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襲撃者


「我らは美濃脇坂家の家臣だった者じゃ。四年前に主家が取り潰しになり、それから流浪の身じゃ。最初は仕官を請うてあちこちの大名家を訪ねてみたが……」


 野中は苦笑いをした。酒を口にしていない陸郎は、黙ってその様子を見ていた。


「何処にも浪人を雇うような余裕はなかった。ほとんどが門前払いじゃ。わしは新当流を少しばかり学んでおり、腕にはそれなりの自信もあったが――どうしてどうして。もう泰平の世じゃ。剣の腕などいらん――と、こうじゃ」


「そうでしたか……」

「わしは八年前に妻に死なれ、子も親もおらん。自分の身一人なんとかすればいい身の上じゃったが、次第に持ち金も底をつき、喰うものにも困る有様となった。――腹が減ってなあ……」


 野中はそう苦笑すると、ぐいと杯をあおった。


「宿に泊まる金もなく、山の中や橋の下によく野宿したわ。川で魚を採ろうとして、採れぬときは蛙を採って焼いて食うた」

「蛙、ですか」


 陸郎が驚いて聞き返すと、野中はにっと笑った。


「案外、美味いものでな。けっこう癖になる。……や、いかんいかん。久澄どのの酒が不味くなるわ。これは御免」

「いえ、私は呑みませんので――。それで、達兄とはどうして知り合われたのです?」


 陸郎は徳利を野中に差し出しながら尋ねてみた。野中はそれを杯で受けつつ答える。


「うむ……江戸にいけば普請の人夫を求めておると聞いたわしは、江戸に来て人夫をしていた。その時、普請場の指揮をしていた春日どのに声をかけられたのじゃ」

「なんと?」

「『お主、ひとかどの剣士と見たがどうであろう?』とな」


 野中はそう言うと、少し誇らしげに嬉しそうな笑みを見せた。


「そこでわしは『新当流を少々』と勿体ぶって答えると、春日どのは『お主のような人物がこんな処にいるのは場違いじゃ』と言って、その日、わしに酒を呑ませてくれた。わしは身の上を話し、春日どのは今回のそよ殿の警護の一件をわしに話した」

「そうでしたか」


「最初は話の重大さに腰が引けたが、この件が無事に済めば飯山佐久間家への仕官も口利きしてくれるという。わしにとって春日どのは大恩人じゃ。もっと人を探しているという春日どのの話を聞いて、わしは同じく江戸に流浪していた後輩の新庄を紹介したのじゃ」


