考案
そして実際、二日後に行われた道場内選別試合では、陸郎は左近から一本を取った。
素面で木刀を持って左近の前に立ったとき、その頬に少し肉がついたと、陸郎はやはり思った。身体つきも全体に肉がついた印象を覚える。
左近の剣は守りの固い難剣であった。
圧力をかけて相手に攻めさせながら、その体力と気力が落ちて隙ができたところを狙い打つ。いちかばちかの賭けをしたりはしない、堅実な剣風だった。
陸郎は今までに左近に勝ったことがない。
しかし一年間の研鑽の期間は、二人の力量を逆転させていた。
陸郎は思い切って連続技を仕掛け続けた。左近は最初巧みにそれを捌いていたが、やがて陸郎の勢いを凌ぎきれずに、じりじりと押され始めた。
「小手!」
連続技のなかで、陸郎は敢えて軽く側面を打ち、左近の木刀がそれを受けるところを、すぐさまに切り替えして逆の小手を打ったのだった。
「……」
左近がわずかに、打たれた痛みに顔をしかめた。申し合わせで寸止めか軽く打つことになっているとはいえ、やはり立会いに負傷はつきものだった。
「小手あり」
師の北見丹膳が陸郎の勝利を宣告した。
一礼すると、二人は脇に戻って座した。
陸郎の胸には、勝利の喜びは沸いてはこなかった。陸郎自身、自分の胸中に戸惑いを覚えていた。眼前では四天王の一人、美木利光と、若手の中でもっとも伸びている松田玄太の試合が始まった。
「ヤアッ!」
二人はともに鋭い気合を発すると、じりじりと睨みあった。
美木利光は端正な面立ちをしているが、その大きな目は険しい眼光をいつも放っている。年少の道場生は、その風貌だけで恐がって近寄れないくらいの雰囲気を漂わせていた。
若い松田玄太は対抗するように美木を睨みつけている。が、勝負は一瞬だった。
「う……」
美木利光の身体が一瞬動いたかと思うと、松田玄太はみぞおちの辺りを抑えて片膝をついた。道場生の大半はその早業に何が起きたのか判らず、ただ息を呑んだ。
(小手からの、みぞおちへの突き――)
陸郎は美木利光の技に、秘かに感嘆した。
「次、久澄と美木」
北見丹膳が陸郎を呼んだ。陸郎は木刀を取って立ち上がり、美木の前に向き合った。陸郎が青眼に構えを取ると、美木は木刀をすっと八相に構えた。
ふと、陸郎の脳裏に、先だっての浪人の姿が浮かんだ。
(あの時あの者は、ここから砂を蹴り上げてきた……)
陸郎の気が、目の前の相手から逸れたその一瞬だった。タァッ、と鋭い気合とともに、美木が迷いのない太刀を打ちこんできた。
ハッ、と気を戻して木刀で受けるものの、美木の剣圧は既に陸郎の耐えられる力を上回っており、押し切られた美木の木刀が陸郎の陸郎の左こめかみを痛打した。
「面あり! それまで」
衝撃を受けた陸郎が膝をついて崩れると同時に、試合を止める北見丹膳の声が響いた。
板間に膝をついたまま、陸郎は痛みのする頭に手をあてた。美木が木刀を寸止めしたから致命傷にならなかったとはいえ、衝撃と痛みは後をひいた。
ふと、陸郎が視線を感じて顔を上げると、美木利光が睨みつけるように陸郎を見下ろしていた。
試合の結果を受けて、北見丹膳は道場の選抜として、先鋒に陸郎、中堅に左近、大将に美木利光を選んだ。
「城に用向きがあるから」と言う左近と別れ、一人帰路についた陸郎は背中にかけられた声に振り返った。
「久澄!」
「美木どの……」
歩み寄ってくる美木利光の端正な面立ちに、怒気が現れているのを陸郎は見て取った。
「久澄、貴様の今日の試合はなんだ?」
「なんだと言われましても…」
美木は陸郎より一つ歳上であり、また入門も早い先輩格であった。美木の剣幕に陸郎は気後れした。
「貴様まさか、わざと勝ちを譲ったのではあるまいな?」
「まさか。そんな事はありませぬ。あれが私の実力です」
「……偽りないな」
「ありませぬ」
美木の眼を見返した陸郎のきっぱりとした返事に、美木も僅かに表情を和らげた。
「ふむ、嘘ではなさそうだな。まあ、貴様は他の奴らと違って、嘘や媚で人を欺くような奴ではないのは充分判っておる。信用しよう。
しかし久澄、今日の俺との立合いはなんだ? 全く気迫が感じられなかったぞ。そういえば貴様、ここのところ稽古にも今ひとつ身が入っておらぬようだが」
