月代抜宗
美木はそれを受け止め、鍔ぜりあいになる。押し込もうとする月代の力に、美木が負けない強さで対抗した。間近に迫った二人の視線がぶつかりあう。
二人の力は拮抗し、しばしの間二人は膠着していた。
が、月代がわずかに体を開きながら、美木を左前に崩す。と、すぐさま月代は左手を柄から離し、美木の脇腹に拳をあてた。
(当身? 何だ――)
鍔ぜりあいの陰になっていた月代の拳は、美木には見えていなかったが横から見ていた陸郎にははっきりと見えた。しかしその近間からどんな打撃が打てるのか?
そう、陸郎が訝しんだ瞬間、美木の身体が大きく後ろに退いた。美木本人、自身の脇腹を襲った衝撃に驚いている。
その崩れた隙を逃さず、月代の右手片手打ちが美木の小手を襲う。美木は衝撃の苦痛に顔を歪めながらも、これを弾いてなんとか防いだ。
が、その弾かれた木剣はそのままさらに月代の頭上を大きく弧を描いた後、美木の側頭部を襲った。
鈍い音ともに、美木の身体が横に倒れた。
さしもの美木利光も、月代抜宗の三撃目を逃れることはできず、木剣の一閃を側頭部に受け地面に伏したのである。
「美木どの!」
陸郎や、その他の門下生が昏倒した美木の元に駆け寄った。鋭い一撃を受けた頭部から血が流れている。
北見丹膳がやってきて、美木の傷を見た。
「うむ……血は流れているが、表面を少し切っただけじゃ。大丈夫であろう。美木も一瞬だが受けたことが威力を幾分減らしておる」
美木は竹と布を組んだ担架で運ばれていった。
対抗試合は南條道場側の全勝で終わった。
殿の観覧の辞を、一同が座して待つ。まだ幼い君主の安次公が、一度下がってから再び方丈の間に再登場した。
「双方ともよき働きじゃった。客人も満足いただけたという事である。北見方は残念だったが、また励むがよい」
恐らくは乳母あたりに教えられた文句を言い終えて、幼少の君主は安堵したように息をついた。
と、その時、座の一端から声が上がった。
「殿に申し上げたき儀がござりまする」
皆が一斉に声の主を振り返った。
春日達彦である。
「春日、申してみよ」
幼い声で、安次公が返答した。
「お許しいただけるならば、私めと月代抜宗どのの立合いをご覧いただきたいと存じます」
「許す。許すぞ、春日」
周囲が制止するより速く、幼君は無邪気な声をあげた。
場内がどよめいた。陸郎もまた驚きを隠せず、達彦の姿を見た。
達彦の視線は方丈内に向けられていたが、微妙にその視線は安次公からずれているように陸郎には見えた。
(惣目付――柳生但馬守様?)
達彦の視線は柳生宗矩その人に向けられているように陸郎には見えた。そして柳生宗矩もまた、達彦の方を見ていることに陸郎は気づいたのである。
威厳ある風貌の柳生宗矩が、微かに頷いたように見えた。
かくて春日達彦と、月代抜宗の立合いが急きょ始まったのであった。
春日達彦は下段にすっと切っ先を落す。
月代抜宗は青眼でこれに対峙する。
二人を包んだ周囲にも、静かな緊張がはしった。
遠間から、月代が動いた。
それでは届くまい、と思われた間合いを、月代はほぼ左真半身による左片手打ちでその間を詰めてみせた。その電撃のような一撃を達彦が防ぐ。や、否や、月代はすぐさま太刀を呼び戻して、八相に持ち替えて斬りつけた。
勝負が決した。
達彦の木剣の切っ先が、ぴたりと月代抜宗の眉間に据えられていた。
凄まじい連撃を繰り出したのは月代の方である。しかし月代の木剣は達彦の身体をすり抜けたかのように空を切っていた。
何が起きたのかも判らず、ただ息を呑む周囲のなかで、陸郎は微かに遅れて出た達彦の木剣が月代の剣線を逸らしながら打ち込まれる技を見た。
(あの時と同じ太刀筋だ――)
達彦が浪人を斬ったときのことを、陸郎は思い出していた。
*
試合の翌日の黄昏時、陸郎は訪いをうけて扉を開けた。
立っていたのは、そよであった。
駆けてきたのか肩で息をして、俯いている。
「どうしたのだ?」
陸郎の声に弾かれたように、そよは顔をあげた。その黒い瞳が潤んでいた。
「陸郎さま」
悲哀に満ちた声を出したそよは、我を忘れたように陸郎の胸に顔を埋めた。そのままそよは、堰を切ったように嗚咽し始めた。
