そよの療養
それから二日ほどは、二人は何をするでもなく離れに安静にして寝ていた。緊張が緩むと同時に失われた体力を取り戻すように、二人はよく眠り休んだ。
三日目に傷を見た後、空斎は陸郎に言った。
「うむ、そろそろよかろう」
「傷がですか?」
陸郎が驚いて尋ねると、空斎は渋い顔をしてみせた。
「馬鹿者、いくらお主が若くて治りが早いとしても、そんなわけはあるまい。そろそろ湯浴みに行くがいいと言っておるのじゃ」
「湯浴み……ですか?」
陸郎は首を傾げた。空斎のこの庵の周囲には、湯屋らしきものは見当たらなかったからである。
「うむ。――権太、男の方を湯に連れて行け」
「あい、判っただ」
外にいた権太は鼻水を垂らした顔をひょいと覗かせると、にぃと笑ってまた姿を消した。
戻ってきた時には、権太は薪積み用の大きな背負子を背中にしょっていた。
「あんちゃん、乗るといいだ」
そう言うと権太は、間口のところでしゃがんで背中を向けた。
「――権太さんにおぶっていってもらうのですか?」
「お前が自分で歩いたら、転んだ拍子に傷がまた開かんとも限らん。冷えるから沢山着て、権太に連れて行ってもらえ」
空斎は陸郎にそう言った。
陸郎は権太の背負子に、後ろを向くように腰を下ろした。
まだ雪の残る山道を、権太は陸郎を背負ったままどんどんと進んでいった。
「権太さん、重くないですか?」
「なんてことはないだぁ。あんちゃん達を助けたときは、二人いっぺんに担いだだ」
権太は振り返ると、にぃと鼻水を垂らした顔で笑った。
誰も通った跡のない雪道を、権太は藁沓で踏みしめていく。相当にきつい踏破と思われたが、権太は意に介してない様子だった。
やがてさらに奥深い山に分け入ると、不意に権太が声をあげた。
「もう着くだ。ほれ」
そう言って権太がくるりと背中を回すと、後ろを見ていた陸郎にも視線の先が見えた。
何処からか、白い湯気が上がっている。
また向き直ると、権太は再び歩き始めた。
しばらく行くと権太は立ち止まり、腰にぶら下げていた薪に火を灯した。
陸郎が振り返ると、権太は小さな洞穴の前に立っている。その穴の奥から、白い湯気が洩れていたのだった。
「――温泉ですか?」
「んだ」
権太は薪をかかげると、躊躇することなく洞穴へと入っていった。
岩場らしい足場の悪い場所をしばらく行くと、ほどなくむせかえるような湯気に包まれた空間に到着する。権太はしゃがみこんだ。
「ここだ」
陸郎は権太の背負子から降りると、改めて周囲を見回した。権太は既に備えつけてある器具がある場所に、薪を設置する。
その灯りで照らし出された洞穴の中は蒸気でいっぱいになっていたが、よく目を凝らしてみると、岩場の中に湯が沸いていた。
「のぼせない程度にゆっくりと入るといいだ。って、じっちゃが言ってた」
「うん。権太さん、ありがとう」
「おらぁ、入口の方に待ってるだ。帰るときは声かけてくれろ」
「権太さんは入らないのかい?」
陸郎が尋ねると、権太は恥ずかしそうに鼻水を拭いた。
「えへへ……おらぁ風呂きらいだぁ」
権太はてれ笑いを浮かべると、洞穴の入口のほうに戻っていった。
なりは大きいがまだあどけない様子の権太に、陸郎はふと笑みを洩らした。
湧いている湯は熱めだったが入るのに心地よく、寒気に冷え切った手足を湯で伸ばし、陸郎はゆったりとくつろいだ。
(……こりゃあ、気持ちいいや)
陸郎はこの数日間の緊張までほぐれる想いで湯につかった。
岩に背もたれて洞穴内をぼんやりと眺めると、かがり火に照らし出された岩肌が幻想的に浮かびあがった。
陸郎は自分が夢のなかにいるような錯覚を覚えた。
(これは夢か幻ではないのか……真の自分はあの時斬られて谷に落ちて、そのまま死んでしまったのではないか――)
陸郎はぼんやりと、そんな想いをにふけった。
しかし、さらしを巻いた自分の腹部を触ってみて、陸郎は思い返した。