訝しむような視線を送る美木に、陸郎はためらいがちに口を開いた。
「美木どのは……何のために剣の修行をなさっておられるのでしょうか?」
「――なんだ? 何を突然。修行は強くなるためにするものであろう」
「その力は…何のために積み上げられたものでしょう?」
美木は不審げな顔を見せた。
「それは戦が起きた時、主君のために働けるための備えではないのか? 国のため、と言ってもよい」
「国のため……に、人を斬る技を磨くわけですか――」
陸郎は呟いて視線を外した。
「なにを今更? それが侍というものであろう。戦場だけではない、平時にあっても、いつ不審な者が出るとも限らん。――そういえば貴様、先日、浪人者と切り結んだと聞いたぞ。結局、達彦に助けられたらしいな?」
陸郎はただ黙っていた。
「仮にこちらが木刀だとしても、相手の頭を割るくらいはできる。貴様ほどの腕でそれができなんだとすれば、貴様、おおかた真剣に臆したのであろう?」
「……そうかもしれません」
「ふん、その時の臆病風がまだ残っているから『何のために』などと迷いごとを言うのだ。だが、そうやってお前が迷っているうちに、敵はお前を斬り殺すのだ」
「迷いなく人を殺めることが、それほど大事ですか?」
陸郎は、静かな瞳で美木を見つめた。
美木は一瞬その眼を見つめ返したが、軽くため息をつくと口を開いた。
「…貴様が何を考えてるかは知らんが、今のままでは対抗試合のときも後れをとることになるだろう。……まったく、左近の奴は明らかに稽古不足でなまっているし、達彦は出んと言うし。南條方の勝ちは見えたな」
「……私の代わりに、松田どのに出てもらうように先生に取り計らってもらいましょう」
「馬鹿者! 松田ごときに代表が務まるか! ふぬけてても貴様のほうがまだましだ。下らんことを言ってる暇があったら、もっと稽古に励め」
美木はそれだけ言うと、眼光鋭い一瞥をくれて陸郎の前から立ち去っていった。
*
翌日、陸郎は禅寺の法玄寺にいた。和尚の曇安は、陸郎が幼い頃から読み書きを教わった師でもあった。
「冴えない顔じゃのう」
陸郎を迎えた曇安和尚は、苦笑気味に白い頬髯を撫でた。
齢も七十になろうかという曇安は、闊達とした老人である。陸郎が出会った頃には既に五十を越えていたが、その頃から飄々とした好々爺であり、以来変わった様子がない。
奥の間に座して向き合うと、陸郎は持参した風呂敷を解いて、紐綴じの本を数冊取り出した。
「こちら、ありがとうございました」
曇安はこの辺では有名な蔵書家でもある。本は曇安が陸郎に貸したものだった。
「ふむ…今のお前じゃあ、あまり身にはならなかったじゃろう」
「はあ……」
視線を落した陸郎に、曇安は苦笑した。
「急に鎌倉幕府の頃の、武士のことが知りたいなどと申して、一体、どうしたというのじゃ?」
「武士の心情というのが――判らなくなりまして……」
「で、『いざ、鎌倉』に備えた古の武士たちはどうしておったのか、と思ったわけじゃな。しかし何故に、そのようなことを考えるようになったのじゃ? 例の浪人の一件か?」
陸郎は少し眼を落すと、やがて顔を上げた。
「人を斬ってこその武士、と……あの浪人が申しました」
曇安が話を促すように、軽く頷いた。
「あの日以来、その言葉が頭から離れませぬ。私は人を殺めるために剣を磨いてきたのか? 武士とは所詮そのようなものなのか、と……」
「――で、お前はどう思うのじゃ?」
「国を守り、民を守るために戦うのが武士の役目と思います」
「おためごかしじゃな」
「和尚様!」
曇安の即答に、陸郎は眼を見開いた。
「それはお前が自分を納得させたいための嘘。侍が百姓から奪うための理屈にすぎん」
陸郎は曇安の断言に沈黙した。
「武士は百姓が、他国から攻められるのを守ると申すか? しかし百姓からすれば、領主が変わったところで、つまるところ年貢の納めどころが替わるにすぎん。支配した者とて、長い目で見て、よりよく利益を得ようとすれば、ある程度は民を保護せざるを得ん。それだけの話じゃ。
武士が民を守るなど、偽りじゃ。それはお前も判ったからこそ、冴えない顔でおるのだろう」
