


「佐藤 澪さん。あなたの“恋人”なんですけど、わたし」


 


──しん。


空気が一瞬で凍りついた。


 


私も、他の参加者も、主催者さえも何も言えなかった。

ただ、詩音の声だけが場を静かに支配していた。


 


「え、恋人?」「マジ?」「……ドラマ?」

小声が、背後からざわざわと漏れ聞こえる。


私は動けずに固まっていた。

詩音は何も言わず、私の手首を取り、ぐっと引いた。


 


「失礼します。これは連れて帰りますので」


 


私は何も言えないまま、詩音に連れられて、街コンの会場を後にした。


彼女の手が、信じられないほど熱かった。




* * *




無言だった。


 


街コン会場を後にしてすぐ、目の前に停められていた黒のセダンのドアが静かに開いた。

運転手の姿はなく、詩音自身が運転席へと乗り込み、私に助手席を指し示す。


それだけで、もう十分に異様だった。


 


エンジン音が響き、車は都心の夜を滑るように走り出す。

窓の外には、ビルの灯りとネオンが揺れ、反射した光が私の手の甲を青や白に染めていた。


 


詩音は、一言も発しなかった。

そのかわり、アクセルの踏み込みだけが、普段より少し荒くなっていた。


あの強引な登場が嘘のように、車内は静まり返っている。

けれど、その背中からは怒りがじわじわと伝わってくる。


 


でも、不思議だった。


私の中に湧いてくるこの恐怖は、彼女の怒りそのものじゃない。

その奥にある、もっと深い、別の感情が怖かった。


 


——彼女は、どうしてこんなにも怒っているんだろう。


私はただの一時の相手だったはずなのに。

彼女の人生にとって、大した意味もない存在だったはずなのに。


 


……でも、もし。

ほんの少しでも、わたしに特別な気持ちがあったとしたら。


 


その思考が、胸の奥でじわじわと膨らんでいく。

まるで長い間、心の底に沈んでいた炭に、突然火が灯ったような感覚だった。


でも、それでも……まだ怖かった。


 


「……」


私はただ、黙って窓の外を見つめていた。

見慣れたはずの街並みが、まったく違うものに見えた。


 


エレベーターに乗るときも、詩音は沈黙を崩さなかった。

階数ボタンを押す彼女の指が、ほんのわずかに震えていた気がしたけれど、それが気のせいかどうかは分からなかった。


 


そして、私邸の扉が閉まる。


重厚なその扉が静かに閉まった瞬間、空気が一変した。

ピンと張り詰めた緊張が、部屋全体に満ちる。


 


「……中へ入って」


その声は、怒っているというよりも、どこか沈んでいた。


むしろその静けさのほうが、怖かった。


 


無言のまま、寝室まで案内される。

詩音は何も言わず、私をベッドに押し倒した。


けれどそこには、いつもの艶やかな甘さはなかった。

代わりに、張りつめた空気があった。触れれば切れそうなほどに、ひりついていた。


 


「……どうして、街コンに参加したの?」


低く、静かに投げられたその言葉。

それは問いというより、感情を抑え込んだ訴えのように聞こえた。


 


その瞬間、私はようやく目の前の彼女が

“社長”ではなく、“綾小路詩音”という、一人の女性に戻っていることをはっきりと感じた。


 


「……だって……社長が、結婚するって噂を聞いて……。

 三浦さんっていう、昔のご友人と、お家同士の縁談があるって……」


 


自分の声が、思った以上にかすれていて驚いた。


「……それを聞いたとき、思ったんです。

 やっぱり私は、社長の人生の“外側の人間”なんだって」


 


詩音は何も返さない。


だから私は、続けるしかなかった。


 


「最初の夜……仮眠室で抱かれたとき、わたし、本当に、幸せだったんです。

 髪を撫でてくれて、“恋人みたい”って、言ってくれたのに」


「でも……“みたい”だったんです。恋人“じゃない”ってことだって、思ってしまった。

 “佐藤”としか呼ばれなくて、休日に誘われることもなくて……

 会社の仮眠室で、ひそかに身体を重ねるだけで……」


 


