そよの出立
稽古が終わった昼、左近が陸郎に声をかけてきた。
「おい、久しぶりに釣りにでも行かないか?」
「これからか?」
「一度帰って汗を流したら、着替えて出かければよかろう。まだ陽も高いしな」
左近の人懐っこい笑顔に釣られて、陸郎はそれを承諾した。
例の処でな、という左近の言葉に、小川のあそこだな、と陸郎が応える。幼少の頃に達彦や、時にはそよも含めた四人でよく出かけた河原だった。
準備をして陸郎が出かけると、左近は先に着いていて、既に釣り糸を垂らしていた。
「どうだ、釣れたか?」
「なに、今、始めたばかりさ。焦っちゃいかんよ、何事もな」
「――と、言ってるそばから引いてるぞ」
陸郎の言うとおり、浮きはぴょこぴょこと水面で浮き沈みを始めていた。二人はしばし黙って浮きを見ていたが、やがて左近が、えい、という一声とともに竿を上げた。
釣り糸の先に、魚はついていない。
「む、逃げられたか」
「はは、残念だったな」
「なに、逃がした魚は小さかったさ」
「逃がした魚が大きかったという話はよく聞くが、お前のは逆だな」
「そう思っておけば、残念な気持ちが少なくて済むだろう」
左近は冗談めかして微笑んだ。
「しかし、いかにも大きくて手ごたえのある奴に逃げられたときはどうする?」
「なに、その時は『逃した魚はきっと不味かった』と思えばいいのさ」
左近の言葉に思わず陸郎は吹き出し、左近も一緒になって笑いあった。
陸郎も左近の隣に竿を並べると、ふと思いついて口を開いた。
「突然、釣りなどどうしたんだ?」
「まあ……お前の気持ちがくさくさしてそうだったから、気晴らしにでも、と思ってな」
陸郎は苦笑してみせたが、すぐに真顔に戻って言葉を継いだ。
「――試合自体は自分では満足していて、自分では思い残すようなことはない。ひっかかっているのは、その後の事だ」
「道場のことか?」
陸郎は頷いた。
「負けた我らにも責任はあるが、すぐに道場を移るというのは、今まで教えを受けた北見先生に対して不義理に過ぎるとは思わないか?」
「そうは言ってもな――強きに依りたい、というのは仕方のない心情さ。名のある道場にいれば、それだけで周りの見る目も高くなるからな」
「しかし、いかに周囲が強かろうと、強くなるのはつまるところ本人だ。当人の腰の据えた稽古なくして、向上がありえるか」
陸郎の憤慨した口調を聞くと、左近はふっと笑みを洩らした。
「周りが強ければ、それに引っ張られて強くなる、ということもあろうが、それだけが問題じゃないんだ。周りの目が高くなれば、有利に振舞えたり便宜をはかられたりする機会が増える。そういう事もあってのことだよ」
「そんな損得勘定を……剣の道に持ち込むなど――」
「まあ、お前は家老の血筋に連なる者だからその必要もないし、その真っすぐな性格ではそういう考えもなかったろう。けどな、陸郎。誰もがお前みたいに、真っすぐ生きられるわけではないんだぞ。それに、そういう態度が、時に人を傷つけることもある」
左近の言葉に、陸郎はふと、目を伏せて前を通り過ぎた松田のことを思い出した。
「しかし、私は何もしていないし、そんなに大した者でもない」
陸郎の言葉に、左近は苦笑いしながら応えた。
「お前自身はそう思うかもしれんがな――。俺は先ごろ、改めて、お前や美木どののような剣才は自分にはない、と悟った」
「何を言うんだ」
「いや、本当のことだ。ずっとお前や達彦、美木どのに引っ張られて、そこそこの腕にはなったが――。しかし、俺の剣はこの辺が頭打ちだ」
「そんなこと、修行する前から判るものか」
陸郎の強い反駁に、左近は少し哀しげな笑みを浮かべてみせた。
「陸郎、お前がそう思えるのは、お前にまだ伸び代があるからだ。お前も、多分、美木どのもまだまだ伸びる。だがな、俺はもうずっと前から、自分の腕に限界を感じていたんだ」
左近はそう言うと、竿の先に目を移し、おっと言って竿を上げた。また魚はついてなかった。
左近は再び餌をつけると、針を川に放り込んだ。陸郎はその間かけるべき言葉を失って、ただ黙って見ていた。