「どうしたというのだ?」
そう尋ねながら陸郎は、微かに震えるそよの肩に両手を置いた。
(こんなに細い肩なのか――)
着物ごしに触れたそよの身体の思いがけないか細さに、陸郎は感慨を深めた。
「一体、どうしたというのだ?」
「わたくし…わたくし――」
そよは涙に濡れた顔を上げた。
「江戸に行かされます」
陸郎は一瞬、その言葉の意味を判りかねたが、すぐにその意を汲み取った。
「嫁ぎ先が決まったのだな」
「わたくし……行きたくありません。陸郎さまから、お父様にお願いしてください」
「無体なことを申すな。父上もお考えあっての事ではないか」
「陸郎さまは……わたくしが他所へ嫁いでも構わないのですか?」
そよの真剣な眼差しを受けて、陸郎は今までに感じたことのない、胸の締めつけられるような苦しみを覚えた。そよにそれを気取られぬようにしながら、陸郎はそよをたしなめた。
「妹がよい嫁ぎ先に行くのならば、それを祝うのが兄の務めではないか」
その言葉を聞いた途端に、そよの顔が悲しみに打ちひしがれたのが判った。そよは無言で問うように、陸郎の眼を見つめた。
「……判りました。そよは、もう――」
その先の言葉を途切れさせ、そよは泣いたまま微笑を浮かべてみせた。
締めつけるような痛みが陸郎の胸を襲った。
そよはきびすを返すと、夕暮れのなかに駆け出していった。
「そよ!」
思わず漏れた声が、袂で顔を覆いながら走っていったそよに届いたかどうかは判らない。
陸郎はしばし呆然として、その場に立ち尽くしていた。
*
伝蔵に呼ばれて陸郎が春日家へと赴いたのは、翌日のことである。
常に厳格な面持ちを崩さない春日達之丞は、訪れた陸郎におもむろに口を開いた。
「お前を呼んだのは他でもない。実はそよの輿入れが決まったのじゃ」
「そうですか。それは、おめでとうございます」
陸郎はつとめて平静を装いながら祝辞を述べた。
「その嫁ぎ先なのじゃが、実は――将軍家光公の側室となる次第なのだ」
はっとなった陸郎は、そのあまりの思いがけない言葉に息を呑んだ。その驚きの表情を隠しきれないまま、陸郎は口を開いた。
「将軍様……ですか」
「左様。将軍家光公に、未だ世継ぎのないことは存じておろう。世継ぎを生める妻女を家臣の方々は求めておいでじゃった。そこで今回、話が持ち上がったのが我が家のそよじゃ。先日の但馬守宗矩様のご来訪、上覧試合を見るのは表向きのこと、実はそよの適格を検分に参られたのである」
改めて語られる事の真相に、陸郎はただ驚くばかりであった。
「これでもしお世継ぎが生まれようものなら、我が春日家はもちろん、主家である佐久間家も安泰。ひいてはこの国全体の益となるであろう」
「ところがだ――」
と、達彦が、父、達之丞の言葉を引き継いだ。
「この成り行きをよく思わぬ者たちが一部おる」
陸郎は黙って、訝しげな視線を向けた。
「言わずもがなだが、黒川の一派だ。奴らは我らが安次公の傍におることをよく思っておらん。今度の婚儀がうまくいけば、我らが国の中心となるは必然の流れ。この婚儀の次第が洩れたのなら、どんな妨害の手をうってくるとも限らない」
「まさか――同じ国内でそんな……」
「甘いぞ陸郎。そもそも家臣団とはいえ、元は拮抗する地域有力者の集まりなのだ。互いに互いを潰しあい、出し抜き、競合する関係が戦乱の世では当たり前だった。その中で隣国に対抗する必要上結集し、協力するようになったにすぎん。戦乱の世が終わったからといって、世から争いがなくなったわけではないのだぞ、陸郎」
「しかし……そのような疑いが対立を生み、それがやがて諍いとなるのではないのですか?」
陸郎は胸のざわつきを感じながら、達彦の言葉に抗弁してみた。達彦は動じる様子もなく、深く頷くとそれに応じた。
「お前の言うことにも一理ある。がな、陸郎。これは我が領内の話だけではなく、もっと大きな情勢の中での話なのだ」
達彦はそこで言葉を止めて、父を顧みた。 達之丞は許しを与えるように頷いた。
「黒川たちの背後には、もっと大きな『力』がある」
「なんです? 大きな力とは?」
「――尾張徳川家」
達彦の言葉に、陸郎は大きく息を呑んだ。