言葉にすればするほど、浅ましくて、陳腐で、みじめに聞こえる。


けれど、それが今の私の、精一杯だった。


 


「だから、自分に言い聞かせてたんです。

 これはただの関係。期待しちゃダメだって。

 ずっと、ずっと……そう思い込もうとしてたんです」


 


沈黙。


その沈黙の中で、詩音がふいに小さく息を呑んだ。


 


彼女はゆっくりと立ち上がると、ベッドの足元に膝をつき、

そのまま床に座るようにして、私を見上げた。


 


そして、ぽつりと。


 


「……そう思わせてしまったんだ、私が……?」


 


その声は、信じられないくらい弱くて。

あの綾小路詩音が、こんな声を出すなんて——そう思ってしまうほどだった。


 


背筋を伸ばし、誰よりも毅然としていた彼女が、

今は肩を落とし、両手を膝の上で強く握りしめている。


伏せられた瞳のまつげが震えていて、

整えられた髪も少し乱れていたのに、

それでも、息をのむほど美しかった。


 


「そんな……ほんとうに、そんなふうに思ってたの……?」


 


詩音の視線が、私に向けられた。

その目には、涙が浮かんでいた。


 


綾小路詩音が、泣いている——


それは、私の中でずっと築かれていた神話が、静かに崩れていく音だった。


 


「……私、あなたがあまりにも冷静だから……

 恋人として接されることを望んでいないのかと、ずっと……思ってて」


「だから、距離を取ってたの。下の名前も呼ばなかったし……

 プライベートと仕事を混ぜたくないって、そういう人だって思ってたのに……」


「……わたし、馬鹿みたい……。ずっと、恋人のつもりだったのに……」


 


言葉は乱れていたけど、すべてが真っ直ぐで。

ひとつひとつが、胸の奥に刺さった。


 


「……私のこと、好きだったんですか?」


自然と、その問いが口をついて出た。


 


詩音は、涙を湛えたまま、まっすぐ頷いた。


 


「……好き。

 佐藤が、他の誰より好き。……ずっと、好きだったの」


 


その瞬間、心の奥に貼りついていた重たい蓋が、

音を立てて剥がれ落ちた。


 


ずっと胸にあった、ひび割れた硝子のような想いが、

詩音の涙でようやく溶けていくのを感じた。


 


私は、彼女の目をまっすぐに見返した。

涙で霞んでいたけれど、それでも目を逸らさなかった。


 


「……詩音さん」


 


いつもは“社長”と呼んでいた。

“綾小路さん”とすら、呼べなかった。

でも今は、名前で呼びたかった。


 


「わたしも、あなたのことが好きです」


 


声は震えていて、耳まで熱くなっていたけれど、

ようやく言えた。

ずっと伝えたかった、たった一言。


 


「……初めて仮眠室で抱かれた夜、

 本当は、心の中で恋人になったつもりだったんです」


「でも、自分で勝手に諦めて、距離を置いて、街コンなんて行って……ごめんなさい」


 


詩音は黙ったまま、潤んだ瞳で私を見つめていた。

その顔は、泣きながら笑っていて、たまらなく愛しかった。


 


「澪……」


彼女の声が震える。


 


「……そんなふうに、ずっと想ってくれてたの……? ずっと……?」


 


「はい。ずっと」


 


私はそっと、彼女の手に触れた。

詩音の手は温かくて、でもほんの少しだけ震えていた。


 


彼女は、ふっと息を吐いて微笑んだ。

でもその瞳の奥には、火のような感情が宿っていた。


 


「じゃあ……やり直しましょう」

「あの夜じゃなくて、“恋人”としての、初めての夜を」


 