「しかしな陸郎、俺がここで剣を止めたとしても、別にそれで俺が不幸なわけじゃないぞ」
陸郎は真面目な表情で話の続きを促した。
「そもそも陸郎、お前にとって幸せとは何だ?」
「幸せ?」
「ああ、そうだ。生まれてきて、生きていく甲斐のあること、命をかけるに相応しい生き方のことだ。剣の道を究めるもよし、それも一つの幸せの形と思うが、他にも人の歩む道はいくらでもある。絵を描くことに執念を燃やす者もいれば、お家を守ることこそ至上、という者もおる」
「お前はなんだ?」
「俺か……たとえば、好きな女と一緒に暮らす、なんてのはどうだ」
左近は冗談めかして笑ってみせた。
「――お前、好きな女が江戸にいるんだろう?」
陸郎は左近に言った。
「まあな。しかし一緒になるのは難しい……。剣で相手に勝つより難しいやもしれん。けど――」
左近は、むっという声とともに竿を上げた。今度は先に魚がかかっていた。
「望みは捨てないつもりさ」
左近は陸郎に、屈託のない笑顔を見せた。
「ところで、お前はどうなんだ、陸郎?」
「何がだ」
「好きな女子はおらんのか?」
陸郎の脳裏をふと、そよの姿がよぎったが、陸郎は、そんなものはいない、と答えた。
「そうか。しかし我らももう子どもではないのだぞ。あの、そよが嫁入りだからな」
陸郎は左近の言葉を聞いて驚いた。
「知ってたのか?」
「知らんわけはあるまい。俺は江戸の勘定役だぞ、仔細は聞いておる。が、そよには知らぬ風で通してあるし、お前達が江戸にたつ日程も知らん。だが、俺も春には江戸へ戻るから、そこで落ち合うことになるだろう」
軽く笑って見せる左近に陸郎は頷いたが、不意に湧きあがった想いにかすかに表情を曇らせた。
(そよの幸せは……どうなるのだ?)
陸郎の目には、そよの涙が灼きついていた。
*
江戸へ発つまえに陸郎は、あの浪人に斬られた母親を見舞おうと百姓家へ赴いた。
「誰かいるか」とかけた声に、「はい」と答えた声が妙に若いのを陸郎が不思議に思っていると、中から出てきたのはそよの姿だった。
「そよ殿か」
「陸郎さま、お見舞いにいらして下さったのですね。今、ちょうど手当てが済んだところですの」
そよと一緒に室内に上がると、母親は布団に横になっており、その傍に少女が寄り添っていた。
「おヨネさん、久澄様ですよ」
そよの言葉を聞いて慌てて身を起そうとする母親を、陸郎は手で制した。しかし母親は身体をなんとか起こすと、両手を床について頭をそこにこすりつけるように下げた。
「うちの亭主の仇をとってもろうて、本当にありがとうごぜえます」
「いや……討ったのは、そよの兄なのだ」
「いいえ、お兄様は陸郎さまが追いかけなければ、間違いなく国外に逃げられただろうと言ってましたわ」
そよの言葉を聞くと、母親は陸郎を見上げ、涙を流しながら両手を合わせ拝んだ。
「そんな、もうやめて下さい――」
(…それに、何をしたところで、この家の父親はもう帰っては来ないのだ)
やるせない気持ちに襲われて陸郎がそばの少女に目をやると、少女は陸郎の姿を見て怯えた表情で固まっていた。
少女の様子に気づいた陸郎を察して、そよが口を開いた。
「あの子、あれ以来、知らない男の人を恐がるようになってしまって……。ゆきちゃん、久澄様はとても優しい方なのよ。恐がらなくていいの」
「いや、いいんだ。私はもう引きあげよう。おかみさん、お身体をお大事に」
陸郎はその退室ぎわに、もう一度少女の怯えた瞳を見た。
(傷ついたのは、母親だけではないのだ――)
陸郎は屋外まで来ると、見送りに来たそよにそっと紙包みを渡した。
「少ないんだが、これを母親に渡してくれないか」
そよは少し驚いた顔をした後、潤んだような微笑を見せた。
「やっぱり……陸郎さまは優しい方ですわ」
「いや――そよ殿のしていることに比べれば、私など何もできないに等しい」
陸郎の注いだ眼差しを受けて、二人はしばし無言で見つめ合った。
やがて、そよがその唇を開いた。
「わたくし、心を決めました」
そよは、陸郎の瞳をまっすぐ見つめながらそう言った。