「なるほど、お二人は事前からの知り合いでしたか」

「あいつには結婚を控えておった許嫁がおってな。主家の取り潰しで話はそれどころじゃなくなってしまったがな……」


 野中はそう言うと、伏し目がちに視線を横に落とした。

 どこか物憂い表情をした、野中の顔が陸郎の目に焼き付いた。


   *


 山の朝は冷えた。

 遅い冬の夜明けを待たず、一行は薄明かりのなかを出立した。吐く息は白く、顔に当たる冷気は痛いくらいに冷たかった。


「こりゃあ、雪になるやもしれませんのう」


 野中が白い息を吐きながら呟いた。

 次第に分け入っていく峠道は、ほとんどが裸木になっており、既に冬めいた風はこの辺りの樹々から葉を落とさせていた。


 薄暗い山道を、一行は黙々と歩き続ける。

 暗く静かな峠の道で、四人の土を踏む音だけが響く。


 一時も歩き続けると、ようやく辺りに明かりが射し始めた。その陽射しのなかで、不意に山鳥の鳴き声がする。

「お」と言って、新庄がしゃがみ込んだ。


「どうした?」

「いや、ちょっと草履の紐が切れました。先に行っててくだされ、すぐに追いつきます」

「いや、丁度いいから、少し休むとしよう。そよも疲れたろう」


 達彦の言葉に、そよは微かに笑ってみせた。

 一同はめいめいに座って持参した竹の水筒から水を飲んだ。次第に夜が明け、空が明るくなってきた。


 グワァ、ガァガァ、と山鳥が数羽飛び立つ羽音が鳴り響く。

 達彦は身を固くして立ち上がった。


「――いかん! 追手が来ている」


 達彦の言葉に皆がはっとなって息を呑んだ瞬間、達彦の腕に一本の矢が突き刺さった。


「うっ」


 達彦は小さく呻いて右手で矢を引き抜いた後に、鞘から剣を抜き放った。


「皆、山へ上がれ! 弓矢の的になる!」


 達彦の言葉に一同が峠道から山へ上がろうとした。

 その野中の背中に、新庄が突然、剣を斬りつけた。


「なにっ!」


 野中は振り返り、信じられないものを見るように目を見開いた。


「――新庄……まさか、お主が………」

「野中さん、悪いが俺には金と仕官の口が必要なんだ」


 新庄は血走った眼で野中を見つめていた。


「野中さん!」

「陸郎! そよを守れ!」


 野中に声をかけた陸郎は達彦に呼び止められ、はっとなって振り返った。

 達彦は既にそよの傍に近づき、山を駆け上がろうとしている。陸郎は歯噛みして、その後を追った。


「新庄……よくも恩を……」


 深手を負いながらも、野中は剣を抜いた。


「うるさいっ!」


 野中が斬りつけるより早く、新庄はその肩から袈裟懸けに野中を斬り降ろした。内臓から逆流した血が、野中の口から吹きこぼれる。その手から剣が落ちた。


「し……新庄……」


 よろめくように歩み寄って、野中は新庄の胸ぐらを掴む。


「は、離せ」


 両手でがっちりと掴んでいる野中を振りほどこうと新庄はもがくが、野中の身体は容易に離れない。野中は脇差を引き抜くと、新庄の腹に深々と突き刺した。


「うっ……ぐ……」

「長いつきあいだろ……なあ………」


 野中は血を滴らせた口の端で、寂しそうに微笑ってみせた。

 二人の身体がもつれるようにして倒れる。


「ああっ……」


 そよは耐えかねるように顔を覆って視線を外した。


「行くんだ、そよ」


 達彦がそよの肩を促すように押す。

 周囲からざわついた気配が近づき始めていた。


 陸郎たちは必死になって山を駆け抜けた。

 落ち葉を踏みしめる音が静かな山に響き渡る。

 陸郎たちの居場所は、それだけで気取られそうだった。


「あっ」


 不意にそよが躓いて転ぶ。落葉に埋もれた木の根に足を取られたのであった。


「そよ、大丈夫か」


 達彦がそよを助け起こし、陸郎は刀を構えて周囲を警戒した。


「だ、大丈夫です――」

「達兄!」


 陸郎は横手から近づいてくる黒装束の一党を見つけ、達彦に呼びかけた。


「む……」


 達彦が低く唸る。

 瞬く間に黒装束の一党は、陸郎たちに近づいてきた。


「陸郎、そよを連れてできるだけ逃げろ。わしがここで連中を食い止める」

「し、しかし……」

「早く行けっ!」


 狼狽する陸郎に対し、達彦は厳しい表情で怒鳴りつけた。

 陸郎は黙って頷くと、そよを促してさらに山の奥へと分け入った。


 何処を走っているのか判らない。

 何処へ行くのかも判らない。


 だが、とにかく二人は走り続けた。

 しばらくの間走った後、そよが崩れるように地面にへたり込んだ。


「そよ!」

「――陸郎さま、わたくし、もう……」

「ここを、なんとしても逃げるんだ、そよ!」


 陸郎に声を落としながらも、無我夢中でそよに呼びかけた。そよを呼び捨てにしていることすら、陸郎は気づいていなかった。


「陸郎さま……」


 その濡れた瞳をそよが陸郎に向けた時、後方から声が上がった。


「――いたぞ! 向こうだ」


(見つかった――)


 陸郎はそよと目を見合わせると、その脇から手を差してそよを立ち上がらせた。


(――もはや逃げられん)


 陸郎はそう思いつめた。


「そよ殿、そこの木の陰に隠れて、機を見て逃げるのだ」

「………」


 そよは何か言おうとして、何も言えずに潤んだ眼で陸郎をみると、少し離れた巨木の陰に姿を隠した。


(たとえ刺し違えても――そよを逃がすのだ)


 陸郎は近づいてくる黒装束の一党を睨みつけた。

 やってくるのは三人。


 三人は走りながら抜刀し、陸郎の前に姿を現した。

 もはや何の言葉も必要ないほど、相手の殺気は明白だった。


「うわあぁぁぁぁっ!」


 陸郎は大声を出しながら刀をぶんぶん振り回した。

 相手はその気迫に押されてじりじり退がる。


 陸郎は相手の臆した様子を見たことと、大声を出したことで、気持ちの平静を少し取り戻した。


「ダァーッ!」


 中の一人が八相から斬りつけてくる。

 陸郎が後退してかわすと、相手は力みすぎで剣を地面に斬りつけた。


(今だ)