その言葉に、私は胸がいっぱいになった。


今夜、ようやく、ちゃんと始まったのだ。

わたしたちの“関係”が—— 


彼女の手が、私の頬にそっと触れた。

親指で涙の跡を優しくなぞりながら、まっすぐに目を見て、囁く。


 


「澪……キス、していい?」


 


その声は熱を孕んでいて、けれどどこか頼りなく震えていた。


私は、静かに頷く。


「……してください。詩音さん」


 


唇が触れた瞬間、背中がびくんと跳ねる。

身体が反射的に応える。——こんなキス、知らない。


唇を開かれ、舌が深く絡んでくるたび、頭の芯が痺れる。

呼吸を合わせるどころか、むしろ奪い合うような——そんな激しさだった。


 


「……可愛い、澪。こんな顔……してたんだ」


くちびるが離れると同時に、耳元に落ちる吐息。

ふっとかかるその熱に、ぞくりと震える。


 


彼女の手が、ゆっくりと背中に回る。

服をするりと脱がされ、肌に冷たい空気が触れる。


恥ずかしいのに、逃げられなかった。


 


「ずっと……こうしたかった。

 いや、あの時からずっと……我慢できなかった」


 


シャツのボタンを外され、胸元に口づけが落ちる。

柔らかく吸われた場所が、じんわりと熱を帯びていく。


「ふ、ぁっ……や、やだ……」


「“やだ”って言うのに、どうしてそんなに震えてるの」


 


詩音の声は、いつものように丁寧で穏やかなのに、

触れる手つきはあまりにも強引で、容赦がなかった。


 


——ああ、やっぱり、今夜の彼女は違う。


いつものやさしさだけじゃない。

指先が、欲望のままに私をなぞっていく。

なのに、怖くなかった。不思議なほどに。


むしろ、全部を奪ってほしいと、そう願ってしまう。


 


「詩音さん、も、もうダメ、もう……無理……!」


「まだ足りないよ。……ねえ、もっと。

 今夜だけじゃ足りないくらい、ずっとあなたが欲しかったんだよ」


 


言葉の合間に、指が私の中に差し込まれる。

腰が跳ねて、口から甘い悲鳴がこぼれる。


 


息を整える暇もない。

押し込まれる、撫でられる、すべてが巧みで、容赦がない。


 


「詩音さんっ……もう……ほんとに……やだぁ……!」


「ダメ。泣いても止めない。今日だけは——あなたが我慢してきた全部を、わたしの愛で埋めさせて。

 あなたを、わたしのものにさせて……澪」

 


その瞬間、名前を呼ばれただけで、全身が跳ねた。

名前を呼ばれるたび、身体が甘く、痺れていく。


 


その夜、私は何度も絶頂に達した。

涙を流しながら、何度も許しを乞うた。

けれど詩音は、一度も私を離してくれなかった。


 


愛された。

激しく、繰り返し、深く。

それは執着にも似た熱で、私を包み込んでいた。


 


朝日が差し込む頃、私はようやく詩音の胸に抱かれたまま、意識を手放した。


身体は、熱に焼かれてぐったりと沈んでいたけれど、

心は、奇跡のように軽かった。


 


今夜、ようやく、ちゃんと始まったのだ。

わたしたちの“関係”が——

 



* * *


 