「わたくしは、お父様やお兄様、陸郎さまに守られて江戸へ参ります。そして離れた処から、陸郎さまの幸せをずっとお祈りいたします」
そよはそう続けると、陸郎に笑顔をつくってみせた。
「……うん。私も、必ずそよ殿を無事に江戸に送り届けること――約束する」
陸郎は、微かに胸を締めつける感触を覚えながらも、やはりそよに笑ってみせた。
*
その三日後、陸郎は伝蔵から達彦のことづけとして、明後日、寅の刻には江戸へ出立する旨を聞かされた。
翌々日の朝早く、陸郎は春日家へと向かった。
既に早駕籠と、警護の侍が二人待機しており、陸郎は江戸行きの行程を聞かされた。
最初の一日目で街道を早駕籠で一気に下り、国の外まで抜けてしまう。その後は目立たない旅装束で徒歩で江戸まで向かう、という話だった。
ほどなくして旅姿のそよと、達彦、達之丞が駕籠の待つ中庭に現れた。
「――それではお父様、行ってまいります」
「うむ。わしも年明けには江戸へ行く。道中、気をつけるようにな。――皆の者、頼んだぞ」
向き直って陸郎達にかけられた声に、その場の一同がはっと短く答えた。
駕籠に乗り込む際に、そよはそっと陸郎に視線を向けた。
陸郎は小さく頷いた。
まだ夜も明けきらぬうちに、一同は飯山を出立した。
吐く息が白くなり、冬がもうすぐそこまで来ていることを知らせる。
一向は一日目に松代を抜けて北国街道まで出て、矢代の地で宿をとった。
戦国の乱世が終わって世の中も少し落ち着き、徳川家が各大名に江戸普請を命じたりするなかで、街道を行き交う人が増え、旅籠と呼ばれる宿屋も増え始めていた。
早駕籠をそこで返し、宿について、ようやく一行の間に少し和んだ空気が漂った。
達彦とそよが夫婦を装って一室に泊まり、他の三人が隣室に泊まることになったが、食事は皆で摂った。達彦はそこに及んで、ようやく二人の警護の者を陸郎に紹介した。
それぞれ野中進兵衛、新庄忠信と名乗り、新庄がまだ若い二十代半ば、野中は五十代前後頃かと見受けられた。
食後、達彦は街道地図を広げると、一同に予定を説明した。
「通常ならばこのまま中山道を通って碓氷峠を越えていくところだが――」
達彦は地図を指さす。
「小諸の宿から南下して中山道を逆行し、峠を越え諏訪を抜けて甲州街道から江戸へ向かう」
「追手をまくためですな」
年配の野中が思案げに呟いた言葉に、達彦は無言で頷いた。
「そこまで我々の動向が知られる、とお考えですか?」
「うむ。念には念を…ということだが。乱破、すっぱの類を向こうが使ってないとも限らんのでな」
「そういう者が襲ってくると?」
新庄の問いに、達彦は首を振った。
「いや。そういう者たちは権勢を探ったり暗殺したりするのが得手の仕事じゃ。面と向かって戦うのは侍の方が優れておろう。我らの道行を追ってその居場所を襲撃する者に教えに戻るのには時間がかかる。その間に、こちらが追手をまければよいのだが――」
達彦の話の内容の重さに、場がしばし沈黙に包まれた。その静けさを破るように、野中がわざと明るい声を出した。
「なに、ここまで来るときも周囲を警戒しておりましたが、つけてくる者の気配もありませなんだ。それに何者が襲ってきたとて、春日どのほどの達者が一緒なのだから心強いというもの。必ず江戸まで、皆で辿りつきましょうぞ」
その言葉に一同が頷いた。
翌日、旅姿に替えたそよの足取りに合わせ、一同は小諸に宿をとった。
翌日からは中山道を江戸行きとは逆方向に向かい、諏訪を目指して南下する。次第に峠が近づく道を進み、山のふもと和田で宿をとった。
この宿には湯屋があり、一行は順番に汗を流すことにした。
若い新庄が湯に行き、部屋には湯上りの陸郎と野中が残った。既に二日目ということもあり、少しはうちとけた空気が一行の間に生まれていた。
野中は酒を一口呑みながら、くつろいだ様子で軽口をたたいていた。明日は峠越えになるため、今晩のうちによく休むようにという達彦の差し入れだった。
「――実際、春日どのに声をかけられなんだら、今頃、わしはどうなっとるのか判らん身なんじゃよ」
野中は自嘲気味に、少し赤らんだ顔をほころばせた。
「と、言いますと?」