 陸郎は夢中で、隙だらけになった相手に剣を繰り出そうとした。

 きちんと振りかぶる余裕などない。

 とにかく手を伸ばして、相手の小手に剣を当てて引く。


「うわぁっっ!」


 腕を傷つけられた相手が剣を落とし、悲鳴をあげた。


(斬った――人を斬った)


 陸郎は苦しい息のなかで喘いだ。


「このっ」


 もう一人が斬りつけてきた剣を、陸郎はまともに受け止める。

 刀の動きを封じるために陸郎は相手の鍔を、自分の鍔で抑え込んだ。


「むぅ……」


 荒くなった二人の息が、口から洩れる。

 しかしその背後で、もう一人の追手がそよの隠れている巨木に向かおうとしているのを陸郎は見逃さなかった。


(いかん)


 陸郎はとっさに、鍔迫り合いの相手の胴を前足で蹴り飛ばした。


「ぐわっ」


 蹴られた相手が後ろによろけ、背後を抜けようとしていたもう一人にぶつかって共倒れになる。

 離れ際、自分の剣が相手の手を僅かにかすめたのを陸郎は感じた。


 意識したわけではないが、それは相手の指を斬ったらしく、倒れた相手は自分の手を押さえて地面を転がっている。


「そよ、走れ!」


 二人は戦闘不能になったのを見て、陸郎はそよにそう促して自分も駆け出した。

 再び走り出した二人は、しかしすぐにその足を止めることとなった。


「………崖」


 二人の足元には深い谷が広がり、その底に川が流れているのが見える。

 一瞬、呆然となって立ち尽くした二人に、その背後から声がかけられた。


「――鼠が必死に猫を噛んだようだな」


 二人はびくりとして、後ろを振り返った。

 一人、黒装束の男が悠然と近づいてくる。


 その物腰、落ち着き――先ほどの三人とは全く違うと、陸郎は瞬時に悟った。

 陸郎は剣を構えながら、その頭巾の隙間から見える鋭い目つきに目を見張った。


「……月代抜宗か」


 陸郎の呟きを聞いて、頭巾の男は笑みを漏らしたようだった。


「フ……悟られたようだな。ならば隠す必要もあるまい」


 男はその頭巾の口元を覆う布を外した。


 そこに現れたのは、案に違わずあの月代抜宗だった。


「顔を覆っているのは息苦しいからな」


 月代抜宗はそう呟くと、静かに笑ってみせた。

 陸郎の背筋に、寒気が走った。


(この男は……できる。全然、自分より格上だ――)


 あの美木利光ですら一瞬で破った相手を前にして、陸郎は戦慄した。


「――もう、やめてください!」


 その時、突然、そよが陸郎の前に走り出た。


「目的はわたくしなのでしょう? わたくしを斬って――それで終わりにしてください!」

「何を言うんだ、そよ殿!」


 陸郎はその肩を掴むと、ぐいと引き戻した。


「ほう……殊勝な心がけだな、娘。だが何にしろ、お前たちには死んでもらうことになっている」


 月代抜宗はそう言うと、すらりと剣を抜き放った。

 陸郎はそよを後ろに下がらせると、剣を構えて月代抜宗の前に立つ。


 抜宗が、その口元に僅かに笑みを浮かべたように見えた。

 抜宗は剣を脇に構える。


 と、瞬時にそこから袈裟に斬りかかってきた。

 陸郎はそれを受け、鍔で止める。


 鍔迫り合いになるか、と思われた刹那、陸郎は抜宗が左手を柄から離すのを見た。


(――あの時も)


 美木利光との一戦では、抜宗はその左手で当身を入れた。が、今度は抜宗はその左手で、腰の脇差を逆手に引き抜いた。


(いかん)


 陸郎が慌てて離れる。

 が、逆手に持った脇差で、抜宗は陸郎の胴を横に薙ぎ払っていた。


「くっ――_」


 腹に火箸をあてられたような痛みを感じるとともに、陸郎は足場の悪い岩場でよろめいた。身体が宙に舞うのを感じながら、陸郎はその身を切り立つ崖から落とそうとしていた。


「陸郎さま!」


 そよが駆け寄り、まさに落ちようとする陸郎の腕を掴んだ。

 しかし娘の力で人間の重さを支えることはできず、そよの身体が陸郎の体重に引かれ一緒になって崖に向かって落ちて来る。


(駄目だ、手を離せ――)


 しかし陸郎がそう声にするより早く、二人の身体は一緒になって深い谷底へと落ちていった。



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