side綾小路あやのこうじ 詩音しおん






───






 朝日が、カーテン越しにやさしく差し込んでくる。

 淡い橙色がレースを透けて、ベッドの白いシーツにじんわりと滲んでいた。


 寝室の空気はまだ静まり返っていて、暖房の低い稼働音と、時折カーテンが揺れるかすかな衣擦れだけが耳に届く。


 隣には、澪が眠っていた。

 長い睫毛を伏せ、頬にかかる髪が汗でしっとりと額に貼りついている。

 その寝息は穏やかで、枕元に置かれたコップの水面すら揺らさないほど静かだった。


 ほんの少し乱れた髪。かすかに赤みを残す唇。薄く色づいた首筋。


 ほんの数時間前まで、彼女は泣きながら、わたしの名前を何度も呼んでいた。

 いや、“詩音さん”と。——ようやく、初めて名を呼んでくれた。


 あの声の震えも、熱も、まだ肌に、心に、残っている。


 その声が、耳の奥にやさしくこびりついて、今も離れない。


 ——ようやく、ここまで来られた。


 ゆっくりと身体を傾け、彼女の額にそっと唇を落とす。

 そのわずかな接触に、昨夜のすべてが滲み出してくる気がして、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 窓の外では、遠くから鳥の声。どこかの家の食器が重なるような音。