「……では武士とは、ただ人を、己がために斬るだけの者なのですか?」
陸郎の問いに、曇安は白い頬髯を一撫でした。
「陸郎、生きるために他を殺し、奪わぬことをせんようなものはおらぬ」
「――」
「死骸を虫が喰い、その虫を鼠が喰い、鼠を鷹が喰う。鷹が死ねば、その死骸をまた虫が喰う。生きものは生きものを喰ろうて生きておるのじゃ。だが陸郎、お前は自分だけは身奇麗でいたいと思わなんだか?」
「……けど和尚様、百姓は殺したり、奪ったりはいたしません」
「百姓とて米や芋を食うであろう。あれも一つの命ぞ。それとももの言わぬから、自ら食ってくれと向こうから願ったとでも申すか?」
「――では和尚様は、武士が百姓に非道を働いても、それも自然の理だから仕方ないと仰るのですか?」
「仕方ないと思うか否かは、そこに関わる者次第じゃ。わしが決めることではない。だがな陸郎、鳥に喰われる虫とて、ただ喰われるばかりのものでもないのじゃぞ。喰われる前に毒液を出したり、腹に毒を仕込んでおるものもおる。その一匹の虫は喰われるかもしれん。が、しかし鳥の方も痛い目を見れば、その後その虫は喰わんようになる。
百姓とてただ奪われるばかりではないのだぞ。あまりに取立てが厳しければ、国や田畑を捨てて逃げることもある。いざという時のために剣術を学ぶような者もおるのじゃ」
「百姓が剣術を……真ですか?」
「別に武士でなければ剣が使えんということはないからの。ただ多くの百姓は、人を斬ったり戦に出たりするのを好まんというだけじゃ。
ただ中には百姓は嫌じゃと言うて戦に出て、侍になろうとした者も昔は多かった。うまくいって出世した奴もおるが、大半は討ち死にじゃ。そういう賭けを好まん者は、畑を耕す。奪う者が幸せで、奪われる者が不幸せとは必ずしも言えん」
「……そうでしょうか? しかし、奪う者は一方的に利益を貪っているのではないでしょうか」
納得しかねる陸郎の様子を見て、曇安は顎鬚をひと撫でした。
「では己は何もせず、他から得たものだけで暮らすものがあるとしよう。その者は百姓から米を取り、それを貯める。しかし他からそれを奪わんとする者が現れるから、その米の一部を使って剣を振り、武の腕の達者なものを雇う。すれば今度は、多くを雇うた者同士の小競り合いが始まり、次は集団での戦に秀でた知恵者を雇う。さらには知恵者同士の競い合いとなり、より世の中の事情、理に通じた者が必要となろう。
だが考えてもみよ。この最初の者は、米のつくり方も、剣の振り方も、戦の仕方も、世の理についても、何一つ知るところがないのだ。この者は全てを持っておると思うかもしれんが、その実、当人は何一つ有するところがないも同然ではないか。どうじゃ?」
「そう…なのでしょうか? 私には判りかねます」
「うむ、判らずともよい。 だが、お前はどうじゃ。こういう生き方をしたいか? それを幸せと思うか?」
「私は……思わないでしょう。けれど、何一つ知るところがないという意味では、私もその者も変わりはしません」
「それが判っておれば、よい方じゃ。じゃが、お前がそう思うのは、お前がおまえ自身について知らぬからだ」
「私が――私自身を知らぬと? どういう意味でしょうか。…いえ、それはどうしたら知れるのでしょう」
「知ろうとしてはならん。知ろうとすれば迷うじゃろう。だが迷うても、ないものはない」
「――和尚様の言ってる意味が判りませぬ」
「うむ、いずれ判るやもしれん。忘れてしまうのも一つの道じゃ。じゃが、お前に一つ考案をやろう。
氷柱は折れ、雪はとけ、水は流るる
この意味を考えよ」
陸郎は神妙な面持ちで、曇安の言葉を口の中で繰り返した。
「無為自然に生きる……というような事でしょうか?」
「お前は利口じゃが、頭で判ろうとしてはいかん。『腑に落ちる』という言葉があるじゃろう。臓腑にすとんと収まるように、自ら見えてくるまでは『判った』と思ってはいかん」
「はい、和尚様」
「まあ、急く必要はない。――それより陸郎、達彦に変わりはないか?」
曇安はふと、話を達彦の方に替えた。陸郎は少し考えたが、いえ特には、とだけ答えた。曇安は何を思ったか、思案げに白い頬髯を撫でた。