「そ、そんな……」
「家光公にお世継ぎができなければ、次代将軍は権現様のお子である尾張の義直様の系統が継ぐことになるのが濃厚である。その時の地盤固めのために、旧豊臣家の大名たちや各大名家の家臣の中に、支援者をつくる動きがあるのだ。黒川たちもその一つということだ」
「そんな事が――」
陸郎は想像を超えた話の広がりに言葉を失った。
「にわかには信じがたいかもしれんが確かな話なのだ。但馬守様は手の者に、常時その動向を探らせており、それを把握しておられるのだ。あの上覧試合に現れた月代抜宗という者、あ奴も尾張から送られてきた腕利きだということじゃ」
陸郎の脳裏に、月代抜宗の鋭い眼光が甦った。
「確かに腕利きでした――が、達兄には及びませなんだ」
「いや、あいつはまだその実力を隠しておる。先の上覧試合では、手の内の全ては見せておるまい。奴にはまだ不気味な……隠された力があるのを感じた。得体の知れん男よ……」
達彦はそう呟くと、その感触を自ら確認するかのように沈黙した。
「――さて、そこでじゃ陸郎」
春日達之丞が再び口を開いた。
「そよの輿入れは来年の春の予定じゃが、この冬が来る前にそよを江戸入りさせようとわしらは考えておる。近々、その道行に出立の予定じゃが、お前には達彦とともに、その警護にあたってもらいたい」
「判りました」
陸郎は厳粛な面持ちで答えた。
「うむ、警護につく他二人の者は、達彦が江戸で雇った縁なき者たちで固める。ついては出立の日程を誰にも知られてはならぬゆえ、お前にも二日前になったら知らせる。それまでに、いつでも旅立てる準備をしておれ」
「はい、判りました」
陸郎は複雑な想いを抱えながらも、達之丞に平伏した。
春日家を退出する時分には、既に夜空に月が現れていた。見送りに来た達彦と門扉まで来たとき、陸郎は達彦に思い切って言葉を投げかけた。
「達兄は、そよの輿入れに賛成なのですか?」
「反対する理由もあるまい」
陸郎の問いに、達彦は重々しく口を開いた。
「しかし家光公といえば――稚児狂いの噂で有名ではないですか。世継ぎが出ぬのもそのせいだと。そよがそのような処に嫁ぐのを、本当によいことだと?」
陸郎の言葉を聞いて、達彦は厳しい表情をつくって見せた。
「どのような処であろうと、天下の将軍に嫁ぐのじゃ。女子としてこれ以上の幸せはあるまい」
「本当にそうお考えですか?」
「無論だ」
陸郎と達彦はしばし無言で見つめあった。
流れ星が一つ落ちていったことに、陸郎はふと眼をとめた。
「――妹の幸せを願わぬ兄はおるまい。いかな家であろうと、格式があればいい暮らしもできるじゃろう。それにな、陸郎……」
不意に和らいで見えた達彦の表情に、陸郎は静かな眼差しを向けた。
「事がこのように動いては、もう誰にも止めることはできんのだ。我らは吹けば飛ぶような小さな国の武士でしかない。それとも陸郎、お前ならば、もっと何かできることがあるか?」
責めるわけでもなく、ただ本当に問い尋ねるような達彦の眼差しに、陸郎は沈黙で応えるより他なかった。
達彦は不意に、満天の星空を見上げた。
「――夜空のこの広さに比べれば、我らはなんと小さきものか。のう、陸郎。それでもせめて、この中でもひときわ輝く星のように生きてみたいと思わないか」
達彦は少し寂しさを含んだような微笑を、陸郎に向けてみせた。
(やはり――達兄は達兄だ)
陸郎はそこに、ずっと慕ってきた兄の姿を見出して、懐かしいような安堵に包まれた。
それから数日が過ぎようとしていたが、陸郎のもとに特別な知らせはなかった。まるでこのまま何事もなかったかのように、季節が過ぎていくような感覚を陸郎は覚えていた。
しかし徐々に変わっていった事もある。
「――今日はこれだけか」
稽古場に来た陸郎は、傍らに立った左近に囁いた。稽古場には二、三の者がいるだけである。
負傷して休んでいる美木利光の代わりに左近と陸郎が代稽古を務めていたが、この数日で北見道場からは次々と門下生が姿を消していた。そして離脱した門下生たちは、南條道場に流れていたのである。
陸郎も数日前、目を伏せて視線を合わさぬように通り過ぎる松田玄太の姿を見たばかりであった。