 いつもと変わらぬ朝の気配。けれど今日の空気は、どこか違って感じた。





───





 出会いは、偶然だった。


 わたしがまだ、“綾小路”の名を伏せて、グループ会社で末席として働いていた頃。

 親の七光りだと言われないよう、名刺に載せる部署すら自分で選んで、必死で働いていた。

 スーツの袖を汗で濡らしながら、真冬の会議室で資料を配り、何十枚もホチキスで綴じていたあの頃。


 冬の終わり、しとしとと冷たい雨が降っていた東京駅の地下通路。

 退社の足取りは重く、コートの裾は濡れ、肩もひどく冷えていた。


 そんなとき、小柄な学生に呼び止められた。


「すみません、○○線って、どっちですか……?」


 声はかすかに震えていて、不安と疲れが混ざっていた。

 濡れた髪を頬に張りつかせたまま、彼女は駅の表示を見上げていた。


 わたしは咄嗟に、自分の折りたたみ傘を差し出した。


 濡れた肩。真っ直ぐな瞳。

 そして、別れ際にかけられた一言。


「ありがとうございます……! あの、すごく疲れてそうでしたけど、大丈夫ですか……?」


 それだけだった。

 けれど、その一言が、胸に染みた。


 周囲からの期待、背負うものの重さ、誰にも見せられない本音。

 誰一人、そんなわたしの“疲れ”を言葉にしてくれる人はいなかった。


 だからこそ、その言葉は、忘れられなかった。


 それからも仕事を終えた夜、ふとした瞬間に彼女の声を思い出すたび、心がほんの少し軽くなった。





───





 数年後。

 自分の会社を立ち上げ、社長となり、スーツの重みも名刺の重みも、当然のように受け入れるようになった。


 だが——恋愛は遠ざかっていた。


 学生時代に付き合っていた三浦。

 同じ名家同士の“気楽な関係”だったけれど、それはただの共存に過ぎなかった。


 彼女が言った。


「でもさ、あんたって、“綾小路家”だから好きになったんだよ?」


 正直な言葉だった。

 そして、あまりにも残酷だった。


 名前でも、地位でもない。

 わたしという“人間”を見てほしいと、ずっと願っていた。


 そんなとき、採用面接に現れた彼女を見た。


 ——佐藤澪。


 あの日、駅で傘を差し出したあの学生だった。


 彼女はわたしに気づかなかった。けれど、それでよかった。

 わたしの肩書きに怯えず、媚びもせず。

 ただ“社長”として、真っすぐに向き合ってくれた。


 けれどその眼差しの奥に、いつも澄んだ湖面のような揺れがあった。

 まるで、あのときの雨の日に差し出した傘の記憶だけが、どこかで響いているような。







 春の終わり。朝から曇天が空を覆い、ビルのガラス窓はどこか鈍く霞んでいた。風が冷たく、雨の匂いを孕んだ空気が街を包む。


 社内は修羅場だった。


 新規プロジェクトの最終フェーズ。数億の予算、複数の部署を巻き込む大仕事。

 誰もが神経をすり減らし、フロアの空気は張り詰めていた。


 天井の蛍光灯が夜まで消えることなく照らし続けるオフィス。書類の束が机を覆い、備品棚にはコーヒー缶とエナジードリンクの空き容器が積み重なっていた。


 電話のベルが鳴り続け、タイピング音がリズムを刻み、応接室では交渉中の声が漏れていた。コピー機の熱とインクのにおいが、日常の喧騒に混じって漂う。


 秘書課のメンバーは皆疲弊し、交代で休憩を取らされていたが——澪だけは違った。


 夜の23時。すでに日付は変わりかけていた。

 澪は両腕に書類を抱えながら、ひたむきにコピー機の前に立ち、黙々と紙を整えていた。


 時折うつむき、揺れる前髪の奥で、目だけは強い意志を宿していた。

 疲労の色が隠せない顔。それでも、私が近くを通ると、彼女はふっと小さく笑った。

 それは、慰めでも同情でもない。まっすぐに、対等に向けられる視線だった。


 ——あの人は、折れない。

 そう思った。


 そして、すべてが終わった夜。


 3時をまわった仮眠室。まだ完全には整理しきれない資料に目を通していると、ドアがそっと開いた。

 澪だった。


 彼女は、乱れたスーツのまま一束の書類を胸に抱え、私の前に立った。

 淡い照明のもとで、額にかかる髪がうっすらと湿っていた。


「社長、少しは、休んでください」


 その声が、あまりにもやさしかった。


 思わず見つめ合い、何も言えなくて——

 私は無言で、彼女の手に触れた。


 ——あの夜が、すべてのはじまりだった。








 澪は、多くを語らない人だった。

 けれど、体を重ねるたびに伝わってくる感情があった。


 寝息の温かさ、髪に指を通したときの震え、肌に落としたキスに応えるような、無言のやさしさ。


 誕生日には、小さな箱にネックレスを忍ばせて贈った。

 好きだと言っていた映画のチケットをこっそり取った。

 彼女のためにコーヒーの濃さを変えた朝もあった。


 それでも、彼女の反応はどこか淡々としていて、私は“きっと照れ屋なんだ”と、都合のいい解釈で自分を納得させていた。


 でも、ふとした瞬間に——

 彼女の視線が遠くを向いていることに、胸がざわつくのを感じていた。







 そして、あの話が来た。


 三浦家。かつて名ばかりの関係であった相手。旧交を温めるという名目で、親たちが決めた縁談。


 まったく、関心はなかった。


 今さら過去には戻れないし、戻りたくもなかった。

 私には、澪がいたから。


 けれど、その関係にはまだ“名前”がなかった。

 それが、ふたりの関係を曖昧にしていたことも、どこかで理解していた。


 プロポーズは、まだ早いか?

 同棲は? どんな部屋がいい? 澪の生活リズムは? ご両親にはどう挨拶を?

 そんな未来を考える日が増えていた。


 ——それなのに、澪が、私の家への誘いを断った。


「すみません、その日は予定があって……」


 その一言で、全身から血の気が引いた。


 表情には出さなかったつもりだった。

 でも、心は確実に、ざくりと裂かれていた。


 その数時間後——


 エレベーターで乗り合わせた広告部の子が、友人に向かってこう言ったのが耳に入った。


「佐藤さん、今度の週末、街コン行くんですって〜。びっくりじゃない?」


 景色が、色を失ったように見えた。


 何がどうして、どこで間違ったのか。

 怒りなのか、悲しみなのか、それすらわからない。


 ただ、気づけば。


 人脈を総動員して、澪が参加するイベントを突き止めていた。

 関係各所に手を回し、主催企業の名を当たり、会場リストに名前を見つけたとき——


 ようやく、心臓がまた動き始めた気がした。


 呆れるほど、必死だった。


 でも、そのときの私は——本気で、誰にも澪を渡したくなかった。







 会場のドアが静かに開いた瞬間、内側のざわめきが、一拍遅れて凍りついた。


 低く流れるBGM。ワイングラスの繊細な音。華やかな笑い声。そのどれもが、ひとりの来訪者の気配に押し流されたようだった。


 照明は抑えられ、テーブルには春らしいピンクのクロスがかけられている。丸テーブルの上にはカナッペと白ワイン、隣席の男女は親しげに笑い合い、目の前のスマートフォンに連絡先を入力している。