(いや――これは現だ。私は生きている……)
陸郎は温かい湯の中で息をついた。
権太に背負われて小屋に戻ると、庭にそよの姿があった。そよは脇に杖を抱え、一本足で身を支えている。傍には空斎の姿があった。
「そよ殿、立てるのか?」
「はい。くじいた足の痛みが大分引きましたので――」
「ふむ。娘、高さはどうじゃ?」
「あ、これで大丈夫です」
そよは空斎の問いに笑顔で答えた。先が分かれた松葉のような形の木に、脇をもたせる接木をはめ込んだ杖は、空斎の工夫かと陸郎は思い至った。
そよが慣れない様子で、ひょこひょこと歩く。
(――そよが歩けるようになったということか……)
陸郎は空斎に近づくと頭を下げた。
「何から何まで有難うございます。――我らはもう少し傷が癒えたら、山を下りようと思います」
陸郎の言葉を聞いて、そよがはっとした表情になった。
空斎はじろりと陸郎を睨んだ。
「そうしたければ、そうしても構わん。――が、娘の脚がどうなろうとわしは知らんぞ」
「危ない、でしょうか?」
「無理をさせて妙に曲がって治ってしまうことがある。それとも、急ぐ理由でもあるのか?」
陸郎は迷いながらも空斎に告げた。
「春に――そよ殿は江戸に輿入れしなければなりません。それまでには江戸に着かなければならないのです」
「春までなら、まだ三月以上はあろう。二月はおとなしくしておいた方がよい」
空斎の言葉を聞いて、陸郎は先刻から懸念していたことを口にした。
「しかし――我らがこちらにお邪魔になっていたら、冬を越すのが難しくなるのではないでしょうか?」
空斎はまた陸郎を見やった。
「食い物の備えなら充分にある。心配せんでええ。そもそもぬしらを助けたはこちらの勝手じゃ。気に入らんかったら放り出すから、それまではおとなしくしておれ」
空斎はぶっきらぼうにそれだけ言うと、背を向いて母屋へ戻っていった。
「えへへ……これで、あんちゃんたちと春まで一緒だね。おらぁ嬉しいだぁ」
権太は嬉しそうに鼻をこすりながら笑顔を浮かべた。
陸郎がそよの方を見ると、そよは安堵したような微笑みで陸郎を見つめていた。
その夜、隣の間に布団を敷こうとしていた陸郎に、そよが声をかけた。
「陸郎さまも――火鉢のあるこちらでお休みになればいいのに」
「いや……」
陸郎はそれから先を言いよどんで、黙々と布団を敷いた。
「ゆっくり休んで――まず怪我を治すことだ。そよ殿、おやすみなさい」
「おやすみなさいませ……」
そよの瞳を一瞥すると、陸郎は襖を閉じた。
十日ほども、陸郎はそんな風にして日々を過ごした。毎日、権太の背負子に乗って、温泉に通う。
ある日のこと、ふと思いついて陸郎は権太に背負われたまま声をかけた。
「権太さんは、空斎先生のお孫さんなのかい?」
「いんや」
権太は歩みを止めることなく返事をした。
「おらが四つの頃、お父とお母が野盗に襲われて死んだだ。村の衆のほとんどがその時死んだだが、おらはお母に抱えられていて殺されなかっただ。じっちゃんはその時、村の外れに住んでただ。村じゃ暮らせなくなって、おらはじっちゃんに連れられて山で一緒に暮らすようになっただ」
陸郎は権太の話を聞いて、しばし呆然とした。
屈託なく話す権太の明るさが、逆に陸郎の心に深い哀しみを生じさせた。
「すみません……辛いことを聞いてしまって」
陸郎の言葉を聞くと、権太は立ち止まって足を止め、背中を振り返った。
鼻水を垂らしたまま、権太はにぃと笑った。
「実はおらぁ、あんまり覚えてないだ。だからなんでもないんだ。それに、じっちゃんが好きだし、山も好きだ。だから、今は楽しいだ」
「権太さん……」
陸郎はなんとも言えない気持ちになって言葉に詰まった。
権太は顔を戻すと、再び歩き始めた。
「あんちゃんと姉ちゃんが来て、もっと楽しくなっただ。えへへ……」
権太はてれ隠しなのか、袖口でぐいと鼻を拭いた。