 その風景の中に、彼女がいた。


 パステルカラーのワンピースを纏い、背筋を伸ばして椅子に腰かける佐藤澪。控えめなピアスが揺れ、よく通る声にうなずきながら、それでもどこか表情がぎこちなかった。


 わたしの胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 黒のスーツが、場の空気を切り裂くように映える。ヒールの音を確かめながら、わたしは一歩ずつ、彼女へ向かって歩いた。


 視線に気づいた澪が、こちらを見た。


 その瞬間、彼女の表情が驚きと戸惑いに染まる。手にしていたグラスがかすかに揺れ、中の液体が光を受けてきらりと震えた。


 わたしはそのまま、彼女の前に立った。


 頬が熱を持ち、胸の奥が高鳴っているのを必死に抑えて、唇を開く。


 


「佐藤澪さん。あなたの……“恋人”なんですけど、わたし」


 


 ——もう、我慢できなかった。


 会場を出て、無言で手を引き、自宅のエントランスまでの道を歩く間、心臓の鼓動が耳の奥で暴れていた。


 彼女を迎え入れたドアが静かに閉まった瞬間、それまで押し殺していた言葉が、堰を切ったように溢れた。









 リビングの灯りは控えめで、柔らかな間接照明が澪の横顔を静かに照らしていた。


 沈黙のなか、わたしの言葉が、ぽつりぽつりとこぼれ出す。


 


 ——そして、ようやく、澪の誤解に気づいた。


 


 最初の夜、「恋人みたい」と口にした自分の無責任さ。


 あの言葉が、澪の中にずっと棘のように残っていたこと。


 彼女は、自分を“ただの身体の相手”だと思い込んでいた。


 どれだけ贈り物をしても、手をつないでも、笑いかけても。


 それが「恋人のふり」にしか見えていなかったなんて——


 


 心の奥がぎゅうっと締めつけられる。


 目元が熱くなり、頬を伝う雫を止められなかった。


 


「……好きなの、澪。ずっと、最初から」


 


 たったひとこと。

 それだけを、震える声で、必死に伝えた。


 


 そして——


 


 彼女は、ようやく、笑ってくれた。


 あたたかく、涙まじりで、それでも、世界で一番綺麗な笑顔だった。



 ベッドの中で、澪がゆっくり目を覚ます。


 朝の光がレースのカーテンを透けて、シーツの上に優しい模様を描いていた。


 澪の髪が少し寝癖で乱れていて、その頬が寝ぼけたまま赤く染まっている。


 


「……詩音さん、おはようございます」


 


 その囁くような声に、わたしの胸がじんと温かくなる。


 この人が、隣にいる。

 それだけで、世界が少し柔らかく見える。


 


 澪が差し出してくれた手を、そっと握る。

 その細くてあたたかい指に、唇を押し当てて、そっとキスを落とす。


 


「おはよう、澪」


 


 ——今日も、愛してる。












side佐藤さとう みお




 朝の光が、部屋の白いカーテン越しにやさしく差し込んでいた。


 ふと目を覚ますと、天井が見慣れない。でも、ここはもう、わたしの部屋——詩音さんと、はじめて一緒に迎える朝。


 ベッドの隣では、ぐっすりと眠る詩音さんの寝顔。

 長いまつ毛。寝癖ひとつない黒髪。シーツに沈む肩が、静かな呼吸に合わせて小さく上下している。

 朝日がその肌をそっとなぞり、まるで絵画の中の人のように見えた。


 音を立てないようにベッドを抜け出して、そっとキッチンへ向かう。


 引っ越してきたばかりの部屋には、まだ段ボールが積まれていた。

 床に散らばった雑誌、未開封の食器の箱。けれど冷蔵庫を開ければ、詩音さんの好きなヨーグルトと、わたしの豆乳が仲良く並んでいる。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんとあたたかくなった。