いつものように温泉の入り口に着くと、権太は陸郎に言った。
「おらぁ、ちょっとこの辺を見てくるだ。あんちゃんは、ゆっくりつかっててくんろ」
そう言うと権太は、さらに山の奥の方へと歩き出した。
声をかける間もなく行ってしまった権太を見送ると、陸郎は言われた通りに少しゆっくりと温泉につかった。
やがて湯からあがると、権太は既に戻ってきていて、腰に何かぶら下げていた。
「どうしてたんですか?」
「えへへ、山芋だぁ」
そう言うと権太は、得意気に腰にぶら下げた長い自然薯を陸郎に見せた。
「ふふふ、今日は芋汁だ」
権太の笑いに、陸郎も微笑みを洩らした。
案に違わずその日の晩餐は芋汁だった。
それまでは離れの方に陸郎とそよの食事を権太が運んでいたが、この日は陸郎とそよが母屋のほうに赴いた。
芋汁の鍋がかけられた囲炉裏を四人で囲む。椀に盛られた芋汁は、白い湯気をたてていた。
そよが一口口にすると、顔を輝かせた。
「美味しい!」
権太が嬉しそうに笑うと、自身も芋汁をかきこんだ。陸郎も味噌汁に入れられた芋を箸で取り、口に入れる。
味噌の香りと芋のとろみが、口の中でふんわりと広がった。
「本当だ、美味いですね」
空斎が微かに笑った。
「あ、空斎先生の笑い顔、初めて見ましたわ」
そよが嬉しそうな声をあげる。
「そうか?」
「ふふふ。空斎先生って、いつも恐い顔をなさってるんですもの」
「この顔は生まれつきじゃ」
「けど陸郎さま、空斎先生はあの杖をこしらえてくれるのに、とても気を使ってくださったんですの。高さがちゃんと合うかどうか確かめて――凄くお優しい方だって、わたくし本当に感じましたわ」
「我々二人がこうして世話になってるんだ。それは間違いないだろう」
陸郎も頷いた。
「じっちゃんは顔は恐いが、優しいんだぁ」
権太の言葉に、そよと陸郎は思わず笑った。
空斎は渋い顔をしながら手を振ってみせた。
「くだらん話じゃ。はよぅ喰え、喰え」
「ね、みんなで食べるとより美味しくなりますわ。片付けもらくになるし、これからはわたくし達もこちらでいただきたいのですけど――」
そよが空斎にそう言うと、空斎は少し虚をつかれたような表情を見せて、すぐにいつもの渋面に戻した。
「好きにせい」
空斎は気持ちを悟らせまいとするように、芋汁をすすった。
それからは食事を共にするようになり、次第に陸郎たちは空斎や権太とより打ち解けて暮らすようになった。
空斎の渋面が実はてれ隠しであることや、権太がまだ十三にもならない悪戯好きの子どもであることなど、より二人について知ることになった。
次第に暮らしのなかで手伝えることは手伝うようになり、裏の納戸から保存食や薪を運んだりして、生活品の場所なども判るようになっていった。
雪に閉ざされた山の暮らしの中で、日々は穏やかに過ぎていった。
二人の傷も日に日に癒えていった。
「もう、自分で行くがよかろう」
陸郎の腹を縫った糸を抜きながら、空斎はそう言った。
陸郎は自分の腹に真一文字についた傷を改めて見た。
「湯につかっても、傷痕は残りますよね?」
「当たり前じゃ」
「……切腹した痕みたいだ」
「本当に切腹するときは、刀を腹に突きたててから引く。腸を斬ってしまうから、一度やったら治しようがないわい」
空斎は面白くもなさそうにそう言うと、じろりと陸郎を睨んだ。
「す、すみません、つまらない事を言って」
「――拾うた命、大事にせえ」
空斎はそう言うと、立ち上がって行ってしまった。
それから三日ほど経ったある日、陸郎は空斎に呼ばれた。
「今日は湯に行かんでいい。わしと一緒に来てくれ」
「何処かへいらっしゃるのですか?」
「うむ」
朝食を済ませると、権太とそよを留守番に残し、空斎と陸郎は雪の残る山の中へと出立した。
空斎は短い天然木の杖一本で、雪道を歩んでいく。
陸郎は出がけに持たされた、猪の干し肉や薬箱を背負い、どんどんと進む空斎の後をついていった。