 コーヒーを淹れ、マグカップをふたつ並べる。

 ケトルがふつふつと湯気を立てる音。ドリップされた珈琲の香ばしい匂いが、キッチンに静かに広がっていく。


 ——ほんの数週間前まで、私たちは “秘書と社長” だったのに。


 初めての夜。仮眠室で結ばれたあの日。

 わたしは、あの人のやさしさに触れて、“恋人みたい”だと思った。

 でも、それが本当の恋だとは、怖くて思えなかった。


 その後も、何度も体を重ねて、プレゼントをもらって、休日を過ごして。

 けれど、名前で呼ばれないことが、「恋人じゃない」という証拠みたいで、わたしは踏み出せなかった。


 ……それでも、詩音さんは、わたしをあきらめなかった。


 すれ違いに苦しんでいたときも。街コンに逃げたときでさえも——

 あの人は、わたしを迎えにきてくれた。


 あの場所で、みんなの前で。


 「恋人です」って、震える声で。


 わたしのことを、本当に好きだと、泣いてくれた。


 ——そして数日後、私は彼女の家の合鍵を受け取り、

 こうして、同じ朝を迎えている。


 


「……ん……澪?」


 背後から、眠たげな声がする。


 振り返ると、パジャマ姿の詩音さんが、目をこすりながら立っていた。

 淡いラベンダー色のシルクパジャマ。裾がふわりと揺れて、透けた素肌が朝の光に淡く染まっていた。


 


「もう起きてたの?」


「ええ。コーヒー、ブラックで合ってますよね」


「……ん、好き」


 


その「好き」がコーヒーの味なのか、わたしへの気持ちなのか——

もう、聞かなくてもわかる。


 


ソファに腰を下ろした詩音さんが、くたっとわたしの膝に頭を預けてきた。


わたしは、そっと彼女の髪を撫でる。

指先がするりとすべるたび、彼女のまぶたが心地よさそうに閉じられていく。


 


「……詩音さん」


「ん?」


「もし、いつかプロポーズするなら……わたしからでも、いいですか?」


 


詩音さんは一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。


「うん。うれしい。……でも、順番は、負けたくないな」


 


その笑顔に、胸がきゅっとなる。


わたしは、彼女の頬にそっとキスを落とした。


 


ベランダのカーテンが風に揺れ、レース越しの光が床に模様を描いている。


窓の向こうには、静かな青空。

遠くで電車の音がして、風が、街の匂いを運んでくる。


テーブルの上には、ふたり分のマグカップ。


白い湯気がゆっくりと立ちのぼり、朝の静けさに、溶けていく。


 


特別なことなんて、何も起きていない。


でも、これがきっと——“恋人”を超えた、わたしたちの日常。


 


朝の光が、今日もやさしくわたしたちを包んでいる。


 


——“好き”は終点じゃない。

  一緒に暮らして、支えて、笑って。

  わたしたちは今、“恋人”を超えて、始まったばかりだ。






最後までお読みいただき、ありがとうございました!


この短編は「すれ違い百合」×「年上女社長」×「仮眠室」のテンプレ(?)詰め合わせでお届けしました。

短編ですが、想いのすれ違いから告白、そして“恋人の朝”まで描けたのが嬉しいです。





他にも以下の短編などを書いていますので、ご興味あればぜひ:


・『死ぬはずだった悪役モブ令嬢(16歳)、婚約者(8歳)の愛が重くて死に損ねました』

https://ncode.syosetu.com/n2917kq/


・『女官リセル、冤罪で死罪寸前!?助けてくれたのは無口な女騎士でした』

https://ncode.syosetu.com/n4421ko/


今後も百合・ファンタジー・ドラマなど、幅広く書いていきますので、またお会いできましたら嬉しいです

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